第106話 豊かさの代償(10歳)
サミュエルの言葉に、二人は衝撃を受けた。
魔物領域がどうやってできるのか――そのメカニズムは、未だに解明されていないからだ。
「あっ!すみません……魔物領域が生まれるなんて、言い過ぎました……」
「それはいい。なぜそう思うか話せ」
サミュエルは一度深く息を吸い、頭の中で散らばった考えを順に並べ直した。何から話せば伝わるか。焦って口走ったさっきの自分を戒めながら、言葉を選ぶ。
「僕がなんで聞きに来たか……という話の大元になるんですが、十歳式で故郷に帰って、畑に行った時に違和感があったんです。ただそれはほんの一瞬でしたから気のせいかと思いました」
「話の流れから言えば、その違和感が魔物領域の空気と同じだったということか」
「はい、僕も魔物領域に入るまで思い出せないぐらいには小さな違和感でした。でも魔物領域に入った瞬間、わかったんです」
「その違和感が、魔物領域のものと同じだった。だから貴様は、故郷に魔物領域が生まれるかもしれないと考えた。そういうことか」
「はい……」
サミュエルは頷いた。だが、リュシエルの表情は、恐怖に同調するものではなかった。むしろ、何かが噛み合わないと言いたげに、片眉を寄せている。
「話は分かった。だが、一つ確認したい」
リュシエルはそう言うと、机に肘をつき、指を組んだ。
「貴様の故郷に現れる魔物だ。強い魔物を見たことがあるか?それとも、外から迷い込んでくる弱い魔物ばかりか?」
「えっと……弱い魔物ばかりです。ゴブリンとか、コボルトとか……よく兵が討伐しています」
「その畑そのものから魔物が湧いたことは?地面から突然現れた、そういう話を聞いたことは?」
「……いえ、ありません。最近は畑に近い門の辺りに魔物が現れるようになったという話ぐらいです」
リュシエルは小さく頷いた。組んだ指の上に、僅かな確信のようなものが乗る。
「なら、それは魔物領域が生まれているのではない。と私は考える」
「え?」
サミュエルは、思わず顔を上げた。
否定されると思っていなかった。故郷が危ないと、それだけで頭がいっぱいだった。だからリュシエルの言葉の意味がうまく入ってこない。
「以前、魔物領域について話したな。魔物領域では強い魔物が奥に縄張りを築き、弱い魔物は縄張りを持てずに溢れる。溢れた魔物は領域の外へ出ていく。だから町の近くで倒される魔物は、弱いものばかりだとな」
「はい、覚えています」
「もし貴様の故郷が魔物領域になりつつあるなら、まず起きるのは逆のことだ。強い魔物が集まり、居着き、縄張りを争い始める。弱い魔物は追い出される。だが、貴様が見たのは弱い魔物だけだろう?それは魔物領域が生まれる兆候とは、真逆だ」
言われてヴァロンでマイケルたちと討伐した魔物を思い出す。ほとんどはやせ細ったゴブリンかコボルトばかり。この前戦ったようなアクアウルフどころか、ホブゴブリンすら見たことがない。
「じゃあ……あの違和感は……」
「そこだ。厄介なのは」
リュシエルは指を解き、腕を組み直す。
「貴様が魔力の濃さを感じ取ったこと自体、私は疑っていない。貴様のその感覚は以前の実験で確かめた。つまり貴様の故郷の畑は確かに周囲より魔力が濃い。それは事実だろう」
「でも、魔物領域じゃない……」
「魔物領域ではない。だが魔力は濃い。ならば問いはこうなる。なぜ、魔物領域でもない畑の魔力が、濃くなっているのか」
なぜ濃いのか。そんなこと考えもしなかった。魔力が濃いと感じたその一点に飛びついて、故郷が魔物領域になると決めつけてしまっていた。
「その畑は……魔石を砕いた粉末を混ぜた堆肥を、使っていた場所です」
サミュエルの声が、僅かに掠れた。口にして初めて、その符合の重さに気づく。
「昔にリュシエルさんと話しましたよね。魔石の魔力が、術式を介さずに作物へ影響しているんじゃないかって。あの畑は、まさにその魔石入りの堆肥を使った場所なんです。作物が驚くほど育って、土も良くなって、味まで良くなりました。もし本当に魔石の魔力が作物や土に移っているなら……その畑の魔力が濃いのも、当たり前なのかもしれません」
リュシエルの目が、細くなった。それは研究対象を見つけた者の目だった。
「つい最近そんな話を聞いたな。あのとき話した見立て通りというわけか。魔石の魔力が、術式を介さず作物や土に移る……。だが、いざそれが起きた場所の話を聞くと、また新たな疑問が湧いてくる」
リュシエルは顎に手を当て、低く続ける。
2年前だったはずだが、エルフにとってはつい最近の出来事らしい。
「魔石を砕いて撒いただけで、なぜ魔力が土や作物にまで移るのか。その仕組みまでは、まだ分からん」
分からん、と言うリュシエルの声に投げ出すような響きはなかった。分からないことは分からないままにして、確かめられることだけを口にする。いつもの調子だ。
「だが、仕組みは分からずとも、一つだけ確かなことがある。その畑では作物が豊かに実っただけで、魔物の巣にはならなかった。強い魔物も湧いていない。ならば、魔石堆肥は魔物領域を生むものではない。少なくともそう考えていい」
「ただ、一つ引っかかることがあります」
サミュエルは、先ほど自分で口にした言葉を思い返していた。
「畑に近い門の辺りに、魔物が現れるようになったって……あれ、なんでなんでしょう?魔物領域ができたわけじゃないのに」
「さっきも説明しただろう。魔石堆肥は魔物領域を生まない。だが、魔力を濃くするのは事実だ。そして――魔物は、魔力が濃い場所に惹かれる」
リュシエル自身が先ほど語ったことを、もう一度繰り返す。
「まさか、堆肥の魔力に、魔物が引き寄せられて……?」
「その可能性が高い。畑の魔力は魔物領域には遠く及ばん。だが近くをうろつく弱い魔物を引き寄せる程度には、魔物たちにとって魅力的な場所なのだろう」
ここまで黙って聞いていたルシアンが腕を組んだまま口を開いた。
「待て。だとするとおかしくないか。魔石なんぞマルシュブルグにも溢れている。現にうちの工房でも大量に置いてあるし砕いて使っている」
「簡単な話だ」
リュシエルはルシアンへ視線を移す。
「こいつの故郷の近くには、昔から魔物領域がある。そこから溢れた弱い魔物が、常に周囲をうろついている。引き寄せられる魔物がもともと多い土地なんだ。魔物の少ない土地なら魔力が濃くとも寄ってくる魔物などほとんどいない。むしろ討伐に出向く手間が省けるというものだ」
いつか聞いた話が、頭の中で繋がっていく。ヴァロンの近くの魔物領域。そこから溢れ、山を越えてくる弱い魔物たち。そんな魔物たちが魔石入りの堆肥によって生まれた魔力に引き寄せられていたのだ。
「じゃあ……ヴァロンだけが、たまたま条件が揃ってしまった……ってことですか」
「そういうことだ」
サミュエルは、ようやく事の輪郭を掴んだ。魔物領域が生まれるのではない。ただ、魔石堆肥が魔物を呼び、その魔物がたまたま多い土地だった。
だが――安心はできなかった。
肩から抜けたはずの力が、また少しずつ戻ってくる。危機の形が変わっただけで、消えたわけではない。
「あの……引き寄せられてるのが弱い魔物だけなら、今は兵で対処できてます。でも、これって……堆肥を使い続ける限り、ずっと魔物を呼び続けるってことですよね」
「そうなるな」
リュシエルはあっさりと肯定した。
「しかも、魔石堆肥を使えば使うほど、収穫は増える。使う量が増えれば、呼び寄せる魔力も濃くなるかもしれん。そうなったとき、何が起きるかは……私にも分からん」
分からん。その言葉が、今度はやけに重く響いた。
この偏屈者は、分からないことを分からないと言う。だからこそ、その「分からん」に都合のいい楽観はない。本当にこの先どうなるか分からないのだ。
「本来なら、すぐにでも中止すべきだな」
静かに聞いていたルシアンがはっきりと口にする。
彼は貴族の生まれであり、研究者でもない。
領民の安全のためにどうするべきか迷わず判断ができた。
「聞いている限りじゃ安全だと言い切れる根拠は何一つねえ。魔物領域にならない保証も、この先ずっと弱い魔物だけである保証もない。ならば堆肥の使用は止める。それが正しい」
「私はどうなるか経過観察をしたいがな」
リュシエルが研究者らしい考えを口にするが、この場合ルシアンの言っていることの方が正しい。サミュエルもそう思う。
だが、脳裏には、あの畑の光景が浮かんでいた。痩せた土が豊かになり、これまで見たこともないほど大きく実ったカブ。収穫を喜ぶ人々、豊かな畑。
豊かさを取るか、安全を取るか。頭では答えが出ている。それでも、あの実りを知ってしまった今、簡単に切り捨てられるものではなかった。
「これは、僕たちだけで決めていい話じゃ……ないですよね?」
サミュエルの言葉に、ルシアンが頷いた。
「ああ。収穫が増えるってことは領地の力に直結する。中止するにしろ続けるにしろ、レオン様に一度相談すべきだ」
その言葉に頷きかけてサミュエルはふと言い淀んだ。一つ、伝えていないことがある。
「あの……多分ですが、レオン様はまだ、魔石入り堆肥のことをご存じないと思います……」
「……報告していないのか?」
「副作用がないか様子を見てから祖父たちが正式に報告するっていう話で……正直、僕が好き勝手やった結果みたいなものだったので、そこまで重く考えていませんでした。でも……魔物を引き寄せるなんて副作用が見つかった以上、後回しにしていい話じゃないですよね……」
サミュエルの言葉にルシアンは頭を抱えた。すでにレオンが既知の情報だと思っていたからだ。
「俺たちはお前から聞いたぞ。リュシエルにも話しているんだよな」
「経過観察が必要だからというだけで、特に秘匿する技術でもないのですし、僕の趣味みたいなものだったからと思って話してました……」
「はあ……。わかった。お前の祖父には悪いがそれも含めて説明に行くぞ。隠そうとしたわけではなく、安全のために研究段階だったと言えば理解してもらえるだろう」
こうして、この一件はレオンのもとへ報告されることになった。




