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狭間塞領奇譚 〜元社畜は、最強霊能者に拾われ、もふもふ猫先輩を愛でたり怪異に怯えたり、頑張ります!〜  作者: キキ イチ
第1章 九十九駅

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5.望まぬ就職先決定につき、求職活動終了のお知らせ



 五百万円を一括で払うことは、現状不可能だ。

 借りるにしても限界がある。ならば、少しでも時間を稼ぐしかない。毎月数万円ずつでも返済できれば、働きながら生きていける。そんな、蜘蛛の糸にもすがるような心持ちで申し出たが。


「駄目」


 青年の答えは、瞬き一つする間もないほど、即答だった。

 そこに同情や交渉の余地は微塵も存在しなかった。ただ「不可能である」という事実だけを冷酷に突きつけてくる。

 夏樹の目の前で、かろうじて繋ぎ止められていた希望の糸が、プツンと音を立てて断ち切られた。


 五百万を一括払い。


 その言葉が、重い鉛となって夏樹の胃袋の底にドスンと落ちる。


 払えない。なら、助けてもらえない。

 俺はここで、あの電車に乗せられて、正体不明のバケモノの餌食になる――


 視界がぐにゃりと歪み、周囲の音が一瞬、遠くへ退いていくような感覚に陥った。


『――主君! そのような非道な……!』


 その時。

 絶望の底に沈みかけていた夏樹の耳に、またしてもあの見えない男の声が響いた気がした。

 先ほどの「主君には心がない」と呟いたのと同じ、時代がかった重厚な声。しかし今は、どこか青年を咎めるような、強い叱責の響きを帯びていた。

 しかしその声も、現在の夏樹には届かず、上滑りしていくだけだった。脳内は「五百万円」「一括払い不可」「死」という単語で完全に埋め尽くされており、もはや見えない化け物が何を言おうが、どうでもよくなっていた。

 化け物や幽霊より、目の前で命の値段を五百万と設定し、それを一括で払えと迫ってくる生きた人間のほうが、よほどおぞましく、恐ろしい存在だった。

 夏樹が力なくうなだれ、完全に生気を失いかけたその時、青年はポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうに口を開いた。


「……ただし。俺の出す『条件』を飲むなら、分割でもいい」


 その言葉に、夏樹は弾かれたように顔を上げた。

 「分割でもいい」その響きは、夏樹の地獄に再び蜘蛛の糸を垂らした。

 青年は、夏樹の顔を無表情に見つめ返しながら、淡々とその条件を口にした。


「条件ってのは、俺の下で働くこと。まあ、要するにパシリとか雑用だな」

(雑用として、彼の下で働く――?)


 その瞬間、夏樹の頭の中で、ある種の「センサー」が、けたたましい警報を鳴らし始めた。


(これは、マズい。絶対にマズい)


 仕事内容の詳細が一切不明瞭な「雑用」という言葉。命の危機につけ込んだ、弱みを利用する極端な力関係。そして何より、この圧倒的に理不尽で傲慢な青年の態度。

 夏樹の脳内に燦然と「ブラック企業」の文字が輝いた。

 いや、普通のブラック企業ですらない可能性もある。下手をすれば反社会的勢力か、あるいはもっと得体の知れない、ヤバい組織の末端労働者としてこき使われる未来しか見えない。そもそもこんな場所に居る時点でヤバさは折り紙付きだ。青年の格好こそ普段着だが、趣味でこんなところに来るタイプには見えない。明らかに仕事の一環だろう。つまり、こういう異常な空間が、夏樹の未来の仕事場になるということだ。

 こんな条件を飲めば、労働基準法などという言葉が辞書に載っていないような過酷な環境で、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くされるのは火を見るより明らかだった。


(無理だ。こんなの、絶対に罠だ……!)


 夏樹は心の中で絶叫し、首を横に振ろうとした。

 しかし、彼の首はピクリとも動かなかった。

 ここで「嫌です」と断ればどうなるか。残される選択肢は、この駅に置き去りにされて普通じゃない「死」を迎えることだけだ。

 それに対し、条件を飲めば、ブラックな環境で過労死するかもしれないが、少なくとも『普通の死』で済む。あるいは逆転ホームランで、本当にただの雑用で済む可能性に懸けるか、だ。

 究極の選択を前に、夏樹に抗う術は残されていなかった。

 夏樹は、恐怖と絶望で冷え切った両手を固く握り締め、ゆっくりと、しかし深く頭を下げた。

 そして、かつてあのブラック企業で、無理難題を押し付けられた時に何度も何度も口にしてきた、空虚で感情のないテンプレートのような言葉を、ただ機械的に紡ぎ出した。


「……なるべく早く仕事を覚えますので、よろしくお願いします」


 声は、ひどく掠れて、微かに震えた。

 命と引き換えの、五百万という借金。

 そして、その借金を返すための「雑用」という名の奴隷契約。

 絶対にヤバイと本能が叫ぶその条件を、夏樹は苦渋の決断で「了承」した。

 青年は、夏樹の悲痛な決意の返事に、特に満足するでもなく、ただ一つ、「ん」と小さく顎を引いて頷いた。そして、ポケットに両手を突っ込んだまま、顎の先で「ついてこい」とだけ示し、再び歩き出した。

 夏樹は、再びただ黙って、大人しく青年の数歩後ろをついて歩いた。革靴の音を立てないように、呼吸すらも控えめに。それは理不尽な上司の機嫌を損ねないための悲しい社畜仕草だ。

 青年は、ホームの中央付近まで来ると立ち止まり、先ほどまで「コンクリートの壁」で完全に塞がれていたはずの階段へと視線を向けた。

 夏樹も、青年につられてその方向へ顔を向け、――息を呑んだ。

 つい先ほどまで地上への道を完全に塞いでいた分厚い灰色の壁が、跡形もなく消え失せていたのだ。見慣れた企業の広告が壁に貼られた、照明も明るい普通の駅の階段の踊り場に、何事もなかったかのように繋がっている。


(出られる……!)


 夏樹の胸に、安堵と歓喜が溢れかえる。

 今すぐあの階段を駆け上がり、光の射す地上へと逃げ出したい。この狂った場所から、不気味な気配から、一秒でも早く遠ざかりたい。

 反射的に階段の方へ向かって駆け出そうと、前のめりになった。


 ――しかし。


 踏み出そうとした足を、夏樹はピタリと止めた。

 前を歩く青年が、振り返って夏樹を見ていたのだ。

 彼は、階段へと駆け出そうとした夏樹の動きを見透かすように、片目を薄く細め、じっと観察していた。その三白眼の奥にあるのは、獲物の挙動を試すような、ひどく冷たく検分する光だった。

 ここで、彼の許可なく勝手に逃げだしたら、どうなるか。

 夏樹の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。いまだ、自分の命のリードはこの不機嫌な青年が握っているのだ。

 「行って良い」と言われていないのに飛び出したらどうなるか。前職で、「ほんの些細なことだから」と確認を怠って動いた結果、上司から激しく叱責されたトラウマが脳裏をよぎった。

 夏樹は、逸る気持ちを必死に、本当に血を吐くような気持ちで抑え込み、振り上げた足を静かに下ろした。そして青年の指示を待つように、じっと彼を見つめ返した。

 それは主人の命令を待つ、従順な犬のように。

 その夏樹の様子を見た青年は、ふっと、ほんのわずかだけ、口角を上げたように見えた。相変わらず眉間には深い溝が刻まれているが、その目に「及第点」と評価が浮かんだ気がした。


「うん」


 青年は、初めて少しだけ機嫌の良さそうな、鼻に抜けるような声で短く頷くと、ゆっくりと階段に足をかけた。

 夏樹は、彼が完全に階段を数段上ったのを確認してから、ようやくその後を追って歩き出した。ここから出られるのだという期待と不安に心臓は破裂しそうに脈打っていたが、決して彼のペースを乱さないよう、一定の距離を保った。

 一段、また一段と階段を上っていく。

 その最中だった。

 不意に、周りの空気が、ガラリと変わったのを感じた。

 それまで鼻を突いていた、あのカビと鉄錆の入り混じった匂いが、スッと薄れ、代わりに真夏の熱気と排気ガスと、アスファルトの匂いが混ざった「外の空気」が肺に流れ込んできたのだ。

 そして、あの不快なアナウンスではなく、普段は五月蠅いとしか思わなかった蝉の声が聞こえてくることがとてつもなく嬉しい。


(あ、戻ってきた……)



 理屈ではなく、直感でそう理解した。




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