エピローグ
「ねぇ、桃子、今度の日曜日、垂水の方に足を延ばしてみない?」
「えっ、垂水って舞子とか塩屋とか?」
「そうそう、明石海峡大橋を真下から眺めるのは迫力があるし、塩屋には洋館やレトロなお店とかが残っていて、意外と穴場なの」
「へぇ、私、まだそっちの方は行ったことがないんだ。楽しみ」
そんな会話が、午後のキャンパスに響き渡る。こうやって、綾乃と並んでお昼のサンドウィッチを食べるのは、もう何度目だろうか。
「でも、桃子、バイトの方は大丈夫なの? 日曜日なんて休めないんじゃないの?」
「うん、それがね、お店は再開したんだけど、店長、日曜日は用事ができたみたいで、休むことになったの。大きなショッピングモールとは違って、地元の人が夕飯の準備に買いに来るだけの小さなお店だから、日曜日は暇だったの」
「ふうん、そうなんだ」
わかったような、わからなかったような返事をしてみせる綾乃。店長が日曜日に用事ができたのは、本当のことだった。実は、店長の奥さんはもともと絵が得意で、時間を見つけては神戸の街をスケッチして歩いていたのだ。桃子も、これまでに何枚も、神戸の街を描いた絵手紙をもらっていた。そんな奥さんの遺品を整理していて、店長は自分も絵を描いてみようと思い立った。だけど、これまで筆すらまともに持ったことのなかった店長だったので、手始めに奥さんが若い頃に通っていた絵画教室に通うことになったのだ。それが日曜日と言う訳だった。
「それよりも、綾乃、神戸の街と言えば、写真はどうなったの? あれからいっぱい、いいのが撮れた?」
何の気なしに聞いてみた桃子。
「うん、もちろんだよ。それでね、私、写真を撮るだけでは物足りないから、神戸の街を歩いていて感じたことを、エッセイに書き始めたの。ほら、よくタウン誌とか旅行雑誌などで見かけるでしょ。私、自分で言うのもなんだけど、文章を書くのが得意だから、将来、神戸のことを隈なく取材して書けるような仕事に就けたらなって思うの」
「へぇ……取材して書くと言えば新聞社とか?」
「ピンポン。正解……」
そう言って、綾乃が鞄から取り出して見せてきたのは『兵庫新聞』神戸だけではなくて、兵庫県全体をカバーする地元紙だった。綾乃は、カサカサと音を立ててページをめくり始める。止まった先は、読者の投稿が掲載されたページだった。
『私のふるさと神戸』と題された写真つきのカラー記事には、なんと綾乃の名前が載っている。
「こっ、これって?」
「エヘン」と、教授が咳払いをするように格好をつける綾乃。
「すごいでしょ。私が送った記事が載ったの」
そう言って、嬉しそうな表情を浮かべた。
「へぇ、綾乃すごいじゃない。まるで本物の新聞記者みたいだよ」
桃子がそう言ったのは、お世辞ではなかった。あの優愛と航大が仲良く手を繋ぎながら山道を登る、その後ろ姿を写した写真。二人の行く手には頂上が見えていて、木々の間から青空が覗いている。二人が力強く駆け上る姿は、未来へと歩いて行く神戸の子供たちを象徴しているかのようだった。
「私ね、こうやって何気ない神戸の人たちの日常を記事にすることで、辛いことを乗り越えて前に進んで行く神戸の人たちの伴走者になりたいの。それが、神戸に生まれた私の使命のように感じるから……」
そう言った綾乃の目は、遥か遠くのまだ見ぬ景色を真剣に見つめていた。そんな綾乃の横顔に向かって、桃子はそっと囁いた。
「綾乃、素敵な夢だと思うよ。絶対に実現させてね……」
そう言いながら、桃子は綾乃に先を越されたことがちょっぴり悔しくなって、その言葉の続きに「私も頑張るから」と、心の中で付け加えた。
そんな桃子には、実は気になることがまだあった。それは、最近になって、またあの十万円が振り込まれ始めたことだった。振り込まれるのは、決まってアルバイトの給料日。今度は、『ドイサチエ』ではなく『ドイカズオ』の名前で。もちろん、それが誰であるのかは知っていた。だから、その人にそれとなく訊いてみた。
その人はこう言う。
「私は、桃子ちゃんのおかげで、またお店を再開することができました。桃子ちゃんは、私にとっての『ももちゃん』そのもの、夢と希望です。だから、これからもそんな『ももちゃん』を、そっと応援させてください」
それを聞いた桃子は、何も言い返せなかった。その人のこれまでのことを知っているだけに、心の内は複雑だった。どうしようかと幾夜も考えた。そして、導き出した答えはこうだ。
独り暮らしをしながら大学に通うのはお金がかかる。どんなに切り詰めていたとしても、いつか貯金が底をついてしまうかも知れない。だから、そのときは、そのお金を大事に使わせてもらおうと思う。そう、私の『あしながおじさん』からの贈り物だと思って。そして、いつか、この心の温まる街、神戸に恩返しをしたいと思う。子供たちのよき伴走者として。
「あっ、いっけない。もうすぐ午後の講義が始まっちゃうよ」
そばに立っていた時計を見ながら、慌てたように綾乃が言った。
「ほんとだ。綾乃、次は何の講義だった?」
「私は、『防災学』、一般教養の授業の中で、一度勉強してみたかったんだ」
「実は、私もなんだ。あっ、そうそう、先週の講義でレポートが課題に出ていたけど、私、仕上げるのに一晩かかっちゃったよ」
「えっ、レポート? いっけない、忘れてた。どうしよう……」
真っ青な顔の綾乃。
「大丈夫、レポートは来週までだから」
「なんだ、脅かさないでよ……」
そんな会話が、高台のキャンパスに響き渡っていた。
「さぁ、行こう」
「うん」
やがて、二人が座っていたベンチのまわりには、静けさが戻る。眼下に見える海は、今日も明るい太陽の光を浴びて、優しく煌めいていた。




