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給料日のあしながおじさん  作者: 松山 さくら


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第三章 未来

 夏休みが終わった。アルバイトができなかった分、桃子は神戸の街を散策したり、ボランティア活動に精を出したりしていた。あの野外活動のときに優愛と一緒に過ごして以来、桃子は神戸の子供たちと一緒に過ごしたくなった。だから、主催者の女性にお願いして、他の活動にも参加させてもらっていたのだった。

 夏休みを終えた桃子たちの前に、最初の関門が待ち受けていた。それは前期の定期試験。渡されたのは罫線が一面に印刷された解答用紙。論文形式の解答なんて、これまでに書いたこともなかったけれど、とにかく真っ白な解答用紙を文章で埋めなければならない。桃子は講義を通して考えたことを、必死に書き綴った。『児童心理学』の試験のときは、あの野外活動のときに見た優愛が変貌を遂げる様子を、例に出して書いた。

 その試験も一週間ほどで終わり、大学の事務室に成績表を取りに行く。ドキドキの瞬間、手を震わせながら桃子は成績表を開いた。受けた講義の欄に『優』の文字が続く。「よかった~」と、思わずその場に崩れそうになる桃子だった。

「ねぇ、桃子、テストどうだった?」

 事務室から出たところで、綾乃から声をかけられた。考えてみれば、綾乃と直接会って話すのは、久しぶりだった。夏休みにボランティア活動をしたり、それが明けたら試験勉強に必死になったりして、ゆっくり会って話す時間がなかったのだ。

「うん、まぁまぁかな。とりあえずは単位、全部取れたけどね。そう言う綾乃は?」

 社交辞令のようにとりあえず訊き返す桃子。

「私もなんとか。でも危なかったよ……」

 そう答える綾乃の顔は、なぜか明るかった。『危なかった』のなら、こうも平気でいられないはずなのにと思っていると、その理由がすぐにわかった。

「ねぇねぇ、これみて、なかなかよく撮れたでしょ」

 そう言って、綾乃が見せてくれたのは、手帳サイズのアルバムだった。スマホで撮って印刷した写真だと言う。手にしてみるとずしりと重たい。中をめくると、神戸の街の写真が綴られていた。観光地を写したものではなく、商店街で普段の買い物をする人々の様子を写したものや、川辺で楽しそうに水遊びをする親子を写したものなど、どちらかと言うと、人々の日常の光景を切り取ったものばかり。もちろんその中には、野外活動の日に撮った航平たちの写真も含まれていた。

「へぇ、上手に撮れてるね。でも、どうしてこんな写真ばかりなの?」

 そう訊いた桃子の頭の中には、ハーバーランドや南京町、北野異人館街の景色が浮かんでいた。神戸らしい構図ならそこに行けばいくらでも撮れるのに……。

「私ね、桃子に影響されて、神戸の街を歩いたんだ。自分が生まれ育った街なのに、知っているようで全然知らなかったことがなんだか悔しくて。そしたら、いろんな人に出会えた。みんな、笑顔だった。明るかった。震災と言う辛いことがあったのに、優しかった。私、やっぱりこの街が好き。この街でずっと暮らしていきたい。だからね、神戸の魅力を伝えていけるような仕事に就きたいと思うんだ。みんなが頑張っている姿を発信して、いろんな人に今の神戸を知ってもらいたい」

 そう話す綾乃の声は、一片の迷いもなく、希望で満ちていた。

「そうなんだ。綾乃、やりたいことが見つかって、よかったね。なんだか輝いているよ」

「えっ、そうかな。まだ、自分に何ができるのかを、探しているところなんだけどね。でも、大学を卒業するまでには必ず見つけてみせる」

 綾乃の話を聞いて、なんだか勇気づけられるようだった。

「私も、綾乃には負けないよ。ここで先生の免許を取って、絶対に先生になってみせる」

 意気込んで言ったつもりが、その顔が自分でもおかしくて、桃子は思わず頬を緩める。それを見た綾乃が、クスッと笑う。そうやって、二人で笑い合った。二人の前には、秋の澄んだ空がどこまでも広がっていた。


 その日、アパートに帰った桃子は、階段の下のポストを覗いた。

「あれ、おかしいなぁ……」

 と、空のポストに向かって、独りごとを言う。

 もう長い間、『未来希美』さんからの返事が届かないのだ。今までにも返事が届かないことはあった。でもそれは、その人が旅行に出かけていたからで、普段はマメに返事を返してくれる。むしろ、桃子が返事を書くのをさぼってしまうことの方が多かった。返事がなくなって一か月ほどが経ったときに、桃子は改めて手紙を書いた。夏休みに入って、ボランティアをやっていることを書いたと思う。『未来希美』さんが、どんな反応を見せてくれるかと思って。だが、その返事も届かない。こんなとき、電話番号を交換していれば、電話をかけて確認することもできるのだが、それは相手の方からなんとなく断られていたので、確かめることはできなかった。

 心配事は重なるもので、当初夏休み中だけと言っていたアルバイト先のスーパーが、九月に入ってからもずっと閉まったままだった。大学の前期試験があったので、それはそれで助かったのだが、試験が終わって後期の講義が始まる十月になっても、店は閉じたままだった。心配になって、何度もお店に電話をかけたのだが、一向につながらない。まさかこんなことになろうとは思っていなかったが、こんなことなら店長の自宅か携帯の番号を聞いておくべきだったと思う。それにしても、連絡がないのは不思議だ。いくら家族経営同然の小さなスーパーとは言え、何か事情があるのなら、アルバイトの桃子にもひと言ぐらい連絡があってもしかるべきではないか。いつまでも、宙ぶらりんの状態でいる訳にはいかなかった。ある程度の貯金があるとは言え、無収入になってしまうのは心もとなかった。

 十月最後の日曜日、桃子はアルバイト先のスーパーを見に行くついでに、銀行のATMに立ち寄った。もう長いことアルバイトに入っていなかったので、給料が振り込まれていないことはわかっていたが、最後に給料が振り込まれたときに記帳して以来、銀行口座を放ったらかしにしていたのだ。ATMの差込口に、通帳を開いて入れる。記帳することがなければそのままあっさりと通帳が返されるのだが、中で機械が動く音が聞こえる。不思議に思いながらも、出てきた通帳に目を遣る。桃子は、思わず目を疑った。

 残高が増えているのだ。それも数十万円単位で。アルバイトの給料は、六月分が振り込まれていたのを最後に途絶えていたが、それ以降も七月から九月まで、毎月二十日の給料日に合わせて、『ドイサチエ』なる人から、十万円ずつ振り込まれていたのだ。これで、四月から数えて六か月連続で振り込まれたことになるのだが、十月は振り込まれていなかった。

 途方に暮れる桃子。自転車に乗るのがなんだか怖くて、自転車をとぼとぼと押しながら、スーパーに向かう。やはりと言うか、予想していた通り、シャッターは閉まっていた。『都合により、しばらく休業します』とマジックで書かれた貼り紙が、風雨にさらされて今にも外れそうになっている。裏の通用口にまわって、ドアノブに手をかけてみるも、もちろん鍵がかかっていて開かなかった。

 表に戻って、どうしようかと思案していると、不意に背後から声をかけられた。

「この店が休んでから、ほんと困っているのよね。買い物に行くにも、バスに乗らないといけないでしょう」

 肩をはっと上げて振り返ってみると、そこには見覚えのある高齢の女性が立っていた。腰を少し曲げながらシルバーカーにもたれかかるように立っていたのは、客の女性だった。

「あっ、こっ、こんにちは」

 桃子は、狼狽えながら声に出す。

「あっ、あなたは……」

 そう言いかけた女性は、桃子の正体がすぐにわかったようで、困惑した表情を少し緩めた。

 桃子は、この客の女性に訊いても仕方がないと思いつつ、いてもたってもいられなくて、店長から連絡がなくて困っていることを話した。

 女性は、思い当たることがあるからなのか、視線を桃子から外して遠くの景色を見つめたかと思うと、ゆっくりとした調子で口を開いた。

「奥さんがご病気になられたみたいでね、ご主人、その看病のために店を休んでいたのよ。奥さん、ずっと無理してご主人を手伝っていたみたい」

 そのことは、桃子も店長から直々に聞いていた。妻が入院することになったから、夏休みの間、店を閉めるとのことだった。店長の奥さんは、桃子がアルバイトを始めるまでずっと店に立ち続けていたが、桃子と入れ替わるように店に出なくなった。だから、桃子は店長の奥さんと直接会ったこともなかったし、店長も奥さんについて詳しく話すこともしなかった。

「私は、夏休みの間だけと聞いていました。だから、夏休みが終わったら、またここでアルバイトをするつもりだったのです。だけど、店長と連絡が取れなくて……」

 それに対して、女性は、すぐには答えようとしなかった。その顔は、自分が話してもよいものかと、思案しているようだった。

「奥さん、亡くなられたのよ」

「えっ、亡くなった?」

女性の言葉があまりに唐突だったので、声が一オクターブほど上がってしまった。

「奥さん、だいぶ前から身体がよくなかったみたい。でもね、この店はご主人と一緒に震災を乗り越えて、長年されてきたでしょう。近所に住む私たちのような者が困らないようにと、無理して働いてこられたのよ」

「そっ、そうだったのですか……」

 そう受け答えする自分が、どこか自分でないような気がする。

「そんなときにあなたがこの店にやってきたの。『これで妻を休ませてあげられる』って、ご主人、そう話していたわ。でも、運命って皮肉なものよね。身体を治そうと入院して検査をしたら、癌が全身にひろがっていることがわかったの」

「そっ、それで……」

「もはや、手がつけられないほどに悪化していて、治療はできなかったみたい。奥さん、最後は痛みに耐えながら、亡くなったと言う話よ。これまで一緒にやってきた奥さんに先立たれてしまって、ご主人、きっと今も落ち込んでいると思うわ。でもね、あの人なら、きっとまた立ち直れると思うの。ももちゃんを亡くしたときもそうだったから……」

「えっ、ももちゃんって?」

「あら、前にあなたに話さなかったかしら。ご主人と奥さんとの間に赤ちゃんがいて、震災で亡くなったことを……」

 そんな話を聞いた記憶がある。あのときは、震災で倒れた家の下敷きになって亡くなった赤ちゃんのことが、可哀そうに思えてならなかったのだが、その生後間もない赤ちゃんが『ももちゃん』と呼ばれていたことを知って、妙な胸騒ぎがした。

「あのう、その『ももちゃん』の名前って?」

「確か、『桃子』だったかしら。春に生まれたから、春にちなんで『桃子』にしたって、ご主人、嬉しそうに話していたわ。『桃色の赤ちゃん』だから『ももちゃん』ってね。みんなでそう呼んでいたかしら……」

 軽いめまいがした。もはや、最後の部分は桃子の耳に入って来なかった。

 店長の苗字は、『土井』だった。桃子が初めて面接に行ったとき、店長と同じ苗字であることを知っても、特に何も思わなかった。『土井』なんて苗字は、別に珍しくもなんともなかったから。だけど、あのときの、店長の妙に驚いた表情は、未だに印象に残っている。もしかしたら店長は、桃子の苗字ではなくて下の名前の方に驚いたのではないだろうか。そう、『土井桃子』……それは桃子自身の名前であったし、店長が震災で亡くした赤ちゃんにつけた名前でもあった。

 そんな偶然は滅多なことでは起こらないだろう。しかも、考えてみれば、桃子は震災が起きた年に生まれている。それはもはや、偶然を通り越して、奇跡的な出会いだったのではなかろうか。

 桃子は、改めてこれまでの店長の言動を思い浮かべてみる。店長は、ふとやって来た桃子に、震災で亡くなった『ももちゃん』と言う赤ちゃんを重ねたのだ。だからこそ店長は、アルバイトの桃子に、ことのほか親切に接してくれた。毎晩、手料理を振る舞ってくれたし、知らないうちに自転車の修理もしてくれていた。初めての一人暮らしが不安なく送れたのも、そんな店長の優しさがあったからこそのことだった。いや、桃子には、それは単なる『優しさ』に映っていたのかも知れないが、店長にとっては、親切を超えたもの、そう、親が子を想う気持ちであったのかも知れない。

 そんなことを考えていたら、桃子は、全身の震えが止まらなくなった。女性に何と言って別れたのかも覚えていない。とにかく自転車を押して、夢中で坂を下りたことだけは確かだった。そう、太陽が雲に隠れ、濃い青の海と、灰色がかった街に向かって……。


 神戸市東灘区は、東端で芦屋市と隣接し、海岸から続くゆるい傾斜が山麓まで続く様子は、海から眺めてみてもその地に立って眺めてみても、風光明媚と言う言葉がぴったりな街だった。六甲の山々に降った雨水は地下水として麓に流れ、やがて『宮水』として湧き出る。その硬度の高い水は酒造りにぴったりで、この地で酒造りが盛んになったいわれでもあった。

 大阪と神戸とを結ぶ私鉄駅に降り立った桃子は、コンクリート塀に囲まれた狭い道路を歩いていた。背の高い白壁の倉庫が迫るように左右に建ち並び、煤けた煙突からは水蒸気のような白い煙が漂っている。鼻をつく甘酸っぱい香りで、そこが酒蔵であることがわかった。

 さらに歩いていると、いつの間にか住宅街へと入っていた。海が近いのか、潮の香りが色濃く漂う。ときおり聞こえてくる腹に響く重厚な音は、汽笛だろうか。考えてみれば、神戸の街のどこにいても、汽笛の音が聞こえるような気がする。これほどまでに海と街、さらに言えば工場と家々とが共存する街は他にはないのではないだろうか。

 スーパーの客の女性から教わった店長の自宅は、そんな住宅街の中にあった。何の連絡もなしに突然訪れることは失礼にあたるのかも知れないが、自分の名前の背後に隠されていた真実に気づいてしまった以上は、そこに行ってこれまで目をかけてくれたことへの感謝の気持ちを伝えなければならなかった。

 スマホのアプリに示された場所は、ごく普通の一軒家だった。長田の街を歩いたときもそうだったが、まわりに建っている家がどれもまだ新しい。震災が起きたとき、この辺りは特に揺れが激しかった地域だと聞いていたから、こちらは火災に巻き込まれたと言うよりも、揺れで建物が激しく倒壊してしまい、その後で新しい住宅が建てられたのではないかと思う。

 震える指でインターホンを押してみる。これから会おうとしている人のことを変に詳しく知っているだけに、最初にどう声をかけたらよいかを考え巡らせておきながら、ふさわしい言葉は見つからなかった。

「はい、土井ですが」

 間違いなく、店長の声だった。桃子はすかさず自分を名乗る。

 すぐに玄関の扉が開いた。出てきた店長は、げっそりと言う言葉がちょうどいいくらいに、痩せこけていた。

「あぁ、桃子ちゃん。どうぞ、中に」

 かつてのお店で接客していたときの威勢のよさは、もはやどこにもなかった。あるのは、悲壮感だけ。それが、身体全体を覆っているものだから、訪れた桃子でさえも暗い気持ちになってしまう。

 店長は、奥の部屋に通してくれた。仏壇があったが、その横にはまだ祭壇が飾られている。恐らく、四十九日の法要は済んでいないのだろう。

 来る途中で用意した物を祭壇の前に備える。遺影には、店長の見た目の年齢からすればだいぶ若そうな女性が、微笑んでいる。奥さんには一度も会ったことはなかったが、夫思いの優しそうな奥さんの性格が、ありありと伝わってくるかのようだった。

 祭壇の前で手を合わせ、向き直った桃子に、店長は「連絡もできずに……でも、来てくれてありがとう」とだけ言うと、キッチンに入っていった。

 店長が戻って来るまで桃子は目のやり場に困り、祭壇をぼんやり眺める。蝋燭の炎が、微かな風を感じて、ゆらゆらと揺れていた。立ち上る線香の一筋の煙が、物悲しさを増幅させるようで、自然と涙がこぼれる。

「一人になってしまったから、何も用意できなくてごめんね」

 店長はそう言うと、桃子の前にお茶と茶菓子を置いた。そのまま何かを話すでもなく、まるで正気を失ったかのように、遺影を見つめ続ける。

 出されたものにすぐに手をつけることは、失礼にあたると祖母から教わったことがあったが、沈黙の時間が耐えがたかった。ひと口啜ったお茶は、まるで味がしなかった。

 こんなとき、人はどんなことを話すのだろうか。故人に世話になったことのある人なら、その人との思い出を語ることができるだろう。そうやって、亡くなった人のことを思い出すことが、その人の供養に繋がると聞いたことがある。でも、奥さんのことは正直言って、最近まで何も知らなかったのだ。だからと言って、奥さんに先立たれた店長に向かって、「大丈夫ですか」なんて軽率なことは、口が裂けても言えない。大切な家族を失って平静ではいられないことは、両親を早くに亡くした桃子には痛いほどわかっていた。

 そうやって、沈黙のときがどれだけ過ぎただろうか。午後三時を告げる置時計のメロディが流れ出すタイミングで、徐に店長が口を開いた。

「実は……桃子ちゃんに謝らないといけないことがあるのです」

 店長が唐突に言ったので、桃子はひるんでしまった。「私に、謝らないといけないこと? なんだろう?」と、思いを巡らせる。真っ先に浮かんだことと言えば、夏休みが明けてからも連絡をしてこなかったこと。確かにそうだろう。それで、桃子がやきもきしたのは確かなことだった。だけど、そのことなら理由はわかっている。最愛の家族が病に倒れたのだから、その人の看病に一生懸命になるのは当たり前のこと。ましてや、その人が亡くなってしまったのだ。取り乱してしまって、連絡が取れないことだってあるじゃないか。そんな店長のことを責め立てる気持ちは、これっぽっちもなかった。

 桃子はいずまいを正すと、俯き加減の店長にそっと訊いてみる。

「私に謝ることですか。あっ、もしも私に連絡をしなかったことでしたら、どうか気にしないでください。私、店長が大変だったことは、それとなく聞いていましたから……」

 それを聞いた店長は、話しづらいことを打ち明けるときのように、軽く咳ばらいをすると、わざと少し間を置いてから、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「今から十五年ほど前のことです。私たちの店は、なんとか元の場所で再開を果たして、順調に店をやっていました。ずっと更地だったところに新しい家が建ったり、道路が広くなったりして、街はどんどんきれいになっていきました。だけど、いくらまわりがきれいになったとしても、傷ついた私たちの心は変わりませんでした。子供を亡くした悲しみで、かみさんは、その頃、気がおかしくなっていました」

「そのときの赤ちゃんと言うのが、桃子さんですよね」

 桃子が知っていたことに、ほんの一瞬、目を大きく開きながらも、そのまま話を続ける店長。

「そう、桃子、親しみを込めてかみさんが『ももちゃん』と呼んでいた赤ちゃんです。そんなとき、趣味で文通をしていたかみさんの目に、一人の女の子の名前が留まりました。その子の名前も桃子、あろうことか、苗字も同じ土井でした。何かの間違いかと思いつつ、かみさんはその子と、文通を始めました。訊けば、亡くなった桃子と同じ齢だった。かみさんは、『モモちゃんが帰ってきてくれた』と目を輝かせながら叫んで、夢中で手紙を書きました」

「そっ、そんな……ことが……」

 そう呟いた桃子の脳裏には、一つの疑問があった。どうやら、店長の奥さんが書いていた手紙の相手は、自分のようだった。土井桃子と言う名前で文通をしている人なんて、日本全国を探したって、自分くらいしかいないだろう。だけど、手紙をやりとりしていたのは、『未来希美』と呼ぶ人だった。しかも手紙の中で、相手は桃子と同じ齢だと話していた。

「あのう、『未来希美』と言うのは……」

「それは、ペンネームと呼ぶものでしょう。カミさんは自分の名前がおばさんじみているからと言って、その名前を考えつきました。『未来』と『希望』、神戸に住む私たちみんなが、大切にしてきた思いです。それを、自分のペンネームにしたためて、桃子ちゃんに手紙を書いたのだと思います」

「そっ、そうだったのですか……私、全然気づかなくて……」

 もしもそのことを知っていたなら、自分が神戸にやってきて、あの店でアルバイトを始めたときに、奥さんのためにできることがあったのではないか。そう思うと、自分の軽率さに腹が立ってきた。

「いえいえ、桃子ちゃんが気づかなかったからこそ、かみさんが亡くなる間際まで、『桃子』のそばにいることができたのですよ」

 そこまで話したところで、店長は重い腰を上げるように立ち上がった。奥の箪笥の抽斗から、何かを取り出すと、ゆっくりと戻ってきた。

「これはね、かみさんが『桃子』に送った仕送りの明細書です。桃子ちゃんが大学に通うようになって一人暮らしを始めたことを知ったかみさんは、『桃子』に送るつもりで毎月仕送りをしていたのです。振込先は、桃子ちゃんの給料を振り込むために聞いていましたからね」

 手渡された明細書には、『ドイサチエ』つまり、店長の奥さんから、『ドイモモコ』つまり、桃子自身に送られていたことが、しっかりと記録されていた。

 それを見ていたら、自然に涙が溢れてきた。それは、両親を早くに亡くして、仕送りと言う、親からの愛情を受けられなかったことへの、寂しさからだったかも知れないし、店長の奥さんが毎月の仕送りに託した愛情を、自分が受け取っていたことを知っての、感謝の気持ちからだったかも知れない。

「私たち夫婦にとっての桃子ちゃんは、希望でもあり夢でもありました。桃子ちゃんが立派に先生になるのを、私たちはいつも陰ながら応援していました。そんな大事なことを、今まで黙っていて、本当にごめんなさい。そして、夢を見させてくれてありがとう」

 店長はそこまで言うと、感極まって号泣した。それに合わせて、桃子も泣き叫ぶ。

「お父さん、お母さん、ずっと見守っていてくれて、本当にありがとう」

 桃子の言ったことが、遺影の中の奥さんに届いたのだろうか。ほんの一瞬、蠟燭の炎が大きく揺れると、また元の姿に戻った。


 店長の家を出た頃には、空が赤く染まっていた。風が出てきたのか、潮風が頬にあたって冷たく感じた。それにつれて、駅へと向かう足も速くなる。

 ホームに上がると、電車は出た後だった。ベンチに座って、ほんやりと景色を眺めてみる。正面に見える山並みに、明かりが灯り始めた。あの山の上からは、百万ドルの夜景が見られると言う。その明かりの一つひとつに、綾乃や優愛と航大、それに店長……たくさんの神戸の人たちの思いが灯っている。いつか、自分もあの山の上から、光り輝く神戸の街並みを眺めてみたいと思った。

 鞄の中から、封筒を出してみる。さっき、店長の家を出るときに、「これは、かみさんが最後に出そうと思って、書きかけた手紙です」と言って、渡されたものだった。だけど、書く力が残されておらず、ほんの数行しか書けなかったとも付け加えた。

『土井桃子様』と表書きされた封筒を、そっと開けてみる。一枚の便せんが出てきて、そこにはこう書かれていた。


『桃ちゃんは、私の足元を照らす希望の明かりでした。これからは、私が神戸の街の明かりとなって、桃ちゃんを照らし続けます。だから先生になる夢を叶え……』


 電車の到着を告げるアナウンスが流れた。桃子は、目を閉じて神戸の街の明かりを思い浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。

 電車の扉が開いて、家路を急ぐ人たちが、いつもと変わりなく降りていく。

「私、頑張るからね」

そう心の中で誓うと、桃子は電車に飛び乗った。

桃子を乗せた穏やかな海の色の電車は、神戸の優しい明かりの中を、どこまでも突き進んでいった。


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