8.夢のホワイト雇用、現実は下僕
伊津の問いに、夏樹はゴクリと唾を飲み込んだ。
「それは……その。実は全然よく分かってなくて……あの、この仕事って危なかったりしない、ですよね……?」
夏樹は縋るように正直な心境を吐露する。
今、分かっているのは、借金を返すまで「春日井の下で雑用の仕事をこなすこと」という一点だ。願わくば、前職より少しでもホワイトであってほしいが――
しかしそんな夏樹の切実な問いに対し、伊津は「困ったわね」と言いたげに頬に手をあてた。明言を避けるその様子に、夏樹は嫌な予感をヒシヒシと感じる。
相変わらず、部屋には春日井がキーボードを激しく叩く音が響いている。そんなBGMを背後に、伊津はマグカップの温かいお茶を一口すすると、質問には直接答えず穏やかな口調で口を開いた。
「あなた、この前、九十九駅で『変な場所』へ迷い込んだでしょう?」
「九十九駅」という言葉に、夏樹の肩は大きく跳ねた。脳裏にあの恐ろしい体験が蘇り、心臓が破裂しそうな勢いで早鐘を打ち、冷や汗が背中に滲む。
「……はい。確かに降りてきた階段がコンクリートの壁に塞がれて、変な電車は来るし、おかしな声は聞こえて……」
「そう、それは本当に怖かったし、大変だったわよねぇ」
あの日の光景を思い出して声が震える夏樹に対し、伊津はあくまでも世間話でもするようなトーンで頷いた。
「よく私たちが普通に暮らしている現実を『この世』、死んでしまった人が行く場所を『あの世』って言うじゃない? 実はね、そんな『あの世』と『この世』とは別に、上手く成仏出来ずに、『あの世』にいけなかったモノが居る、『異界』っていうものがあるの」
「い、『異界』ですか……? その、よくオカルトなんかでいう、幽霊とか化け物がいる……?」
「そうそう! よく知っているわね。異界はこの世の理から外れたものや迷い込んだ霊が吹き溜まる、とっても厄介な場所、そんな感じのものよ」
「ま、まさか、この前の九十九駅が異界!?」
「んー、『半分』当たりね。正しくは、『この世』と『異界』との間には、二つが混ざり合った、『狭間』ってところがあるの。海水と淡水が混ざる場所みたいな。『異界』そのものじゃないけれど、その一歩手前の入口みたいな所。夏樹くんが迷い込んじゃったのは、そういった『狭間』なの」
「はざま……?」
――異界に、狭間。
伊津の口からポンポンと飛び出すオカルトチックな単語に、夏樹は頭がクラクラと眩暈を起こしそうになった。
これがカルト宗教の勧誘か、あるいはたちの悪いドッキリなら良かった。だが非常に残念なことに、自分は伊津の言葉が嘘ではないことを身をもって知っている。
あの日から三日間、頭のどこかで「こんな非科学的なことがあるわけない」とずっと否定し続けてきたのに、まるで当たり前の様に肯定されてしまって、心の逃げ場がなくなってしまった。
「実は『狭間』はこの世のどこにでも存在し得るし、どこからでも繋がる可能性があるの。ほんの一瞬だけ、とかね。ただたまに、どうしても『繋がりやすい』時間帯や場所が出来てしまって……そういった『狭間』を放っておくと、一般の人が迷い込んで帰ってこられなくなったり、異界のモノがこっちに滲み出てきたりして、少し面倒なことになるのよね」
伊津は空になったマグカップをテーブルにコトリと置き、声を少しだけ潜めた。
「だから、そういう『狭間』を見つけて、安全に閉じるためのお仕事をしている人たちが実はいるのよ。それが『狭間塞領事務所』っていう組織」
「……狭間、塞領……事務所……」
「表向きは、普通の土地の測量なんかをやってる、独立行政法人ってことになってるんだけどね。実態は、狭間を調査し、塞ぐための、国から直接依頼を受けている準公的な専門部署なのよ。ほら、コレが対外的な名刺」
伊津は可愛らしい花柄の名刺入れを取り出し、その中から一枚の名刺を取り出してみせる。白いシンプルな名刺には「独立行政法人 間測量事務所 瀬田谷支局」という社名と住所、そして伊津の名前が印刷されていた。その「間測量」という文字にボールペンで「狭間塞領」とルビをふって夏樹に手渡す。
独立行政法人、国から直接の依頼――その言葉を聞いた瞬間、夏樹の頭の中で、恐怖とは別の現実的な思考が煌めいた。
(準公的な機関……ってことは、もしかして半分公務員みたいな待遇だったり……!?)
公務員もピンキリとは言うが。少なくとも『反社会的』な仕事ではなく、国が運営している組織の末端労働者であるなら、社会的な身分は保証されそうだ。
借金のカタに雑用と言われ、福利厚生が望めない地獄の労働になるかと覚悟していた所に、わずかな希望の糸が垂らされた気配を感じ、思わず夏樹は食いついた。
「あ、あの! ということは俺は、その『狭間塞領事務所』という組織に所属することになるんでしょうか!?」
若干、身を乗り出し気味に尋ねる。
社会保険に労災保険、最低賃金の遵守。そんな淡い期待を込めた彼の問いに対し、伊津は「うーん」と少し困ったように眉を下げた。
「ちょっと違うわねぇ。春日井くんは、独立して自分の会社を持っているから」
「……へ?」
「塞領事務所の職員さんはね、基本的に狭間の『管理』と専門部門への『パイプ役』がメインなの。一応、基礎的な能力はあるんだけど、あくまでも手順のある『管理』を目的とした能力だから、どうしても事務所の職員だけじゃ『手に余る仕事』が出てきちゃうのよ」
伊津は、背後でモニターに向かって舌打ちをしている春日井に視線を向けると。
「春日井くんはああ見えて、すごく優秀な『塞領師』なの。だから、事務所で処理しきれない厄介な案件を、彼の会社――『AFK環境調査株式会社』に外部委託してるってわけ。あんな自堕落に見えて、一応、代表取締役社長なのよぉ」
プツリ、と。
夏樹の脳内で、先ほどまでしがみついていた希望の糸が、無残に千切れる音がした。
株式会社。社長。聞こえはいいが、要するに春日井はただの下請けのワンマン零細企業だ。そして自分は、その下請け業者のさらに下でこき使われる「雑用係」。再び、労災どころか、労働契約書すら存在しない、完全なるブラック雇用の可能性が見え始めて震えてしまう。
だがそれよりも、夏樹の生存本能に引っかかった伊津の言葉があった。
「……あの、伊津さん」
夏樹は内心「聞きたくない」と思いつつも、恐る恐る尋ねた。
「その、事務所の方々でも手に余る、厄介なお仕事って……」
嫌な予感しかしない。どうしてわざわざ専門のフリーランスに丸投げするのか。
「もしかして、『命に関わるような危険なお仕事』って意味ですか……?」
夏樹の問いに、伊津はふわりと、今日一番の人の良さそうな笑みを浮かべた。
「まあ、そういうものばかりじゃないのよぉ」
「……え?」
「春日井くんはとにかく凄いオールマイティだから、ちょっと専門の人が不足してるって時にも、頼りにしちゃうだけで、気をつければ大丈夫!」
(そういうもの『ばかり』じゃない……!)
笑顔のまま、伊津は決定的な言葉を濁したが、夏樹の危機センサーは、恐るべきスピードでその言葉の真意を叩き出した。
つまり、確実に「命に関わる危険な仕事」が存在するということだ。そして「気をつければ大丈夫」という言葉の裏には、「気を付けなければ危険」という絶対的な事実が隠されている。
そんな仕事を、自分はこの無愛想で横暴なフリーランスの青年の下で、なんの保証もない「雑用」として手伝わされるのか。
ダダンッ!
背後で、春日井がマウスをデスクに叩きつける激しい音が響いた。ゲームで負けたのか、「クソが」という低く苛立った声が聞こえた。
夏樹の背中を、どっと冷や汗が流れ落ちていった。
おかしな場所で化け物に囲まれて死ぬよりマシと思ったが、この先に安寧の死はあるのか。
九十九駅のホームから脱して遠ざかったと思っていた命の危険は、どうやらまだ、夏樹の足元にポッカリと穴を空け、待ち構えたままだったようだ。




