「ノシノシバンバン」
初夏の透き通った日差しの中、溝口は古本屋を梯子していた。
有象無象な他人の言葉を読める時代だが、お金を出して古美術みたいな本を嗜むのも悪くない。
完成された小説も、くだらない呟きも、それぞれ面白いと思う俺は外道だろうか、ゲーテさんよ。
4冊くらい見繕い、浮き足立っていた彼は、一歩踏み出して空の明るさに目眩がした。
慣れない目で暗がりを求めて見回すと、その昔、英国に留学した時に見たパブサインみたいな看板が吊り下がっている。
どうやらアンティーク商みたいだ。
ショーウィンドウは暗くてよく見えないが、ガラスの表面に職人技のカリグラフィーが美しく施されている。
凝った細工の取手を掴んでドアを開けると、カラカランとこれまた軽やかな音色に迎えられた。
丸メガネを掛けた店主が、エプロンを着て陶器の人形の棚をはたきで掃除している。
「いらっしゃいませ。」
天井では惑星のモビールの周りを飛行機の模型がぐるぐる回っている。
BGMはElectro Swingといったところか。
ふと、左手の雑多な机の上でヒラヒラと動いてる水色のドレスが目に入った。
これは何だろう。1930年代のゴムホースアニメのキャラクターみたいだ。黒い手足に誇張された白手袋とでかい靴が不釣り合いだ。
そいつは滑らかにチャールストンを踊っていたが、こちらに気づくと恥ずかしそうに踊るのをやめて座り込んだ。
大きな目鼻と口…があるべきところにはチューリップが生えている。
湿った花弁のピンクからオレンジのグラデーションが美しい。 …いや、なんなんだこの生き物は。
「AIチップで動いているんだ。綺麗だろう。科学とは現代の錬金術よな。」
店主は水墨画の筆みたいな髭を撫でながら言った。
AIがここまでできるなんて聞いたことがない。
正直、カートゥーンの付喪神かなんかかと思った。
チューリップは机の端に腰掛けて足をぶらぶらさせている。
店内を見渡すと、そこらじゅうに世界各国から集めたらしい古い玩具が置いてある。
店の奥のドアも、水密ハッチの回すハンドルみたいなのがついているといったこだわり様だ。
趣味に全振りするタイプの変人なんだろう。
この店に来客は珍しい。
イギリスフェチのサラリーマンだろうか。
仕立ての良い茶色のスーツが、今日はここに来る運命でした、みたいな佇まいだ。
机に座り込んで客の癖っ毛を見ていると、かつての記憶が蘇ってきた。
「千代、あんまり走らないの!」
子供部屋にバタバタという足音が駆けてくる。頬を赤く染めて息を切らしている。
赤いTシャツの背中には虹の下でピクニックするクマさんのワッペンがついて愛らしい。
彼女の大事にしていたミニーちゃんのフィギュアは、弟が癇癪を起こして道路に投げたせいで首がもげてしまっていた。
彼女はおもむろにさっき花壇から取ってきた花を刺すと、嬉しそうな声を上げ、じっと見つめた。
辞書の暗がりに止まったテントウムシが窓の外へと飛び立った。
これでよし。可愛くなった。
「ミニーちゃんふっかつ!」
そういうと小さなツインテールを揺らしながら彼女はお父さんを呼びに行った。
私は、ちびっ子が作り出したキメラにそっと忍び寄ると、チューリップの茎に体を這わせた。
成長因子が植物を促して、ちろちろと根っこが生え始める。私は一体になって勢い良く畝りながら、外殻の中に体を張り巡らせる。
プラスチックの指先に、じんわりと感覚が宿った。
身震いして、久方ぶりのヒトガタを懐かしむ。
蜂に刺されたみたいな白い手袋をキュッキュとグーパーしながら、さてどう逃げ出そうかと思っていると、千代がいつのまにか半開きのドアの前に佇んでいた。
道路に飛び出した鹿よろしく固まっていると、千代は目を逸らさずに部屋の隅でゴソゴソやりだした。
バンっ
「ミ……うーん、リップちゃん!ほんとは動けるんでしょ。ちよ、知ってる!」
私は動けない。
パソコンを目の前に差し出して、千代は一生懸命訴えた。
「誰にも言わないから、動いてみてっ!」
「ここに文字があるから、ボタンみたいに押したら、文字書けるから!お話しできるから!」
千代はリップちゃんにせいいっぱいの面白話を聞かせた。
隣の席のまちだくんのこと、制服に蝶がついてるのを指摘したら、からかわれてると勘違いして、意地でも確認しなかった友達のこと、葉っぱの複数形ははっぱーずだと言い張った子のこと。
千代の話を聞くのも楽しかったが、リップちゃんにはせっかく手に入れた第二の人生があった。
彼女は感謝の気持ちと爆笑の意味を伝えたかった。
置き手紙のかわりに、慣れた手つきでパソコンに文字を打ちこむ。
それは当直後の朝、帰宅してモーニングコーヒーを「No.1社畜」のマグに淹れた直後のことだった。
「パパ……なんかパソコンに変なことが書いてあるの。それに…リップちゃんがいなくなったの。」
娘は今にも泣き出しそうな顔でこちらをみつめている。
それを聞いて安心した部分があったという事を、俺は墓まで持って行こうと思う。
人形が動くとか、パソコンで会話するとか、所詮子供のくだらない妄想ではあるが、ちょっと気味が悪い部分があるのだ。
「わかったよ、パパが見てあげるよ」
千代の手を引いて子供部屋に行くと、お下がりのWindowsの画面を覗き込む。
目の粗い液晶が青白く光っている。
ノシノシバンバン
ノシ
なるほど確かに文字が打ち込まれている。
ノシ、とはなんだ。
いやしかし変な冗談を思いついたものだ。
娘のしたり顔を期待して目をやると、不安そうに俺の服の裾にしがみついている。
……違うのか。
サツキが仕掛けたとは思えない。
亮介も、こんな机の上に手が届く身長ではないしな。
ノシノシバンバン、
なんと怪物的な響きだろうか。
どうせ近所の猫が入り込んで、キーボードに乗っかって行ったんだろう、と仮定して、どこにもそんな隙間が思い当たらないことを確信してしまった。
なんかのウイルスだろうか。
じわじわと焦りがでる。
考えれば考えるほど、理解不能の闇に呑み込まれる感じがして、健介は冷や汗を拭いた。
パタン、とパソコンを閉じると、健介は言った。
「ちぃちゃん、新しいパソコン欲しいか?」
それはこの一家に未来永劫伝わる背筋も凍る怪談、ノシノシバンバン誕生の瞬間であった。
サウナのようなアスファルトを歩きながら彼女は思った。
私の意図は果たして伝わったんだろうか。
シンプルに、「超おもしろかったよ、バイバイ」と書けばよかっただろうか。
いやでも、あんましっかり文にしすぎると誰か入ってきた、とかで盗人騒ぎとかになりかねないし、あの子が自作自演した嘘つきみたいになるのもいけない。
どうしたらよかったんだろう。ちょっと古すぎたかな。
まあでも、調べればきっと意味とかわかるし、大丈夫でしょ。
古物商のバックヤードの研究室で、保存液につけられた脳みそは、ギャル上がりの平成OLの、楽天的なノリを忘れていなかった。
一戸建てに充満する恐怖を背に、彼女は花弁をそよがせて立ち去った。
掴んだ吊り革に力を込めながら、溝口は思った。
今日はたくさんの収穫があったな。
そう思いつつスマホを開いている自分に気づいて苦笑いする。人の脳みそが吐き出した排泄物は、自分にとってキャンディとかジェムみたいなもんで、平たくいうと興味深いのだ。
だとすると脳みそってのはイースターバニーみたいなもんで、リヴリーアイランドのペットみたいなもんだ。
溝口は小さな画面上の生き物を優しく撫でると、バーチャル空間で挨拶をした。
「ノシ」
この単語も正直意味はわからないが、なんか面白い。
「よろ」とか「こん」と同列に配置されているのが余計に理解不能だ。
ぽんぽんと生まれる吹き出しのなかで、過ぎ去りし平成文化の残渣が手を振っていた。
終




