スフィンクスの巣窟
「出来ました……これでどうでしょう!」
誾野沙耶は描き上げた作品を前にため息をついた。
浮き上がって聳えそうな山々には淡く揺らいだ薄雲がふわりとかかり、白沢の姿に踊る文字は黒々として、よく見ると威勢良く「イミュノプラス」と語っている。
茫然とコントロールを失った筆から、上等なカーペットに薄墨が滴っている。
伊集院はすっくとドアの前に立ち、半月眼鏡の奥から恨めしそうにジャガード織の斑点を見ていたが、特に指摘はしなかった。
今回の依頼は免疫改善ドリンクのボトルに載せるロゴのデザイン考案及びラフ作成を、スポンサーである富豪の屋敷で行う——という異例中の異例、もはや何か依頼主のオモテナシとシルバータンに丸め込まれて悪い事に加担させられるのではないか……と冷や冷やしつつ——のお仕事であった。
到着するなりスーツの人間に丁重に迎えられ、差し出された死ぬほど高そうな椅子に座ると死ぬほど高そうな卓と道具が差し出され、「あなたが誾野さん? それじゃあロゴ、描いてみて⭐︎(ウィンク)」と言われたのだ。
依頼主のメリンダはさも感心した様子で、この徹底して遮光された豪邸において何かしらの有意義な役割を果たしているとは到底思えないラベンダー色のサングラスを優雅に外した。
「素晴らしい。新商品のロゴとして相応しい出来です。あなたに頼んで正解だったわ。」
彼女はまだ乾いていない作品を長い爪で器用に摘んで持ち上げるとシャンデリアにかざした。
「若いのに本当に上手ね。」
「……いえ、そんな、恐縮です。」
一瞬身構えてしまったが、嫌味というわけでもなさそうだ。この屋敷の重厚さにしては比較的若い女主人だと思っていた。軽い違和感を覚えつつ、とりあえず感謝する。
「みょん吉、あなたもそう思うわよね?」
「……いかにも。」ドアの前に立っていた半月眼鏡の人物が無表情のまま答えた。
誾野はこの令和という時代にまだ執事という職が存在しているのか、はたまたこの厳めしい顔つきの男性をみょん吉とばかっぽく呼び従えるほど、この華奢な木蓮の花のような依頼主が実は恐ろしいのか、判断し兼ねていた。
突然視界に飛び跳ねるものが見えた。なんだ……こっちに来る……なんて気味の悪い跳ね方——うわっ。
それは膝の上に飛び乗ってきた。小さな手足にギュッと力を入れて、全身で抱きつくようにしてしがみついている。そいつはどでかくてキュルンとした瞳で頭を傾げた。
……何だアイアイか。可愛い。
「あらごめんなさい、うちの子が。」
「ジェニファーっていうのよ。好奇心が強くて……オホホホホホホホ」
アイアイは首を伸ばすと何か言いたげに疲れ切ったニンゲンの眼を、興味津々でいやというほど覗き込んだ。
伊集院は相変わらず身じろぎもせずにスパークリングウォーターのグラスの盆を完全な水平に保っている。
飲料大手メーカーの社長の妹とはいえこんな暮らしは稀に見るものじゃないだろうか。
ジェニファーがピンキーリングを狙ってうにょんと指を伸ばしてくる。
普通もっとハワイに別荘が、とかベンツ何台持ってて、とかであって、——いや持ってるのかもしれないが——この人はだいぶゴシックに振り切れている。
しげしげと作品を眺めながら、メリンダさんは唐突に言った。
「誾野さん、提案なのだけれど、うちに就職しない?」
「就職……ですか??」
「貴女の描く文字には魔力があるわ、いい意味でね。私たち、今日は兄のスポンサーとして視察してるのだけれど、実は私の会社でも文字の描けるデザイナーを探してるのよ。うちの会社の事どれくらいご存知かしら?」
「えっと、あの……今の所フリーでやっていくことしか頭になくて……ですね、それは後ほど考えさせていただけますか?」
「勿論よ、資料をお渡しするから、じっくり考えてみてちょうだい。」
手渡された艶々の資料を貧相な鞄にできるだけ丁寧に詰め込むと、誾野は三つ編みをぴょんぴょんさせてペコペコとお辞儀しながら言われるがまま屋敷を出て、現世の慣れ親しんだコンクリートの路上に帰還した。
やれやれ。面白い世界だったな。
誾野はフリーのイラストレーターとして、なかなか売れている方だった。でも本当は、と心の中で呟く。某有名海外アニメーション会社に就職するのが夢だったんだ。
今の作風はありがたい事に流行で求められているから私もこの描き方をしている。だけど、本当は繊細かつ大胆な曲線、パキッとカラフルな絵、驚くほど滑らかで表情豊かなキャラクター達……そういうものが幼い頃から大好きだった。
万象社、と書かれた瑠璃色の艶やかな冊子は、パラパラとめくるとどうもハンコや印字のフォントを制作する会社のようだった。
私がやりたいのはそこじゃないんだけどな。ぶつぶつと呟いていると向かいから歩いてきた高校生に何とも言えない視線を投げられた。
翌日、誾野は中学の友人の柚梨香と久しぶりに会った。駅近のカフェで待ち合わせた上での生存確認及び近況報告——まあ、いわゆる女子会だ。彼女は丸い目をぱちぱちさせて桃色のスワークルを飲みながら話を聞いていたが、明るい茶髪をふるふると振りながら、「やっぱそんな怪しい会社、やめときなよー、絶対なんかあるって。無理やり囲われてるって。」と言った。
「私もそう思う。」誾野はズズーッとグレープカシスティーを啜った。残った氷がカラカラと音を立てる。
「なんて断ってこよう。立ち消えになったりしないかな?」
「みょん吉、誾野さんの反応は如何かしら?」
メリンダ・琶駕子・ローレンスは脚をくみ変えながら聞いた。
「望み薄です。」
伊集院はジェニファーを撫でながら答えた。
「そんなぁ、どうにかなさいみょん吉。彼女ほどの純粋な精神性を持つ書家はなかなかいないのよ。この文字にこもった力が見える?一度触れただけで肌が焼け崩れるようだわ。」
「本国の我が家に取り憑いた数百の霊たちを一気に祓える程の清い力よ。何とかして意地でも戦力にしますわ。」
そしてあわよくば彼女の文字で朱印を製造して祓札の大量生産で利益を出せるといいわ。
「誾野さんはどうも、文字に興味がないようですね。アニメーション会社に入りたかったそうですが、潰してきますか?」
「やめなさい。」
「誾野さんのご友人がそんな会社やめておけなどと妨害しておりますが、内密に消してきますか?」
「やめなさい。」
「誘……いえ、勿論まずは買収を試みますので。」
「いいえ、貴方はもっとこう、ポジティブになりなさい。」
突然スーツのポケットからヘビーメタルのがなり声が響く。
「いい加減その通知音変えてくださらない?」
伊集院は半月眼鏡をかけ直すと、細かく震えている電話を取った。
「琶駕子嬢、北総地域から出動要請が来ております。」
「全く、いつになったら隠居できるのかしら。」
「隠居は老いる者の特権ですよ、琶駕子嬢。」
「ちゃんとDNAは削れてってるわよ。」
メリンダは黒い婦人帽を被ると、猟銃をガシャリと装填した。
「到着してからでいいのでは?」伊集院を無視して令嬢はツカツカと装甲車に歩み寄る。
「仕事の時間ね。」
「留守を頼みます。」伊集院に鍵束とカードキーを渡された若い使用人が敬礼した。
伊集院は巨大な斧を易々と車のバックに投げ込んでするりと運転席に回ると車を出した。
「それじゃ」メリンダが使用人に挨拶すると、装甲車は重い車体が嘘のように風のように走り去った。
使用人の名は泉芎戈であった。丸刈りで細眼の武道家然とした彼は4年前からこの屋敷に潜入している。
泉は元々妖怪であった。その性質ゆえに冤罪になりかけたところを助けられ、その恩を返す為に今では日本怪異対策機構側の人間として働いている。
この屋敷の女主人は兄の会社が醸成した人脈を使って大型顧客の悪霊退治を生業にして大金を巻き上げている——気に食わん。
だがもっと大きな問題が一つあった。彼女は自らも人ならざる存在であり、悪霊を退治するのみならず従えている……との噂が祓師界隈で流れていた。
あくまで噂だがな。しかし潜入しているうちに不可解なことがかなりある事に気づいた。
この屋敷には銀製品が一切ない。彼女が和食を好んで食べる——というか和食しか食べない為、輪島塗やら古伊万里焼やら清水焼やらは並んでいるのだが、このゴシックな屋敷に銀食器の類が一つもないらしいのである。
ある時顧客のお婆さんから質のいい銀のテーブルセットが贈られてきた時は、「私達がまともなカトラリーを揃えてもいないだろうという侮辱行為かしら?」と声を荒らげるとさっさと処分してしまった。
とはいえ本当にカトラリーの類いを見かけないのだ。
そして彼女は普段から完全に遮光された部屋でシャンデリアの光のみで生活することはもとより、常に夕焼けのような紫のサングラスを手放さない。と思うと陽光の中、意気揚々と悪霊退治に繰り出していくのである。
泉は自分に苛立っていた。4年も潜入して何の尻尾も掴めていない。掴んだような気もするが、報告することが何もないのである。
会社の運営にも裏金や不穏な動きは見られない。帳簿や顧客リストにも健全な経営が記されているだけだった。
足音がする。女性の靴がひとり。泉は舌打ちすると全てを元の位置に完璧に直す。
1人のメイドが執務室に入ってきた。だが泉は落ち着き払っていた。メイドは彼に見向きもせず、菓子瓶を物色すると去っていった。
なぜか。単体の人間にはステルスモードの泉を観測できないからだ。
あれは牧瑚仁という名で生きていた頃。誰がそんな名前をつけてくれたのかは知らない。親はいない。小学生の頃に女の子とした約束が一番古い記憶だった。内容も名前もうろ覚えだ。
それでも普通の暮らしがしたくて、俺は電気会社の本社経営マネージメント部に就職した。
人間ってのは面倒な生き物で、仕事場でさえ感情のゴタゴタを抑えられないらしい。そのせいで、俺は殺人現場に出くわした。ある1人の人間が観測したものはあくまでその人の主観であって、複数の人間が同じものを観測して初めてそれは現実になる。
だから主観の妖怪である俺は、複数の人間に見られない限り存在をあやふやにすることができる。
逆にアリバイを失ってしまうことがあるのが難点だ。
「収穫なしか。平常どおりだな。」
泉は襟を直して壁を抜けると持ち場へと戻っていった。
「あの子ネズミがまた嗅ぎ回ってますよ、琶駕子嬢。」
「やらせておけばいいのよ。」
細い体格の2人は装甲車のキャタピラのせいで激しく揺すられる。
「どうして追い返さないんですか?」
伊集院は彼女が泉に甘い事に気付いていた。琶駕子はきっと、あの妖怪上がりが不憫なのだろう。そうでなきゃ、強制的にコントロール下に置くことだって可能だ。
「あいつは武術にかけてはとても優秀だわ。適当にいなして護衛としてこき使うのが丁度いいのよ。最近は邪道な祓師たちの活動も活発だものね。」
「でももしあいつが機構側に何か伝えでもしたら——」
琶駕子はぶっきらぼうに呟く。
「後で何とかするわよ。」
突然軽い爆発音がして、ガタンと車体が揺れると車が動かなくなった。
「——撒菱か!」
「こんな街中で……噂をすれば、ね。」
ドンドンと叩く音がする。
「大丈夫ですかぁ?爆発とかする前にはやく出てきた方がいいですよぉ?」
ドアを開けると、顔や肩が傷跡だらけの、鼻ピアスをした男が覗き込んできた。
「お姉さん、そろそろボロ出しなよ。」
相手は3人組だ。男は銀の釘を取り出した。
「琶駕子嬢……」
彼女は頷き、こう言った。
「貴方たちの攻撃は私には効かないわ。何故なら私の核は二つに分かれて逆方向にそれぞれ毎秒30センチメートルと毎秒10センチメートルで私の輪郭を周回しているから。車両がパンクした時点での核の位置を脳天又は右の爪先とすると現在の位置はどこかしら?」
男たちは目を見開いた。どういう事だ、訳がわからない。だが数式を解かなければこいつを倒すことはできない。
「2分以内に回答できなければ、言うことを聞いてもらうわ。」
1人は諦めて、歯軋りをしながらこちらに銃弾を浴びせてくる。だがそれが致命傷になることはない。
「あら、よく考えて動きなさい。」
鼻ピアスの男の額に汗が滲む。
当たらない……何だと?だがしかし核の位置を捉えるにも答えを一つに絞れないではないか……どうしたらいいんだ。何でもいい、こいつは、こいつはどう考えても人間ではない!祓わなければ——
彼女は問題文の妖怪であった。
時間は無慈悲に過ぎ去り、3人は呆けた顔で道に立ちすくんだ。
「貴方たちは、私が一般の祓師と何ら変わりない人間だったと上に報告なさい。そしてこの場の後片付けも自主的に行い、一般人の記憶も丁寧に改竄して証拠を隠滅するのよ。」
かつてのように灼熱の中人を喰らうことはもうないが、問題が解けなかった者は言いなりになるしかないのだ。
装甲車が走り去り、そこにはちょっと厳つい見た目の三人と、今まで通りの平和な日常が広がっているだけだった。
「琶駕子嬢、いつまで動く点Pの問題を使うおつもりですか?」
「あら、あれは国民の大半が一度は疑問に思う謎設定の王道だから、意志が収束して催眠が効きやすいのよ。」
「仰っていることがよくわかりませんが、そろそろ聞き飽きてきましたよ。」
数時間後
屋敷に装甲車が着いた音がする。
泉は何事も無かったかのように鍵とカードを渡すと、踵を返して持ち場へと向かおうとした。
「お待ちなさい。」
鈴の音のように澄んだ声が響いた。
鼓動が早くなる。バレたか?
「貴方は、機構の元で働いているのでしょう。」
執事が驚いたように眉をあげると、ずれた眼鏡を直した。
「……」咄嗟に構えを取るが、令嬢のそばには必ず彼がいる。つまり、俺は存在を消すことができない。
妖である確信がない以上、対抗策もない。詰みか?
「お前はそのままでいいのですか?」
「どういう意味ですか……」
「人に恩義があるからと言って、貴方は自分のあるがままの姿を押し殺している。違いますか?」
「……俺は……」俺は、普通の人間になりたくて。
そうじゃなきゃ、迷惑がかかるから。
せっかく——助けてもらった恩義があるから——
「貴方は真面目すぎるのね。助けられたからと言って、そこに帰属するために自分を曲げる必要はないのです。」
その時やっと、伊集院は令嬢の真意を理解した。
妖怪として、この平和な日常を蝕む悪意ある者たちを退けると決めた彼女だからこそ、迷える小鼠を導きたかったのだ。
「もし良ければ本当の意味で、私の元で働きませんこと?」
ヘーゼルとも黄金とも呼べるような瞳がこちらを見据えている。
「住み込みで」
彼女は怪しい部分が沢山ある。あるにはあるが、確かに多くの悪霊を打ち取って貢献している。その上俺を糾弾しないのか。よくわからない人だ。
「わからん。だが雇ってもらえるのなら、その意味がわかるまで、ここに暫く滞在してもいいですが。」
本当にいいのだろうか。
だがあの気弱そうな三つ編みっ娘が何かに巻き込まれないか目をつけてやりたいし、懐で働いて情報を得るというのも悪くない。可能なら何をどこまで把握されているか探らねばならん。
「じゃあ決まりね」
泉は無言で頷いた。
「部屋は東棟の端ですよ。」初めて伊集院に微笑みかけられ、泉は困惑した。
そんなこんなで俺の屋敷生活が開始する事になった。機構には吸血鬼じゃ無かったことを報告してある。
誾野という存在も報告済みだ。
その頃四畳半で背中を丸めて絵を描きながら、誾野は何度も何度もくしゃみをしていた。
終




