7.もしかして、これって入社テスト中ですか?
驚いて振り返った夏樹の後ろには、年齢は五十代半ばくらいだろうか。少しふくよかな体型に、落ち着いたブラウンの膝下丈のスカート、柔らかな素材のカーディガンを羽織った、どこにでもいそうな「普通のおばさん」が立っていた。
ふんわりとした髪を後ろで緩く結び、手に可愛い熊のロゴが入ったエコバッグを提げた姿は、スーパーか町内会の集まりから今帰ってきましたよ、といった様子にも見えた。
ヤクザか怪しい宗教の事務所に特攻するような心境でいた夏樹は、思いもよらぬのんびりとした女性の登場に、思考が一瞬、空回りした。
「あ、いえ、俺は……この部屋の方に、その、呼ばれてきまして……」
自分の雇用主であるはずのあのパーカーの男の名前が分からず、夏樹は曖昧に言葉を濁す。流石に「目つきの悪い、常に不機嫌そうな人に呼ばれたんです」とは言えるはずもないし、「おかしな駅に迷い込んだ所を助けてもらった」と、真実を言って良いのかも分からなかった。
どう説明したら良いのか、言葉に詰まる夏樹を見て、女性は「ふふっ」と小さく笑い、呆れたようにため息をついた。
「あらあら、春日井くんったら、本当に、なーんにも説明してないのね」
「……かすがい?」
「そう。この部屋の主よ」
女性はそう言いながら、夏樹の脇をすり抜けてドアの前に立つと、おもむろにドアノブに手を掛けた。
そのまま腕を引けば、重厚な金属のドアが、いとも簡単に開いた。
(えっ……鍵かけてないの!?)
鍵が開いていたからと言って勝手に入る気にはならないが、都内の高層マンションで、オートロックとはいえ、いささか不用心過ぎるのではと驚く。もしかして得体の知れない力を持っているから、鍵など必要ないのだろうか。
そんな夏樹の戸惑いなど気にも留めず、女性は「さ、入って入って」と手招きをして、勝手知ったる他人の家という様子ですたすたと上がり込んでいく。その後ろ姿に、夏樹も「失礼します」と小声で呟き、恐る恐る玄関に足を踏み入れた。
革靴を揃えて脱ぎ、短い廊下を進む。
家の中は、想像に反して、おどろおどろしい雰囲気も、血生臭い匂いも、怪しげなお札が貼られているわけでもなかった。
それはごくごく普通の、生活感がある家だった。
足の踏み場もないほどのゴミ屋敷というわけではない。ただ、通販の段ボール箱がそこかしこに放置され、開け放たれた奥の部屋には、脱ぎ捨てられた服や本が無造作に積み上げられている。インテリアへのこだわりも無いようで、量販店でよく見るような安価な家具やスチールラックが雑然と置かれていた。
――正直に言うなら、強烈な既視感を覚えた。部屋の広さや物の量こそ違うが、夏樹自身の部屋と同じ『無頓着な男の一人暮らし』の空気が漂っていた。
そうして廊下を抜け、踏み入れた居間で、夏樹は自分をこの場所に呼び出した張本人を見つけた。
部屋の壁際に鎮座する、やたらと大きく黒光りするゲーミングデスク。三画面のマルチディスプレイの画面には、FPSゲームが映し出されている。
そのデスクの前に置かれた高級そうなゲーミングチェアに深く腰掛け、マウスとキーボードを操作しているのは、あの日と同じ黒いパーカーを着た青年――春日井だった。
彼の頭には、分厚いイヤーカバーのヘッドフォンが装着されている。あれではインターフォンのチャイムなど、聞こえるはずもないだろう。
「もう春日井君ったら、いっつもこれなんだから」
女性は、ゲームに没頭する春日井の背中を見て、自堕落な息子に向ける母親のような、呆れと諦めの混じったため息をついた。そして、彼に声をかけることもなく、当然のようにキッチンへと向かい、エコバッグから買ってきたらしいティーバッグを取り出しつつ、電気ケトルに水を注いでスイッチを入れた。
「そちらに座りなさいな。立ちっぱなしも疲れるでしょう」
キッチンから、居間の中央にある小さなダイニングテーブルを視線で指し示す。
だが夏樹は、居間の入り口から動くことができなかった。なにしろ一人暮らし用のコンパクトなテーブルには、椅子が一つしか備え付けられていないのだ。
ここに自分が座ってしまえば、おそらく自分にお茶を淹れてくれようとしている彼女の、座る場所がなくなってしまう。
(もしかして、これは新手の入社テスト……?)
目上の人が座るまで、座ってはいけないというマナー力を試されているのか。人の良さそうな女性の様子はそんな意地悪をするようには見えないが、案外、人は見かけによらないこともある。
「い、いえ! 俺はここで結構です! な、なにか手伝えることはありますか?」
「あらそう? 遠慮しなくていいのに」
葛藤の末、椅子を辞退して手伝いを申し出る。すると、タイミング良くお湯が沸き、女性は手慣れた手つきで二つのマグカップにお茶を淹れ、「じゃあ、カップをテーブルまで持ってってくださる?」と夏樹にマグカップを手渡した。そして彼女は、台所の隅にあったプラスチック製の安っぽい折りたたみの踏み台をひょいと掴むと、それに座ってテーブルにつこうとした。
「っ!? お、お待ちください!!」
夏樹はあわててテーブルに備え付けの椅子を掴んで、女性へと差し出した。
「どうぞこちらをお使いください! 年上の方に踏み台を使わせるなんて、できませんので!」
「あらあら……丁寧な子ねぇ。それならお言葉に甘えちゃおうかしら。ほら、あなたもどうぞ座って?」
この場所のヒエラルキーはさっぱり分からないままだ。しかし、少なくとも一番下手に出ておいた方が、己の精神衛生的に負担がない気がする。そんな心持ちで椅子を譲る夏樹に、女性は目を丸くしておかしそうに笑い、椅子へと腰を下ろす。その姿に夏樹はやっと胸をなで下ろし、自分も踏み台へと腰を下ろした。
ちなみに、このやりとりの背後からは、カタカタ、タンッ、タタンッと、春日井が激しくキーボードを叩く音と、舌打ちだけが絶え間なく聞こえている。
「ごめんなさいねえ、あの子、ゲームが一区切りつくまではこっちに反応してくれないから、ちょっと放っておきましょ」
女性は春日井をチラリと見て、マグカップからお茶をすすりながらのんびりとした口調で言う。
「そうそう、自己紹介を忘れてたわね。私は伊津 成子。いつも春日井くんへちょっとした『お仕事』をお願いしているの。これからどうぞよろしくね」
「あっ、俺の方こそ名乗らずにすみませんっ、綱木夏樹と申します。よろしくお願いいたします」
伊津の言葉に、夏樹は社会人の基本である自己紹介をしていなかったことに気がつき、立ち上がって一礼する。そんな夏樹に伊津は「そんなに固くならないで。リラックス、リラックス」と緩く笑う。
そしてマグカップをテーブルに置くと、それまでのおっとりとした雰囲気をわずかに引き締め、微笑んでいるのに、どこか底知れない静かな瞳で夏樹を見つめた。
「さて、夏樹くん」
「はいっ」
伊津の雰囲気が変わったことに、背筋を伸ばす夏樹に対し、伊津は柔らかく、しかし逃げ場のない声で尋ねた。
「あなたは、一体どこまで聞いているのかしら。私たちがここで、『どんな仕事をしているか』……知ってる?」




