プロローグ
給料日の銀行は、どこも混雑している。桃子が向かった先のATMも、すでに長蛇の列ができていて、列の最後尾に並ぶのが億劫になってしまう。それでも、そこに並んだのは、アルバイト先から初めての給料が入っているからだった。その金額を確認して、今後の一人暮らしへの見通しを立てないといけなかった。
ある意味で、ドキドキワクワクする時間だった。近頃は、スマホのアプリで振込金額を確認できる勤め先や銀行が増えた。三月まで勤めていた病院もそうだった。わざわざ銀行に記帳をしに行く必要はなかったので、それはそれで便利だった。だけど、なんだか味気なかった。自分の働きぶりが、単にデジタル信号で表示されているようで、自分が働いて得たお金なのに、それが自分のものでないような妙な感覚に陥ったものだった。
ようやく自分の番がまわってきた。アルバイトを始めたときに、アルバイト先のスーパーから指定されて作った真新しい通帳を開いて、投入口に入れてみる。ATMの機械の中で、どんなやりとりがされているのかはわからないが、機械が動き出して通帳に印字している音がじれったい。
高校を卒業して、病院に勤めたときもそうだった。初めての給料が待ち遠しかった。正社員で入った職場だったが、初任給なんてたかが知れている。そう頭ではわかっていても、やはり自分で働いて得たお金は特別だった。
やがて、取り忘れに注意を促す音声が流れて、通帳が吐き出された。機械を通したときの温かさが、掌に伝わってくる。桃子はまるで合格発表の通知を見るときのように、ごくりと唾を飲み込んでから、通帳のページに目を遣った。
「えっ?」
それが、思わず口にした言葉だった。通帳に記載された残高が、思っていた金額よりも少なかったときに見せる落胆の気持ちからではなかった。むしろ逆に、想定を大きく上まわる金額を目にして、驚きと疑念が混ざり合った気持ちからと言えばよいだろうか。
「こっ、こんなに……」
そう思ったとの同時に、何かの間違いだと思った。いくらアルバイトの給料だとは言え、だいたいこのくらいは貰えるかなと言う計算はできていた。なにしろ、去年の三月まで、桃子は病院の経理部門に勤めていたのだから、お金の計算には自信がある方だった。
「一体、どうして……」
そう思って考えを巡らせようとしていたとき、後ろから「ゴホン」と、大きな咳が聞こえた。「あっ、いけない」と、桃子は、自分がATMの前で立ち尽くしていたことにようやく気づいた。ばつが悪くなって、慌ててATMの前を立ち去ると、一目散に外に出た。
そこで、改めて手に持っていた通帳を開いてみる。今さっき見たときには気づかなかったが、どうやら振り込みが二件なされているようだった。一つは、アルバイト先のスーパーから、もう一つは『ドイサチエ』さんから。
「えっ、ドイサチエ?」
まるで思い当たることはなかった。誰かが間違って振り込んだのだろうか。十万円、結構な金額である。だけど、相手が誰であるかがわからないから、連絡を取って返すこともできない。間違って振り込んでしまったお金は、よほどのことがない限り返してもらえないことは、病院の経理をやっていたときに、身をもって経験していた。少ない金額だったが、誤送金をしてしまったのだ。近頃は、オフィスのパソコンからでもクリック一つで簡単に送金ができる。目の前が真っ暗になってしまったが、桃子の上司がそれとなく尻拭いをしてくれて、事なきを得たのだったが……。
いつしか、桃子の足取りは重たかった。給料を受け取って嬉しいはずなのに、うしろめたい気持ちが襲いかかってくる。どこをどう通ってアパートにたどり着いたのか、覚えていなかった。
そんな桃子の気持ちとは裏腹に、行く手には春の明るい光景が広がっていた。




