第二章 綾乃
桃子のアルバイト先のスーパーには、主に近くに住む高齢者が買い物に訪れていた。駐車場がないような小さなお店だったので、マイカーのある子育て世代の人たちは、車で少し行ったところにある大型のショッピングモールまで足を延ばしていた。そこには全国チェーンのファストファッションのお店やドラッグストアなどが入っていて、ひと通りのものなら何でも揃う。このような店の住み分けは、日本全国どこの街でも見られるような光景だった。
桃子は、物覚えが早かったので、仕事はすぐに覚えた。大学の講義のないときは、大抵の時間アルバイトに入っていたので、顔見知りになる客も多かった。
ある日、そんな客たちの一人が、レジに入っていた桃子に声をかけてきた。
「いつも、よくしてくれてありがとう。あなたがこの店に来てくれるようになってから、なんだかこの店で買い物をするのが楽しみになったわよ」
と、シルバーカーを押しながら話す高齢の女性。
「あっ、ありがとうございます。カゴ、運びましょうか」
そう言って、桃子はいつものように、女性が買い物をしたカゴを、サッカー台のところまで運ぶ。
「いつも助かるわ。私みたいに齢をとると、足腰が悪くなってこれを運ぶだけでも一苦労。ここの和男さんから聞いたけど、あなた、そこの大学の学生さんなんですってね」
桃子は、あたりを見わたし、レジを待っている人がいないことを確認すると、
「あっ、はい。教育学部生です。元々は大阪で働いていたんですけど、どうしても学校の先生になる夢を諦められなくて、この齢で大学生をやっています」
と、笑ってみせる。
途端に、神妙な面持ちになる客の女性。話してもよいものかと逡巡を巡らせてから、徐に漏らした。
「この店の和男さんにも、大きくなったらきっとあなたぐらいの娘さんがいたのよ。あっ、娘さんとは言っても、まだ生まれて一週間ほどの女の子の赤ちゃんだったんだけどね」
「へぇ~そうなんですか」
と、ほんの少し驚きの表情を見せる桃子。でも、女性が次に言った言葉は、そんな桃子の驚きの感情を悲しさへと変化させた。
「その赤ちゃん、亡くなったの。あの震災でね」
「えっ、亡くなった? しっ、震災で……」
『震災』と言う言葉に、桃子の感情が大きく揺さぶられる。ここのところ、神戸の街を歩くたびに、否が応でも耳に入ってくる言葉だった。
「そう、倒れた家の下敷きになってしまってね……」
そう言ったところで、目頭を拭う女性。
「和男さん、今の奥さんと結婚して、長い間子供に恵まれなくてね。子供を諦めようかと思っていたときに授かった赤ちゃんだったの。それまでは奥さんと二人で、ここよりも小さなお店を切り盛りしていたんだけど、ご主人、それはそれは、奥さんの身体を労わってね。朝早くから夜遅くまで、ずっと一人で働いていたわ。私たち顔見知り同士だったから、ときどき奥さんの様子を見に行っては、『体調はどう? 何か手伝えることはない?』って、声をかけていたの。もうすぐ生まれてくるお腹の赤ちゃんを思いながら、この子が大きくなったら、春の穏やかな季節のように、優しい人になって欲しいと願いを込めて、ご主人と一緒に名前を考えたと話していたわ」
「店長にそんなことが……」
「あら、ごめんなさい。話し込んじゃったわね。お客さん、待っているから行ってあげて」
レジの前で、桃子の様子を訝しげに見つめる客の姿があった。桃子ははっと我にかえった。慌ててレジに戻る。
「いっ、いらっしゃいませ」
客にかける声が裏返ってしまった。手が震えて、バーコードをうまくスキャンできない。さっきの話の続きが知りたくて、レジを打ち終えた桃子はさっきの女性の姿を探したが、どうやら店を出てしまった後だった。
「この子が大きくなったら、春の穏やかな季節のように、優しい人になって欲しいと願いを込めて……」
女性の言葉が桃子の脳裏を反芻した。
「桃子ちゃん、お疲れ様。今日はサービスデーだから、お客さん、多くて大変だったでしょう」
声をかけてきたのは、いつもと変わらない様子の店長だった。
「あっ、はい。でも、お客さん、上手い具合に分散して来てくれましたので……」
そう答える桃子の声は、少し上ずってしまった。客の女性から聞かされたことがある意味でショックだったからで、店長にそのことを確かめてみたい気持ちと、それをしてはいけないと言う自制が、桃子の心の中で激しくぶつかり合っていた。だけど、結局聞けなかった。今さら持ちかけたところで、店長の心の傷をえぐり出すことになりかねなかったし、その日も桃子のために夕食を作ってくれている店長の気持ちを、ありがたく受け取っていたかった。
「いつも、鍋ばかりでごめんね。残り物となると、どうしても野菜や魚になってしまうから……」
「いえ、いつも美味しくいただいています。一人暮らしだと、どうしても栄養が偏ってしまいがちなので、こうしてバランスの取れた食事を食べられるのは、本当に助かっています」
そんなやりとりをしながら、桃子は熱々の鍋の具材を、息を吹きかけながら口に運んだ。
いつもは味噌がきいているのに、その日はカツオでとっただしだったので、あっさりした味だった。
「あっ、そうそう、桃子ちゃんの自転車、パンクしていたから、直しておいたよ」
と、店長が思い出したかのように漏らす。そうなのだ、店に来る途中で前のタイヤがパンクしていることに気づき、途中から自転車を押しながらやってきたのだった。結局、スーパーに着いたのはアルバイトに入るギリギリの時間になってしまい、心配した店長に、桃子は「講義が長引いてしまい、大学を出るのが遅くなってしまったので……」と、言い訳をしてしまった。
「えっ、すみません。そんなことまでやっていただいて……」
と、具材を頬張りながら答える桃子。
「自転車置き場を整理していたら、桃子ちゃんの自転車がパンクしていることに気づいたからね。これでも昔は、よくお客さんから頼まれて、パンクの修理もやっていたから。小さな店だから、何でもやらないと。さぁ、ゆっくり食べていってね」
店長は、そう言い残すと、売り場へと駆け出していく。時計に目を遣ると、納品のトラックがやってくる時間だった。
食べながら、桃子は思った。どうしてこの店長は、自分にここまで親切にしてくれるのだろうかと。前に店長が話していたように、震災で遺された人たちが互いに手を取り合って、復興に尽力したことは、大学の図書館で震災のときの様子を綴った本を読んで詳しく知った。震災の後、全国からたくさんの人たちが、この地にボランティアに訪れたのだと言う。どこの誰ともわからない人々同士で、助け合った。『ボランティア元年』と言う言葉があるが、それはここで地震が起きたときにできた言葉だった。
こうやって毎晩のように温かい夕飯を作ってくれて、自転車の修理もしてくれて、店長の単なる親切心からではないような気もする。だけど、そんなことは訊けなかった。訊いてしまうと、今の関係が壊れてしまいそうで怖かった。
わずかに鍋から立ち上る湯気をぼんやり見つめながら、桃子はお腹いっぱいになるまで食べ続けた。
まっすぐに伸びるコンクリートの線路、その線路が高度を上げたとき、足元に青い海が迫った。その向こうには高層ビルが現れ、背後に山の緑が視界の横一面に広がる。
「私、この電車の後ろの席から見る神戸の街が一番好き」
そう言う綾乃に誘われて、桃子が乗っているのは、三宮と神戸空港とを結ぶ『みなとライナー』の電車だった。神戸の街が徐々に遠ざかっていくのを見るのは、まるでこれから青い空に向かって旅立っていくかのよう。恐らく帰りにこの電車に乗れば、今度は神戸の街が「おかえり」と言って、旅人たちを優しく出迎えてくれることだろう。
「ねぇ、桃子、大阪って、どんなところ?」
ぽろりと漏らした綾乃。その言葉の意味がよくわからずに答えに窮してしまう。
「どんなところって、人がいっぱいいて、電車がいっぱい走っていて、大きな建物が建っていて……あっ、テーマパークもあるかな」
生まれてからずっと見てきたはずなのに、そんなことしか答えられない自分が恥ずかしい。他にも大阪らしいところは探せばいくらでもあるはずなのに、それが出てこないのだ。
「私ね、この街に生まれ育ったでしょ。でも、この街のことを知っているようで知らなかった。そんなときに、桃子に出会ったんだ。桃子は、神戸のことを知ろうと、色々なところに行ってるじゃない。私、そんな桃子に嫉妬しちゃった。私も、まだ知らない神戸のことを、知ってみたいと思った。この先のことはどうなるかわからないけど、この街で育ててもらった恩返しができればなと思い始めてる。だから、時間のある今のうちに、この街のいろんなところを訪れてみたいの。この街のいろんな風景に出会って、私に何ができるかを考えてみたい」
そう言った綾乃の表情は、いつになく真剣だった。綾乃が言ったように、桃子は神戸の街を歩いていて出逢ったことを、綾乃に話していた。震災のことを耳にすることが多かったので、自分だけでは消化しきれずに、誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない。そんな桃子の話を、最初は不思議そうに聞いていた綾乃だったが、いつからか「それってどういうことなんだろう」と、逆に訊き返すことが増えてきたのだ。
電車が進むにつれて、神戸の街が遠ざかっていく。三宮を出たときは賑わっていた車内も、いつしか閑散としていた。こんな日曜日の昼間に、空港に向かう人なんていないのだろう。なんだか、このままどこか遠くに行ってしまいそうで、急に寂しくなってきた。
「ねぇ、綾乃、私ね、両親が早くに亡くなったでしょ。それからおばあちゃんの家に引き取られて暮らしてきたけど、本当のことを言ったらずっと寂しかったんだ。そりゃ、大阪にいたら、人がいっぱいいて賑やかだよ。でもね、幸せそうな家族が街を歩いている姿を見ていたら、悲しくなってくる。どうして私だけ、こんな思いをしないといけないのかって。だから、本当のことを言うと、大阪を離れたかったの」
「そうだったんだ……」
これまでに誰にも話せなかったことだった。その話が重すぎたのか、綾乃が黙り込んでしまう。そのまま時間だけが過ぎ去って、いつしか電車は神戸空港に到着していた。
明るくて開放的な建物だった。大阪の関西国際空港のような外国人たちが行き交うような賑わいはなかったけれど、こじんまりした雰囲気が、かえって重苦しかった桃子の心を自然に解き放ってくれるようだった。
どちらから言い出したともなく、二人はカフェに入った。港町神戸にふさわしい、赤レンガ倉庫を思い浮かべるような内装の、洋風のお洒落なお店。そこでランチを食べた。大きな窓から神戸の山並みをはるか遠くから見るのは、まるで船に乗っているかのよう。二人で向かい合って、それをいつまでも眺めていた。
「ねぇ、屋上に上がってみない?」
何かを思いついたように、目をバッチリ、大きく開ける綾乃。
「屋上?」
空港の屋上に上がる意味がよくわからず、桃子は首を傾げてみる。
「うわぁ、きれい」
「ほんと、広いね」
屋上のテラスに上がった二人の前に広がったのは、一面の青の世界。雲一つない初夏の空と紺碧の海の青さが見事にコントラストを描いていて、太陽の温もりと海からのそよ風が二人をやさしく包み込む。
「ほら、桃子、あそこ見て」
綾乃が指さした先には、今まさに飛び立とうとしている飛行機。ほんの一瞬、翼が太陽の光を浴びて輝いたかと思うと、胸に響く轟音を残しながら、大空へと飛び立っていった。
その様子を眺めながら、桃子が漏らした。
「私、いつか、あれに乗ってどこか遠くに行って、神戸のよさを日本中のみんなに伝えたいな」
「すごく、いい夢だね。よし、綾乃のその願いが、いつか叶いますように……」
そう言って、両手を合わせて祈る仕草を見せる桃子。それから二人は、自然に見つめ合う格好になった。思わず笑みがこぼれたのがなんだかおかしくて、二人で笑い合った。
最近は、郵便局に行かなくても、コンビニではがきや切手が買えるので便利になった。だけど、その切手代も馬鹿にならなくなってきた。度重なる値上げ。桃子が文通を始めた当時は、封書で送るのに八十円で済んだのに、消費税が上がったタイミングで八十四円になり、ついには百円を超えた。あらゆるものの値段が上がる中、また、郵便を利用する人が減る中では仕方がないことかも知れないが、頻繁に手紙を出す者にとってはかなり痛い。
あの『未来希美』さんに手紙を送るために切手を買った桃子は、帰りに銀行に立ち寄った。先月分のアルバイトの給料を確認するためだった。大きな会社ならば、給料日のたびに明細を出してくれるが、桃子のバイト先のような零細なスーパーでは、直に通帳に記帳して確認するしかなかった。店長に頼めば慣れないパソコンを操作して出してくれるかもしれないが、あの忙しそうに立ちまわる店長に余計な仕事を頼むのは、何となく気が引けた。
いつものようにATMに通帳を入れると、それを自動で認識して数字が印字される。元々出し入れの少ない口座だったので、記帳もあっという間だった。
家賃や光熱費などは、元々使っていた別の銀行から引き落としていたので、直ちに残高を気にする必要はなかったのだが、自分の労働の結果がどうだったのかはやはり気になってしまう。
恐る恐る通帳を覗いた桃子は、唖然とした。やはり残高が思っていたよりもかなり多かったのだ。『給料』と種別欄に書かれているのは、アルバイト先から振り込まれたものだとすぐにわかったが、問題はその次に印字された『ドイサチエ』なる人物からの振り込みだった。金額は、先月と同じく十万円。それも、アルバイト先の給料日と同じ日に振り込まれているのだ。
「ドイサチエ、ドイサチエ……」と、桃子は自分の身のまわりの人の顔を思い浮かべてみる。真っ先に浮かんだのは、祖母の松子だった。だけど、松子にこの口座の番号を知らせた記憶はない。一般の大学生のように仕送りをしてもらっている訳ではないし、第一、この口座はアルバイト先からの給料を受け取るためだけに作ったものだった。
念のために、近況報告を兼ねて、松子に電話をしてみたが、予想通りと言うか、そんな送金をした覚えはないと言う。そもそも、夫を早くに亡くし、細々と年金暮らしをしている松子に、十万円もの大金を送金する余裕などないはずだった。
頭の片隅を、『詐欺』と言う言葉が過った。近頃、なんとか詐欺とか言って、手口が巧妙化してきているとテレビ番組で報じられていた。しかし、お金を抜き取れる詐欺はあったとしても、逆にお金を振り込まれる詐欺なんて聞いたことがなかった。
なんとなく気持ち悪くなって、その日の夜、綾乃に電話をした。事情を聞いた綾乃は、不思議がりながらも、「それって、昔、本か何かで読んだ『あしながおじさん』みたいだね。あっ、『サチエ』さんなら、『あしながおばさん』かな」と、言った。その話なら、桃子も聞いたことがある。実際に本を読んだ訳ではなかったが、困窮した若者に、見知らぬ誰かが手を差し伸べてくれると言った類の話だろう。現に、その名前をモチーフにした団体があって、そこからの奨学金で学業を続けることができている学生だっているだろう。だけど、桃子はあくまで自分で貯めた貯金を崩して、学費を払っているのだ。見知らぬ誰かから、援助されるような覚えはなかった。
だけど、振り込まれてしまった以上は、どうしようもないのだ。二か月続けてとなると、さすがに誤送金と言うことはないだろう。先月振り込まれた十万円は、手つかずのまま置いている。だから、この新たに振り込まれたお金も、そうするより他はなかった。
なんとなくもやもやした気持ちを抱えながらも、桃子は銀行を後にした。朝食の食パンを買いに、『未来希美』さんから教わった、老舗のベーカリーへと自転車を走らせた。
早いもので、大学は夏休みに入っていた。高校までしか行ったことのなかった桃子は、大学にも夏休みがあることを知って驚いたが、考えてみれば、大学は高校までと違って、全国から学生たちが集まってきていた。そんな彼らが久しぶりに故郷に帰って、心配する親たちに元気な姿を見せるためにあるのだろうと、一人納得する。
そんな夏休みを利用して、同期生たちはサークル活動に大忙しのようだったが、もともと勉学に励もうと思っていた桃子は、学業以外にはアルバイトをしていただけで、そのアルバイト先も、店長の奥さんが病気で入院が必要になったとかで、しばらくの間、店を閉めることになった。
綾乃から野外活動のボランティアに誘われたのは、そんな夏休みに入ってすぐのことだった。神戸で活動する教育団体が、子供たちを集めて六甲山系に山登りをするのだと言う。そのサポートに、一緒に行かないかと言う誘いだった。山登りと聞いて、桃子は尻込みした。これまで、まともに運動などしたことがなかったからだ。しかも、大学の裏に、まるで高い壁のようにそびえ立つ六甲山系に登ると言う。『野外活動』と掲げるぐらいだから、まさか、ロープウェイでひとっとびなんてことはないだろう。自分に子供たちのサポートなんて務まるかと思い悩んだが、綾乃はと言うと、「ちょっと裏山に登るくらいだから」と、いとも簡単に言うものだから、しぶしぶ桃子も参加する羽目になった。
集合場所は山の麓の集会所、そこにいたのは子供がざっと二十名ほどで、あとはそれと同じくらいの人数の学生達だろうか。行ってみて聞かされたのだが、子供たちには一人に一枚ずつ地図が渡されていて、子供たちがそれを見ながら、ゴールの山頂を目ざすのだと言う。子供たち一人ずつにつく大人は、あくまでサポート役。子供たちの自主性や何かをやり遂げようとする強い心を養うことが目的なのだから、道案内などむやみに口出しをしてはいけないと、主催者の女性は語った。
「私に、務まるかなぁ」
と、あくまで弱気の桃子に、綾乃は、
「大丈夫、摩耶山は標高七百メートルほどの低い山だし、山頂まで登山道が整備されていて、毎日散歩で登っている人がいるくらいの山だよ」
と、自信ありげに言う。
すぐに、子供たちとのペアが決まって、桃子は小学三年生の優愛と、綾乃は五年生の航平と一緒に、ゴールを目ざすことになった。子供たちが遊んでいる様子を見ていて、優愛はどちらかと言うと引っ込み思案の大人しそうな女の子で、逆に航平は責任感の強そうなお兄さんタイプのように見えた。
やがて、一組ずつ、時間差をつけて出発していく。桃子たちの番は最後の方だったので、それまでの間、優愛と打ち解けておこうと、桃子は優愛に自己紹介をして、好きな勉強のことや、普段どんなアニメを見ているのかを訊いた。だが、優愛は初めての大人を前にして緊張しているのか、なかなか話そうとしない。一方で、綾乃はと言うと、航平とすっかり打ち解けていて、しりとりをしながら楽しんでいる。そんな姿を見ていたら、自分よりも綾乃の方が、ずっと先生に向いているとさえ思えてきて、なんだか焦ってしまった。
「優愛ちゃんね、いつもこんな調子なのよ。今日も、今さっきまでお母さんのそばを離れなかったんだから」
優愛に聞こえないように小声で話しかけてきたのは、主催者の女性だった。齢は六十を超えているだろうか。
「さっき、桃ちゃんから聞いたけど、あなた桃ちゃんと同じ教育学部の学生さんなんですってね。実は私も、元は小学校の教壇に立っていたの。定年になって、それでも子供たちとかかわっていたくて、ここでボランティアをしているんだけどね。私も最初はそうだったわ。子供たちにどう接したらいいか悩んだものよ。でもね、子供たちと一緒にいたら、自然にわかってくるわ。その子が、どんなことを思っていて、何をしたいと願っているのかが見えてくるの」
「どんなことを思っているかですか……」
「そう、子供たち一人ひとり、喜びや悲しみ、希望や不安、いろいろなことを感じているのよ。ある意味で、大人以上に繊細かも知れない。それらを受け止めてあげて、子供たちが自分の足で前に進んで行くのをそっと見守ってあげるの。勉強を教えるのも大事かもしれないけれど、それが先生の大切な役割だと、私は思うわ。あっ、そろそろあなたたちの出番ね」
女性はそう言うと、今度は跪いて、優愛と目を合わせた。
「優愛ちゃん、あそこを見てみて。これから優愛ちゃんが進んで行く道よ。歩きながらしっかり考えるのよ。それで困ったら、自分の気持ちをこのお姉さんにちゃんと伝えること。二人で力を合わせたら、必ずゴールまでたどり着けるからね」
それを聞いた優愛は、「うん」と、声にならない声で答えた。
「さぁ、いってらっしゃい」
女性に見送られながら、桃子たちは登山道に取りかかった。一度だけ後ろを振り向いた。さっきの女性とともに、最後に出発する桃子たちが、大きく手を振っていた。
最初から、上りの階段が続いた。見上げると、それがはるか上まで続いている。登り始めてすぐに、桃子の息が上がった。「これのどこが裏山なのよ」と、自分をここに連れて来た綾乃のことが恨めしく思える。それに、山の中に入った瞬間から、まるでシャワーのように降り注ぐセミの鳴き声がうるさくて仕方がない。『蝉しぐれ』なんて風流な言葉があるけれど、そんな生優しいものではなかった。耳をつんざくような音と言えばよいだろうか。今の桃子にとっては、夏の風物詩どころか、厄介な騒音でしかなかった。
木陰を歩いているはずなのに、暑かった。たちまち汗が滝のように流れる。一歩山に入れば避暑地のように涼しげな空気が漂うと誰かが言っていたが、それは昔の話だろう。夏と言えば、体温を上まわるような殺人的とも言える暑さが襲ってくるのが、当たり前になってきているのだ。そんなある意味で、早くも脱落気味の桃子を横目に、優愛はと言うと、黙ってひたすら登っていく。まだ登り始めたところなので、いきなり道に迷うとは思えなかったが、優愛が何も喋らない分、桃子は不安になってきた。
「ねぇ、優愛ちゃん、学校ではどんな遊びが流行ってるの?」
「……」
「突然訊かれても、困っちゃうよね。それじゃ、算数の勉強は好き?」
イエスかノーぐらい答えてくれるだろうと期待しながら訊いたが、返ってきた答えは無言。
こんなとき、綾乃がいれば、「クイズの出し合いっこをしよう」とか言って、その場を盛り上げてくれるんだろうなと思いつつ、今は自分一人しかいないので、自分でなんとかしないといけなかった。
今の子供たちの間で流行っているのはなんだろうと、あれこれ思い浮かべてみる。足元の階段はいつしか、地面がむき出しの山道に変わっていた。足元に、木の太い根っこが這っていて、歩きにくいことこの上ない。苦戦する桃子とは対照的に、優愛は足元の悪さをものともせずに黙々と登っていく。案外、子供の方が、環境への適応が早いのかも知れないと思ってみるも、これではなんのために優愛に付き添っているのかがわからない。
桃子は、なんとか優愛の口を開かせようと、必死だった。人気芸能人のものまねをしてみたり、テレビ番組で見たクイズを出してみたり……でもそれは、大人が相手のテレビ番組だった。子供に答えられる訳がないじゃないかと、自分の思慮の浅さに気がつく。
「ねぇ、優愛ちゃん、この歌知ってる?」
そう言って、ダメもとで、誰もが知るアニメの主題歌を口ずさんでみる。何かの役に立つかも知れないと、夕べ寝る前にスマホの動画サイトで何度も聴いて、必死で覚えた歌だった。
「お姉ちゃん、違うよ。『ふしぎなかばんで』じゃなくて……」
「えっ?」
初めて聞いた優愛の声だった。無論、優愛は、桃子が歌詞を間違えたことを言いたかったのだろうが、それを桃子が理解するのに時間がかかってしまった。
しびれを切らしたように、優愛が歌い出しの部分から口ずさむ。
「なんだ、そう言うことかぁ……私、おっちょこちょいだなぁ、もう……」
自分の頭に手をやって悔しがるポーズを見せる桃子。それがおかしかったからか、優愛がクスクスと笑った。
「じゃぁ、もう一度、一緒に歌ってみようよ」
桃子がそう言うと、優愛は嬉しそうに「うん」と首を縦に振った。山の中に、二人の歌声がこだまする。きつい登り坂のはずなのに、意外にも平気だった。それよりも、優愛と一緒に歌を口ずさんでいるのが心地よかった。
後で、知ったことだが、桃子が歌った曲は、優愛の大好きなアニメの主題歌だった。よく見れば、優愛はそのアニメのキャラクターのイラストが描かれたリュックサックを背負っている。そのことにもっと早く気づいていたらと思うとなんだか悔しかったが、優愛の口からそのアニメのことを聞くことができてよかった。
「その子がどんな思いでいるかが、わかってくるわ」
さっき主催者の女性が話していた言葉だった。あの女性も、こうやって、失敗したり悔しい思いをしたりしながら、子供たちの心に近づいていったのだろう。そう思ったら、桃子はほんの少し自分が夢に近づいたような気がして、途端に嬉しくなった。
だが、喜んでいたのはつかの間、登山道を歩いていて、その道がだんだん細くなっていくことに気づいた。気づきながらも、桃子は迷った。多分、どこかで道を間違えたのだろう。間違えたのなら、来た道を戻ればいい。そのことを優愛に話してもいいかどうかを……。
やはり、桃子の勘は当たっていた。道がなくなったのだ。その先に広がっているのは、鬱蒼とした森。ゆっくりと優愛に目を遣ると、優愛は今にも泣きそうな顔をしていた。その顔を見て、桃子は思った。きっと、優愛も気づいていたのだろう。だけど、言い出せなかった。言えば桃子に叱られると思ったからかも知れないし、桃子に話しかける勇気がなかったからかも知れない。
こんなとき、さっきの女性ならどんな言葉をかけるだろうか。桃子は、必死に考えた。考え抜いた。そして放った言葉がこれ。
「どうしたらいいかな?」
それを聞いた優愛は、ポケットに入れた地図を取り出した。きっと事前に何度も地図を見ていて、どこで道を間違えたのかがわかっていたのだろう。
「お姉ちゃん、ここまで戻ってみようよ」
優愛が指さしたのは、『おじぞうさまを左』と、赤鉛筆で大きく書かれた場所だった。
「そうだね、優愛ちゃん、よく気づけたね。すごいよ」
励ますつもりでそう言ったが、実は桃子にもわからなかった。どこで道を間違ってしまったのかを。途端に、喉の渇きを覚えた。振り返ってみれば、山に入る前にお茶を飲んだきり、ずっと歌を口ずさんでいたのだ。リュックサックの中から水筒を取り出すと、ごくごくと音を立てながらお茶を飲んだ。山の中で飲むお茶は、不思議にも美味しかった。
「さぁ、みんなのところに戻ろう!」
桃子は優愛を勇気づけるように声をかけると、優愛は桃子の手を握ってきた。手袋越しに、温かさを感じる。それから歩き始めた二人は、不安をかき消すように歌を歌った。それもとびきり大きな声で。
「お~い、優愛!」
「桃子、どこにいるの?」
林の向こうから、声が聞こえた。
その声を聞いて、優愛はいてもたってもいられなくて、
「お兄ちゃん!」
と、声を張り上げる。
「えっ、お兄ちゃん?」
すかさず、隣にいる優愛に聞いてみる。
「そう、航平お兄ちゃん。近くに家があって、いつも学校まで連れて行ってくれるの」
「あっ、そう言うことかぁ……」
と、独りごちる。
呼び合う声は徐々に近づいていき、ついには互いの姿が見えるところまでたどり着いた。
「おい、優愛、なかなか上に登って来なかったから、お兄ちゃん、心配したんだぞ」
「ごっ、ごめんなさい。お姉ちゃんといっぱい話していたから……」
つぶらな瞳に涙を浮かべる優愛。優愛は、安心して気が抜けたのか、航平に寄りかかった。
「でも、よかった」
まるで本当の兄妹のように抱きしめる航平。
その様子を見ながら、今度は綾乃が口を開く。
「桃子、本当に心配したんだからね。それにしても、道に迷ったのならどうしてスマホで連絡してくれなかったの?」
「えっ、あっ」
それを聞いた桃子は、唖然とした。優愛と必死に来た道を戻っていたあまり、スマホで連絡を入れることをすっかり忘れていた。
「もう、桃子ったら……。優愛ちゃん、山に登るのを嫌がっていたみたいだから、一緒にいる桃子が困っているんじゃないかって、みんな心配していたんだよ。でも、その様子だと、そんな心配はいらなかったみたいだね」
「ごめん、心配かけてしまって……でも、その様子って?」
訳がわからずに、訊き返す桃子。
「聞こえていたよ。優愛ちゃんと桃子が歌っているのを。それを聞いて、優愛ちゃんの心を掴んだんだって、私、桃子が羨ましく思ったんだから」
「なんだ、そう言うこと」
拍子抜けする桃子。
山頂までの登山道、優愛はすっかり安心しきったのか、航平と仲よさそうに手を繋いで、元気に登って行った。そんな二人の背中を微笑ましく思いながら登っていると、不意に綾乃が訊いた。
「それにしても桃子たち、一体どこで道を間違えたの? 桃子たちと出会ったのは、正規の登山ルートの途中だったし、あの辺りに分かれ道なんてなったけどなぁ……」
「えっ、おじぞうさんが……」
と言いかけて、桃子はこれまでのことを振り返った。綾乃の言う通りなのだ。優愛とお喋りに夢中になっていたとは言え、二人が歩いていたのはきれいに整備された登山道だった。その道のあちらこちらにボランティアの人たちが目立つように案内標識を立ててくれていたので、道に迷いたくても迷いようがなかったのだ。そもそも、優愛が地図に書き込んでいたお地蔵さんらしいものは、見かけなかった。「それじゃあ、私たちは一体どこに……」そう思いかけて、やめた。優愛が航平と楽しそうに歩いているのを、邪魔したくなかった。
「そうね、ちょっと、二人で神戸の山を冒険してみたくなったの」
微笑みながら答える桃子に、綾乃は不思議そうな顔を浮かべていた。




