第一章 桃子
四月のキャンパスは、希望に満ちた若者たちで溢れ返っていた。
桃子が門をくぐったのは、神戸の大学。そこの教育学部生として、一年間の浪人生活を経て、かねてからの夢だった四年間の大学生活を始めた。
桃子が大阪の住み慣れた場所を離れてそこの大学を選んだのには、訳があった。神戸の街が好きだったからだ。社会人になりたての頃、仕事に行き詰まったことがあって、無性に一人でどこかに出かけたくなった。ホームに立っていて、たまたまやって来た電車の行き先が、神戸の中心地である三宮だった。最近になって私鉄同士の線路がつながって、一本の電車で行くことができるようになったのだ。大阪と神戸、その結びつきの濃さから、『阪神○○』と呼ばれるものが多く、人々の往来も盛んだった。だけど、大阪の東部に生まれ育った桃子にとっては、何度も電車を乗り換えて行くそこは、なんとなく遠い場所だった。
三宮に降り立った桃子は、駅前の人の多さに圧倒された。大阪の人混みには慣れているはずだったが、思わず人の波に乗るのを躊躇ったほどだった。だけど、覚悟を決めて人混みの中に身を投じた桃子。どこからともなく漂ってくるエキゾチックな香り、清楚で上品な出で立ちの人々の姿を見ていると、隣の県の街なのにどこか遠くに来てしまったかのように思えてきて、自分が自分でなくなるような不思議な感覚に陥った。見るもの聞くもの、すべてが新鮮だった。こんな街が、すぐ近くにあったことに驚くことの連続だった。
それからだろうか、桃子が休みのたびに、神戸を訪れるようになったのは。人で賑わう三宮界隈だけでなく、ハーバーランドから神戸の海を眺めたり、六甲の植物園で珍しい高山植物を観察したりした。下町の雰囲気が残る長田を隈なく散策したり、山を切り開いて造られた西神のニュータウンを、バスの車窓から眺めたりもした。そんな日々を過ごしているうちに、この街に住んでみたくなった。そこに住んでいる人たちとかかわる中で、神戸のことをもっと知ってみたいと思った。
「桃子って、どうして学校の先生を目ざそうと思ったの? 正社員の仕事に就いていて、それを辞めてまで、大学で免許を取ろうとするなんて、なかなかできないことだと思うけど……」
講義の合間に話しかけてきたのは、綾乃だった。綾乃は、二十歳の同期生。でも齢は十歳も年下。どうしても地元の国立大学に入りたくて、今どき珍しく二年も浪人して、ようやくその夢が叶ったのだった。
「そうね……私、子供の頃に両親を事故で亡くしたでしょ。それからずっと近所のおばあちゃんの家に引き取られて暮らしてきたけど、高校を卒業すると同時に、働きに出ないといけなかったの。就職した病院はいい人たちに巡り合えて、それなりに楽しかった。でもね、夢を諦められなかったの。小学校の先生になるのは、私の夢だったから……」
「そうだったんだ……桃子の担任の先生が、いい人だったからとか?」
綾乃がひとまわりも年の違う桃子と普通に話せるのは、綾乃に年の離れた兄がいたことと、桃子が実際の年齢よりもずっと若く見えていたからだろう。たまたま最初の講義のときに、席が隣同士になって、綾乃の方から話しかけてきたのだ。わかっていたことだけど、まわりは自分よりもひとまわりぐらい年下の学生たちばかり、緊張の糸を切れずにいた桃子に、綾乃が親しげに話しかけてきてくれたのはありがたかった。
「そう、私が小学三年生のときかな、両親が交通事故で亡くなってしまって、ショックで私、学校に行けなかったの。そんなときに、毎日家に来てくれたのが、当時の担任だった石橋先生。あっ、石橋先生って言ってもわからないよね。私のお母さんくらいの齢の、女の先生。私の勉強が遅れないようにって、毎晩遅くまで勉強を教えてくれたわ。それに私の話し相手にもなってくれた。半年くらいそうやってからだったかな、私が学校に行けるようになったのは。石橋先生のおかげで、私、立ち直ることができたの」
「そっかぁ、それで先生になりたいと……」
「そう、石橋先生のように、落ち込んでいる子供に寄り添ってあげられるような先生になりたいって思った。随分遠まわりしちゃったけどね」
そう言って、照れ笑いを見せる桃子。
「なんだか、桃子が羨ましい。私なんて、この大学にどうしても入りたくて、たまたま入れそうだったのがこの学部だったから……。別に特に学校の先生を目ざそうと思った訳じゃないんだ……」
普段は明るい綾乃が、俯き加減で話したので、桃子は返す言葉に困ってしまった。
今の大学生はどうかわからないが、桃子の高校時代の同級生たちだって、将来就きたい仕事があるからとか、何かを学んでみたいと思って大学を選ぶケースなんて、ごく一部だった。ほとんどは、まわりがそうしているからなんとなく高校を出たら大学に行くくらいに思っていただろう。でも、そんな彼ら彼女たちのことが、桃子は羨ましくもあった。だって、自分は高校を出たら、働かなければならなかったのだから……。
だけど、社会人を経験してみて、思うこともある。理想の仕事なんてものは、どこにもないと言うことを。みんな、お金を稼いで生活を送っていくのに必死なのだ。だけど、夢中になれる仕事ならあるだろうと思う。誰かとかかわる中で、その人のために力を尽くしたいと思って一生懸命になる。そうした中で、相手の喜ぶ顔を見て、やりがいを感じる。それが自分の成長にもつながっていく。
学校の先生を巡るニュースが、連日のように報道されている。それを受けてか、先日見たニュースでも、先生を志願する若者が過去最低を記録したと、報じられていた。やったことはないが、先生って見た目以上に大変な仕事なのだろう。憧れだけではやっていけないことは、なんとなくわかっているつもり。だけど、そんな仕事でも、きっとどこかにやりがいはあるはず。せっかく、志望する大学の教育学部に入ったのだから、綾乃にも前を向いて学生時代を送って欲しかった。
「そっかぁ。でも、せっかく同じ学部になれたんだから、一緒に先生を目ざせるといいね」
「えっ、うん……そうだね」
綾乃が戸惑いながらそう答えたところで、教授が大講義室の教壇に立った。これから、難しそうな『児童心理学』の講義の時間だった。桃子は、まだまっさらなページが目立つノートを開くと、目を輝かせて教授の話に耳を傾けた。
「桃子ちゃん、疲れたでしょ。よかったら夕飯食べて行ったら。残り物ばかりで悪いけど……」
タイムカードを押す代わりに、ただ大学ノートに欄を作っただけの簡易な出勤簿に押印して事務所を出ようとしたとき、奥でガスコンロに向かっていた店長から呼び止められた。食欲をそそる味噌の香りが、狭い事務所の中を漂う。
桃子は、ほんの少し考える素振りを見せてから、
「いっ、いつもありがとうございます。いただきます」
と、答えた。ここでアルバイトを始めてから、こうして店長に呼び止められたのは、もう何度目のことだろうか。店長は売れ残り品を処分してしまうのは勿体ないからとか、自分が夕飯を食べるついでだからと言うけれど、まだアルバイトを始めて一月ほどしか経っていないのに、ここまでやってもらって、桃子は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「うちみたいな、小さなスーパーだから、桃子ちゃんのような若い学生に来てもらえて、本当に助かっているんだよ。桃子ちゃんがレジ打ちから品出しまでなんでもやってくれるから、うちのカミさんを少しは休ませてあげることができているからね」
店長はそう言って、コンロにかけていたお鍋をテーブルに運んでくれた。「簡単にできるから」と言っていつも作ってくれるのは、『ちゃんこ鍋』売れ残って廃棄寸前の野菜や魚、肉などをふんだんに使って作る店長お手製の『ちゃんこ鍋』は、どんな料亭のお鍋よりも美味しかった。もっとも、そんな高級なお店で食べたことはなかったのだが……。
「あちち」と、熱々の具材を頬張りながら食べる桃子の姿を、満足げに見つめる店長。作ってもらっておきながら、「店長もどうですか?」と訊くのは変だったが、店長から返ってくる答えはいつも、「僕は後で食べるから、先にお腹いっぱい食べて」だった。
祖母の家を離れて、一人で暮らす学生の身には、アルバイトに行くたびに食べさせてもらえるのはありがたかった。そんな桃子が暮らしているのは、大学近くの築四十年になるアパートの一室。祖母の家から電車で通えなくはなかったが、片道二時間以上の道のりはきつかった。それに、高校を出てから贅沢をせずに十数年貯めたお金があった。アルバイトをしながらなら、学費を払っても十分に生活ができたのだった。
「桃子ちゃん、こっちの生活はどう? もう慣れた?」
マグカップに淹れたコーヒー片手に、店長が口を開く。
「あっ、はい。なんとか……ここは、皆さん、とても親切な人たちばかりなので、私、いつも助けられています」
そうなのだ。桃子が引っ越ししてきたときだって、大家さんの奥さんが見知らぬ土地で一人暮らしを始めた桃子を歓迎する意味で、自宅に招いてお寿司をご馳走してくれたのだ。重い荷物を持って、アパートの階段を上っているときは、同じ階に住む女性がそっと手を差し伸べてくれたし、道に迷って立ち尽くしていると、犬の散歩をしていた初老の男性が、わざわざバス停まで案内してくれた。
「ここは、震災があった場所だからね。みんなが優しいのは、あのときに互いに手を取り合ったからかも知れない」
店長の、ややトーンを下げた声が事務所に響く。
「えっ、震災ですか……」
そう呟いた桃子の脳裏に、昔テレビで見た震災のときの様子が蘇った。確か、自分が生まれた年に起きた出来事だった。学校でも、社会の時間に習ったような気がする。震災が起きた一月十七日に、毎年のように地震を想定した避難訓練に参加した。子供心にも、大変な出来事だと思った。ちょうど、事故で両親を一気に亡くしていたので、遺された人たちの気持ちが痛いほどわかった。だけど、大阪で生まれ育った桃子にとっては、どこか別の場所で起きた出来事の一つでしかなかった。
「そう、この辺も、そこらじゅうの家があの激しい揺れに押しつぶされて、大勢の人が亡くなった。実はこの店も揺れで倒壊してしまってね、全壊だった。一時は商売を辞めようと思ったけど、ここがなくなってしまうと、みんな困ってしまうと思ったから、かみさんと力を合わせて、なんとか再建したんだけどね」
「そっ、そうだったんですか……」
そう答えてみるも、その先の言葉が出ない。震災を経験していないだけに、頭では大変な出来事だと思っていても、その先が考えられないのだ。
「みんな、途方に暮れた。どうしていいか、わからなかった。だけど、もとの平穏な暮らしに戻りたかった。だから、誰からともなく手を差し伸べるようになった。老いも若きも、どんな仕事をしていようと、どこに住んでいようと関係がなかったよ。みんな、朝から晩まで埃まみれになって、助け合った。そうやって、今の神戸の街がある。みんなが困っている人を見て見ぬふりができないのは、あのときの人の温もりがあるからかな。あっ、桃子ちゃん、ごめんね。疲れているのに、暗い話になってしまって……。さぁ、冷めないうちに食べて」
話しながら、店長の瞳に涙が浮かんでいるのが見えたが、店長はそれをぐっとこらえると、いつもの明るい表情を作って見せた。
桃子は、店長が作ってくれた夕飯を、一口ずつ噛みしめながら食べた。いつもは味噌がきいていて美味しいはずなのに、このときばかりはまるで味がしなかった。
その日の帰り道、桃子の足取りは重たかった。高台から見下ろす街の夜景は、いつもと変わりなく光り輝いていたが、桃子の心の中は、暗く沈んでいた。それは、両親を事故で亡くしたときに感じた悲しみを思い出したからかも知れないし、この街が人々の深い悲しみの上に成り立っていることを、改めて知ったからかも知れない。
ふと、店長が言った言葉を思い浮かべた。
「みんな、埃まみれになって、助け合った」
どんな気持ちだったんだろう。悲しみ、絶望、希望、未来……いろんな感情が、桃子の心の中を渦巻いていた。
そうやって、たどり着いたアパート。階段のそばの郵便受けを確かめてみる。ポスティングのチラシに混じって、封筒が届いていた。裏を向けて、蛍光灯の薄明りで差出人を確認してみる。『未来希美』小学生のときから文通を続けてきた相手からだった。桃子はそれらを携えて、自分の部屋へと向かった。
誰もいない部屋の中に向かって、「ただいま」と声をかけてみる。返事が返ってこないことには、両親が亡くなってから慣れっこになってしまっていた。それでも、そう言ってみるのは、寂しさの裏返しだろうか。明かりを点けた部屋の中は、ベッドやテレビ、勉強机など、必要最小限のものを配置した簡素な部屋だった。
着替えもせずに、ベッドに座った桃子。ポストに入っていた封筒を、ぼんやりと見つめてみる。『未来希美』今さらながら珍しい名前だと思う。確かめた訳ではないが、ペンネームか何かだろうか。小学生の頃からだから、かれこれ二十年以上も見てきた名前である。もちろん、文通を交わすことが目的の間柄なので、これまでに一度も会ったことも電話で話したこともなかった。
そう言う自分は、これまでずっと本名で手紙を書いてきた。書き始めた当時、ペンネームなんて言葉は、知らなかった。文通を始めたのは、小学三年生のとき。学校に行けずに祖母の家に閉じ籠っていたときに、石橋先生が手紙を書いてみないかと、提案してくれた。書く相手は、クラスの友達。先生が、その子との間に入って、手紙を受け渡ししてくれたのだ。
自分の気持ちを文字にしたためると、自然に心が晴れた。誰かが読んでくれていると思うと、自分のことを無性に書きたくなった。その友達との文通は、桃子が学校に行くようになってから自然に消滅したが、桃子が誰かに手紙を書きたいと言う気持ちは、それからも続いた。そのことを石橋先生に相談すると、石橋先生は自分の知人などをあたってくれて、主に京阪神で活動する文通サークルに行き着いた。事情を知ったサークルの代表の人が、桃子に紹介してくれたのが、『未来希美』と言う人、どうやらその人が同い年らしいことは少し経ったときにわかった。
その人の住所は神戸市東灘区、『灘』の文字が難しくて、子供の頃は宛先を書くのに苦労したが、何度も書いているうちにすらすらと書けるようになった。そんな相手の住所の隣の区に自分が引っ越してきたのも、考えてみれば不思議な縁だった。
中身を傷つけないように、はさみで慎重に封を切る。中から出てきたのは、整った文字で綴られた便せん二枚だった。読んでみると、神戸での一人暮らしを気遣う言葉から始まって、どこそこの八百屋の野菜が新鮮だとか、どこの公園からの夜景がキレイだとか、地元のおすすめのスポットなどが書かれていた。
これまで交わした手紙の中で、相手が神戸のことに触れることは少なかったように思う。それは、住んでいる場所が違うので、地元のことを書いてもあまり桃子に伝わらないと考えていたからかも知れない。だけど、桃子が神戸に引っ越しすることを伝えてからは、堰を切ったかのように、地元神戸の話題でもちきりだった。もっとも、桃子にとっても、そうした地元ならではの情報は嬉しかった。大学やアルバイトが休みのときは、相手から受け取った手紙を片手に、神戸の街を歩いてまわった。地元の人たちに愛される精肉店でコロッケを頬張ったり、神戸の歴史を紹介している資料館を巡ったりした。
ただ、一つだけ不思議なことがあって、神戸にやってきて桃子が初めて書いた手紙で、ぜひ一度会ってみたいと持ちかけたのだが、それに対して相手からの返事はなかった。不審に思ってはみたものの、相手には何らかの事情があるのだろうと思い当たった。
あれは、桃子が社会人になって、すぐの頃だっただろうか。二年ほど文通してきた人がいて、桃子が会いたいと持ちかけたのだ。手紙で交わしてきた内容によれば、相手は自分と同い年の男性だった。交際することを目当てに文通を始めた訳ではなかったが、何分、桃子も年頃の女子だった。一度相手と会ってみて、気が合えば付き合いたいと思っていた。
だけど、待ち合わせ場所に現れたのは、同い年の女の子だった。その姿を見て、最初は驚きを隠せなかった桃子だったが、なんとなく相手の女の子が男の子に扮して自分と手紙を交わしてきた理由がわかった。その後、彼女とは気持ちが打ち解けて、普通に交流を続けてきた。最近、仲のよかった女の子と一緒に暮らし始めたようで、彼女からの手紙には仲睦まじい二人の姿が綴られていて、幸せな日々を送る彼女に思いを馳せたりしていた。
手紙には、相手の心が込められている。それが誰からのものであろうと、文字をやりとりする上では何の支障もなかった。だから、桃子はあえて、『未来希美』と名乗る相手のことを、深く詮索することはやめた。
持っていた便せんを丁寧にもとの封筒に戻すと、後で返事を書こうと、机の片隅に置いた。それからテレビをつけた。人気刑事ドラマの主人公が相方の男性とともに、事件の真相に迫るシーンが映し出された。「真相はこうだったのです」と、常に冷静でありながらどこか人情味あふれる口調で語り始めるのを、桃子はぼんやりと見つめていた。
神戸はわかりやすい街だと思う。南北を海と山に囲まれて、平地を東西方向に横切るように何本もの鉄道が走っている。その南側が『海側』で北側が『山側』、どちらに向かうにしても、鉄道の駅を基点にすると、地図がなくても目的地にたどり着くことができる。その鉄道も、市内を隈なくカバーしているので、一回の乗り換えだけで、ほとんどの場所に行くことができる。日本全国探してみても、このような都市は他にはないだろう。
桃子にとっても、鉄道は休日を楽しく過ごすための強い味方だった。三宮や元町、神戸や長田など、一本の路線に連なる主要な駅で降りれば、目の前にそれぞれの街が広がっている。同じ市内でも、三宮と神戸ではまったく雰囲気が異なるし、ターミナルで電車を乗り換えれば、広々とした人工島にも行けるし、緑あふれる光景にも出会うことができる。
あるとき、桃子は長田の街を歩いたことがあった。そこはかつてより靴のメーカーが軒を連ねる工業の街だったが、最近は『粉もん』の店が脚光を浴びるようになってきた。
広いアーケードを歩いていた桃子のそばを、子供たちが元気に追い抜いていく。向こうからやってきた主婦が、買い物袋を前かごに乗せた自転車を押しながら、「こんにちは」と、子供たちに声をかけている。なんとも微笑ましい光景だった。そうかと思っていたら、今度は香ばしい香りが桃子の鼻をついた。何を焼いているのかと思ってお店に近づいてみると、
「そばめし焼けたよ。どうですか?」
と、威勢のいい声がアーケードに響き渡った。そばめしとはその名の通り、ごはんと麺を、お好み焼き風に焼いたもの。『長田発祥』と大きく掲げられているから、いまやいわゆる『ご当地グルメ』として、ここから全国に広がったのだろう。
一つ注文して、アーケードの隅で頬張ってみる。「あちちち……」と思わず声を張り上げそうになったが、ソースがご飯と麺にほどよく絡んでいて、次の瞬間には「美味しい!」と、テレビ番組のレポーターのように絶賛の声を上げる。よく考えると、神戸に来てから店先で立ち食いする機会が増えたような気がする。コロッケや肉まん、クレープやこのそばめしと、美味しいものがたくさんあるのだ。これまで異国情緒溢れる観光とファッションの街だとばかり思っていた神戸が、実はグルメや文化など様々な面で長けていることに改めて気づく。
そうして満足げに歩いていた桃子は、周囲の街並みを眺めていて違和感を覚えた。目の前の街が、どこか新しいのだ。大通りからだいぶ中に入っていると言うのに、道路の幅は広いし、左右に立っている建物も真新しい。不思議に思って歩いていると、突如、古い建物に出くわした。まるで、そこだけがタイムスリップをしたかのよう。生垣越しに広いグラウンドのようなものが見えるので、どうやらそこは学校だろうか。だが、平日の昼間だと言うのに、子どもの声が聞こえない。
気になって近づいてみると、入口付近に立て看板があって、それによるとそこは廃校になった校舎を再利用した文化施設だった。昭和四年に立てられたと言う重厚な趣の鉄筋造りの校舎は、震災を乗り越え、廃校になった後も当時のまま教室などが残されていて、そのどこか懐かしい佇まいは、これまでに幾度となく映画のロケ地として使われてきたのだと言う。
「どちらから、お見えですか?」
よほど熱心に看板を眺めていたからだろうか、スタッフの男性が声をかけてきた。
「えっと、私、この春から神戸に住んでいます」
慌てて、答える桃子。
「あぁ、そうでしたか」
と、男性は白髪頭に手を遣りながら、申し訳なさそうに言った。
桃子は、どうしようかと悩みながらも、ここにやってきたいきさつを、神戸に引っ越すことになったときのことから、順を追って男性に話した。
「それで、神戸のあちらこちらを見てまわろうとされているのですか。それでしたら、こちらを……」
そう言って、男性は桃子を中へと案内した。壁に据えつけられた一枚の写真を見るように、桃子を促す。
一面真っ白な光景、そこに写っているのが何を示しているのか、理解するのに時間がかかってしまった。白く見えたのは、立ち上る煙だった。その煙が、向こうからも、そのまた向こうからも、幾筋も立ち上っている。
男性によると、震災が起きて数日経ったときに、この周辺を空から写した写真だと言う。もともと、木造の建物がひしめくように建っていたところに強い揺れが襲い、どこからか起こった炎が、倒壊した建物を襲った。消火が間に合わない中で瞬く間に火は燃え広がり、逃げ遅れた多数の人々が犠牲になったのだと語った。
「この辺りの道路は、どこも広かったでしょう。あれは、震災の後に区画整理されたものなのです。火災が起きても住宅街の奥まで消防車が入れるように、道路の幅が広く取られました」
その言葉に、桃子はさっき覚えた違和感の正体がわかったような気がした。『多数の人々が犠牲になった』と言う、男性の言葉を振り返って、桃子は思わず身震いして足がすくんだ。思い出してみれば、さっきそばめしを食べたあのアーケードのあたりも、建物が真新しかった。恐らく、火災に巻き込まれたのだろう。きっとそこで犠牲になった人たちだっていたに違いない。普段通り平穏に暮らしていただけなのに、次の日がやってくることを信じて疑わなかったのに、そんな当たり前のことでさえ、迎えることが許されなかったのだ。差し迫る炎の中で、必死に助けが来るのを待ち続けるのは、辛くて苦しかっただろう。そんなことさえ知らずに、呑気に立ち食いをしてしまった自分が、桃子は嫌になった。
「私も、震災で妻を失いました。でもね、いくら悲しんでも妻は戻って来ません。だから、私は、自分を見失いたくない一心で、遺された者同士、連帯して復興に力を注いできました。『辛いことがあったけど、僕たち、みんなで力を合わせて頑張っているよ』そう妻の墓前で報告することが、妻への最大の供養だと思っています」
そう言った男性の目に、涙はなかった。この先に続く未来を、まっすぐ見つめているようだった。
「色々教えていただき、ありがとうございました」
桃子が男性にそう伝えると、男性は力強い口調で言った。
「あなたも縁あって、ここ神戸に来られました。私たちは、過去を決して忘れることなく、未来を見据えています。一緒に、神戸の街を創っていきましょう」
その言葉で、桃子は震えの止まらない身体を立て直した。震災の生き証人だと言う校舎の中を歩いてまわった。『一年一組』と手書きされたプレートが吊るされている教室を覗いてみた。かつては、新入生を迎え入れて希望に満ち溢れていたであろう教室も、誰にも座られることなく整然と並べられた机だけが、寂しげに佇んでいた。




