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狭間塞領奇譚 〜元社畜は、最強霊能者に拾われ、もふもふ猫先輩を愛でたり怪異に怯えたり、頑張ります!〜  作者: キキ イチ
第2章 新しい職場と業務説明

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6.覚めない悪夢とファミリーマンション

 


 階段を上りきり、改札階へと出た夏樹の目に飛び込んできたのは、見慣れた日常の風景だった。

 少し閑散としてはいるものの、自動販売機の前でコーヒーを買うサラリーマンの姿があり、自転車に乗った学生達が笑いながら横を通り過ぎていく。電光掲示板には、意味不明なバグ文字ではなく、見慣れた地名と発車時刻が正しく表示されていた。

 生きている。帰ってきたのだ。

 膝から崩れ落ちそうになるほどの安堵感に包まれた夏樹の前で、青年は唐突に足を止め、振り返った。

 そして、手を出したかと思うと。


「スマホ」


 夏樹が呆然としていると、青年はさらに短く、命令するように言葉を継いだ。


「連絡先」


 苛立ちが滲んだ声に、夏樹は反射的に震える手でスマートフォンを取り出し、ロックを解除して青年に差し出してしまった。

 青年はそれをひったくるように受け取ると、自分のスマホも取り出し、二つを素早く操作する。

 数分の後、手元に突き返されたスマホの画面には、見知らぬ「HZM」という名のアプリが追加されていた。


「連絡する」


 それだけ言い残し、青年は夏樹とすれ違うようにして、再び駅の階段を下りていった。

 夏樹はしばし、あっけにとられてスマホを見つめたあと、ハッとして振り返る。しかしその時にはもう、まるで幻だったかのように彼の姿はなかった。

 その時になって初めて、夏樹は青年の名前すら聞いていない事に気がついた。

 不気味な場所で命の代わりに五百万円の借金を背負い、雇用契約を結ばされたというのに、何も知らないのだ。

 だがその事を気にする余裕はこの時の夏樹にはなかった。


(も、疲れた……) 


 安堵と共に、どっと全身の力が抜け、とてつもない疲労感が襲ってくる。

 早く帰りたい。

 しかし、この駅のホームに、もう一度足を踏み入れて電車に乗る勇気など、微塵も残されていなかった。

 またあの狂った空間に引きずり込まれるかもしれない。その不安から逃げるように駅から出て、目についたタクシーに転がり込み、自宅のアパートへと帰った。

 求職中の身にとって、タクシー代という予期せぬ出費はあまりにも痛手だ。だが、この時は、一刻も早く日常である「自分の城」に鍵をかけて引きこもることしか考えられなかった。

 自宅のベッドに潜り込み、布団を頭から被った瞬間、夏樹の身体はガタガタと震え始めた。


(今日の事は、きっと何か……そう、悪い夢だ)


 面接のストレスと、連日の就職活動による疲労が重なり、一時的に脳がバグを起こして、ひどくリアルな悪夢を見ていたのではないか。

 そうだ、きっとそうだ。あんな、人が目の前で消えたり、足が勝手に動いたり、見えない声が聞こえたり、借金を背負わされたりするなんて、現実であるはずがない。

 帰ってから翌日の昼まで、夏樹は死んだように眠り続けた。目が覚めた後も、必死にあれはただの幻覚だったと自分に言い聞かせ、現実逃避を試みた。

 夕方、早々に先日の面接の結果を知らせるメールが届いたが、夏樹は初めて不採用と言われるお祈りメールに安堵した。これでもう二度と、あの九十九駅には行かなくてすむ。

 だが翌日の朝。

 スマホの画面が明るく光り、一つの通知が表示された。

 あの日勝手にインストールされたアプリからの通知だ。今まで、スマホの片隅にあるその不気味なアイコンを、頑なに見ないふりをして過ごしてきた。しかし、画面のど真ん中にポップアップした通知を消そうと焦った指先が、無情にもそれを誤タップしてしまった。

 ぱっと見は普段使うメッセージアプリによく似たそれに、届いた内容はとてもシンプルだった。都内の住所と。


『明日、始業時間 10時』


 それを見た瞬間、夏樹が二日間かけて築き上げた「悪夢だった」という現実逃避は終わりを告げた。

 あの不機嫌な青年も、五百万の借金も、あの狂った駅も、すべてが現実だった。

 スマートフォンを持つ手がガタガタと震え、吐き気がこみ上げた。どうしようもなく、このメッセージを無視してしまいたかった。ブロックして、電源を切って、このまま部屋に閉じこもってしまいたかった。


 だが、もしそんなことをすれば、どうなるか?


 あの青年が自分を見つけ出し、どんな報復をしてくるのか想像もつかない。常識が通用しない次元にいる相手との約束を破る恐怖は、ヤクザに喧嘩を売るより結果が分からず恐ろしかった。

 結局、夏樹は一晩中一睡もできないまま、指定された住所を調べ、何を着ていけばいいのかすら分からないまま、面接用の無難なスーツに身を包んだ。




 ――そうして現在、午前九時五十分。


 すでにワイシャツに汗が滲む暑さにげっそりとしながら、夏樹は、閑静な住宅街にそびえ立つ、真新しい二十階建てのファミリーマンションの前に立っていた。

 エントランスには手入れの行き届いた植え込みがあり、ベビーカーを押した若い母親が通り過ぎていく。どこにでもある、ありふれた、平和で穏やかな日常の風景だ。

 しかし夏樹は、死地に向かう罪人のように重い足取りでマンションへと歩いていく。

 手の中で、冷や汗で滑りそうになるスマートフォンを強く握りしめる。画面に表示されている簡素なメッセージの住所と、目の前にある大理石風の壁面に彫られた横文字のマンション名を見比べる。


(……間違いない。ここだ)


 時計に目をやると、約束の「始業時間」である十時まで、あと五分というところだった。

 遅刻はもってのほかだが、早すぎても叱られる場合がある。あの青年に対する勝手なイメージだが、何十分も前に来い、という熱血なタイプではないと予想しての時間だったが正解だろうか。

 夏樹はゴクリと乾いた唾を飲み込み、意を決してオートロックの操作盤へと手を伸ばした。

 震える指先で、指定された部屋番号をプッシュし、最後に「呼出」のボタンを押す。

 プルルルル、という無機質な電子音が、静かなエントランスに響き渡った。

 しかし、すぐに応答はない。

 十秒、二十秒と時間が経過していく。コール音が延々と鳴り続けるが、それでも、インターフォンの向こうからは何の気配も感じられなかった。ただでさえ極限状態にある夏樹の胃の腑が、ギリギリと締め付けられるように痛み始めた。

 出ない。もしかして、部屋番号を間違えたのだろうか。いや、呼び出しボタンを押す前に何度も確認したはずだ。

 訪問する時間が早すぎたのか、それとも遅すぎたのか――?

 前職であるブラック企業に勤めていた頃のトラウマが脳裏をよぎる。「お前、アポの時間もまともに計算できねぇの?」という、かつての上司の呆れた声が耳の奥で再生され、夏樹の呼吸が浅く、早くなっていく。

 もう一度押し直すべきか、それともこのまま待つべきか。迷いと恐怖で心拍数が跳ね上がり、いっそこのまま回れ右をして、全速力で逃げ出してしまいたいという衝動に駆られた、ちょうどその時だった。


『――はいれ』


 ブツッ、というノイズ混じりの音と共に、スピーカーからひと言だけ、ひどく不機嫌な低い声が響いた。

 あの、青年の声だ。

 その直後、ウィーンという機械音を立てて、目の前の自動ドアが、ゆっくりと左右に開いた。

 エントランスからエレベーターホールに続く通路は柔らかな間接照明で照らされているが、夏樹にはそれが、あの駅で口を開けて待っていた「電車のドア」と同じものに見えた。


(……帰りたい……)


 きゅうぅっと、胃が再び締め付けられるように痛んで、吐き気を覚える。だが、恐怖と逃亡衝動を、夏樹は必死に奥歯を噛み締めて押さえ込んだ。ここで逃げれば、どんな恐ろしい報復を受けるか分からない。

 夏樹は鉛のように重い両足を引きずるようにして、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を進み、待機していたエレベーターに乗り込む。

 指定された高層階のボタンを押すと、箱は滑るように、音もなく上昇を始める。しばらくするとポーン、という軽やかな電子音が鳴り、エレベーターは静かに停止した。

 ゆっくりと扉が開くのに合わせて、夏樹は深呼吸をする。指先は緊張と恐れで冷たくなっていたが、それでも前へ進むしかなかった。

 静まり返った外廊下には靴音がよく響いて落ち着かない。指定された部屋はエレベーターから一番離れた、角の部屋だった。

 重厚な焦げ茶のドア。その横に設置されたインターフォンを前に、もう一度、ネクタイの結び目を無意識に正す。そして、震える指先でインターフォンの呼び出しボタンを押した。

 夏樹は息を潜め、ドアの向こう側の気配を探った。足音が近づいてくるか、あるいはスピーカーからあの不機嫌な声が響くか。

 それとも、最悪の事態――例えば、ドアが開いた瞬間に得体の知れない化け物が飛び出してくるか。

 しかし。

 エントランスの時と同じで、十秒経っても、二十秒経っても、ドアの向こうからは何の反応もなかった。


(……不在? いや、そんなはずは)


 夏樹は慌ててスマートフォンを取り出し、画面に表示されたメッセージと、目の前の部屋番号を何度も見比べる。間違いなくここだ。時刻も、指定された十時ちょうど。遅刻も早く来すぎてもいない。

 もう一回押すべきだろうか。

 指を宙に浮かせたまま、夏樹は葛藤する。訪問先でインターフォンを何度も鳴らすことは「相手を急かす無礼な行為」としてあまりよろしくない。だが、逆にここで待機し続けて「なぜさっさと入ってこない」と理不尽に怒鳴られる可能性も十分にある。相手は、自分の命の値段を五百万と設定した、冷たい目をしたあの青年なのだ。

 どうすれば正解なのか。冷や汗がこめかみに滲み始めた、その時だった。


「あらあら。あなたが、噂の助手さん?」


 背後から不意に、おっとりとした声がかけられた。




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