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狭間塞領奇譚 〜元社畜は、最強霊能者に拾われ、もふもふ猫先輩を愛でたり怪異に怯えたり、頑張ります!〜  作者: キキ イチ
第1章 九十九駅

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4.命の値段は500万円



「だ、だれッ!?」


 咄嗟に、夏樹の口から情けない上擦った声が漏れた。

 弾かれたように周囲を見回す。だが、ホームには自分と青年の二人しかいない。

 その声に反応して、再び前を歩きはじめていた青年がくるりと振り返った。そして夏樹を、うざったそうな目で睨みつけた。


「……あ゛?」

(やばい、怒られる!!)


 夏樹はパニックになりながらも、物理的に両手で自分の口を塞いだ。だが不意に、ここでただ黙秘を貫くのは逆に「報告を怠った」として処罰の対象になるのでは、という思考が閃いた。

 それはブラック企業で骨の髄まで叩き込まれた鉄則だった。情報は秒で報告しなければならない。ホウレンソウ(報告・連絡・相談)の欠如は怠慢だと糾弾される。


「す、すみません、黙りますが一言だけ報告をさせてください!」


 夏樹は口から手を外して挙手をすると、矢継ぎ早に言葉を絞り出した。


「今『しゅくんにはこころがないのか』という落ち着いた大人の男性の声がすぐそばで聞こえました! 報告は以上です! もう絶対に喋りません!!」


 後で「なぜあの時言わなかった」と責められぬよう、端的にホウレンソウをキメた夏樹は、そのまま口を硬く塞ぎ、「俺はもう置物です」という態度で直立不動の姿勢を取った。

 すると、青年は夏樹のその滑稽なほどの必死さに再び、出会った時以上の驚きを顔に浮かべた。


「……は? お前、聞こえてんの?」


 彼が怪訝そうに目を細め、その視線が夏樹の頭のてっぺんから足先までを撫でた、その時。


『……もしや。(それがし)の声が聞こえておるのか』


 再び、すぐ横から、あの古風で重厚な声が聞こえた。


「っ!?」


 夏樹は今度こそ悲鳴を我慢したが、飛び上がって声のした方向から一歩、二歩と後ずさりした。

 何もない。声の聞こえた空間には空気の澱みも、影すらない。

 姿は見えないのに、声だけが鮮明に、確かな意志を持って聞こえる。それは、得体の知れない空間に迷い込んだことと同じくらい、夏樹の常識を根底から揺るがす異常事態だった。

 ガクガクと膝が震え、夏樹はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪えながら。


『そう、怯えなさるな』

「っ!? ひっ!?」


 警戒した方とは別の方角からまた声が聞こえ、不意を突かれた夏樹の口から、まるで首を絞められた鶏のような無様な悲鳴が漏れた。その瞬間、夏樹の脳髄を支配したのは「やってしまった」という致命的な後悔だった。

 この常軌を逸した異常な空間において、唯一の命綱とも言える目の前の青年に対して、先ほど「もう二度と喋りません」と固く誓ったばかりなのに。たった数秒も経たないうちに情けない悲鳴を上げてしまった。


「鷹松、ちょっと黙ってろ」

(怒られる。見捨てられる……!)

 

 案の定、青年から叱責が飛んで、夏樹は青年が口にした「鷹松」という言葉を認識できず、ただひたすらに断罪に怯える。

 ただでさえ「うるさい」「めんどくさい」と苛立ちを隠そうとしなかった青年の機嫌を、これ以上損ねてしまったらどうなるか。

 このまま見捨てられて、永遠にこの淀んだホームに取り残されてしまうかもしれない。夏樹は慌てて、両手で自らの口を歪むほど強く塞いだ。ガチガチと鳴りそうになる歯の根を無理やり噛み合わせ、呼吸の音すら外に漏らさないように必死に息を殺す。

 怖くて涙がにじみ始めた目を限界まで見開き、許しを乞うような、怯えきった視線を青年に向ける。

 青年は、口を塞いでガタガタと震える夏樹を、値踏みするようにじっと見つめていた。

 怒声が飛んでくるか、あるいは舌打ちをして背を向けられるか。心臓が肋骨を突き破りそうなほど早鐘を打つ中、青年は片目を眇め、斜め上に視線を飛ばすと、何かを思案しているようだった。そしてしばらくすると、再び冷ややかな視線を夏樹に向けた。

 薄暗い蛍光灯の光を反射して、ぬらりと光る切れ目の三白眼を細め、青年はぽつりと、感情の読めない平坦な声で尋ねてきた。


「お前、ここから出たいか?」


 その問いに、夏樹は首の骨が軋むほどの勢いで、ガクガクと何度も何度も頭を縦に振った。

 出たい。早く出たくてたまらない。こんな狂った場所、一秒だって長居したくない。コンクリートで塞がった階段に、線路に飛び込んだスーツの男は忽然と姿を消し、誰も乗っていない電車が執拗に乗車を促し、そして見えない男の声が耳元で囁く異常な空間。ここに留まれば、間違いなく自分の存在が「何か」に持っていかれて、あのアナウンスに従ってしまう、そんなおぞましい予感があった。

 是が非でも生きて帰りたい。

 ありふれた日常の風景に戻りたい。

 必死の思いを込めて頷き続ける夏樹に対し、青年は面倒くさそうに一つため息をこぼすと、パーカーのポケットから出していた右手の指を、無造作に開いて見せた。


「んじゃ、五百万。ここからお前を出すための料金」

(――え?)


 その言葉が耳の奥に届いた瞬間、夏樹の目の前が、物理的な暗闇とは違う、絶望の色で塗りつぶされた。


 ごひゃくまん。――五百万円。


 一、十、百、千、万……と、頭の中でゼロの数を数え、その途方もない金額の意味を理解した途端、夏樹は呼吸の仕方を忘れたように息を詰まらせた。

 現在、夏樹は二十八歳であり、一人暮らしの求職中の身である。

 全く貯金がない、というわけではない。だが現在はわずかな貯金を切り崩し、失業手当を計算しながら、爪に火をともすようなギリギリの生活を送っている。次こそは絶対にホワイトな職場を見つけるのだと、慎重に求職活動を続けている矢先だ。


 五百万円。

 そんな大金、持っているはずがない。


 銀行口座の残高は、家賃や生活費を差し引けば、もう数十万円ほどしか残っていない。クレジットカードのキャッシング枠だって、無職の今となってはたかが知れている。

 親に頼み込むにしても、とてもすぐに用意できる額ではないし、そもそもこんな「変な場所から助けてもらうための料金」などという狂った理由で金を貸してもらえるだろうか。誤魔化すにしたって、額が額だ。限界がある。

 このままこの青年に助けられて、生きて元の世界に帰れたとしても、五百万円という借金を背負うことになる。

 その事実に、夏樹の心に淀んだ迷いが生まれる。

 

 なんのために求職活動をしているのか。

 ホワイトな会社に入り、真っ当な給料をもらい、人間らしい生活を取り戻そうと必死にもがいていたのに。

 ここで五百万円もの借金を背負えば、そんな未来はまた遠くなるだろう。慎ましく暮らせば返せない額ではない。でも、そんな未来が待っているのなら、いっそ――。


 ふと夏樹の視線が、青年の背後の、開け放たれたままの電車のドアへと向かった。

 中は薄暗く、薄汚れた車内が、何故か急に落ち着ける場所に見えた。再び耳に『早くお乗りください』というアナウンスが聞こえる。

 生きて帰っても借金地獄。ならば、このままあそこに乗ってしまえれば、すべてが「無」になって楽になれるんじゃないか。そんな破滅的な考えが脳裏をよぎった。


「ちっ、……おい、返事」

(っ!? あれ、俺いま何考えてた!?)


 青年の舌打ちに、夏樹は我に返って強く首を振った。

 

(いや、電車は無しだろ、無し無し……!)


 死ぬにしても、こんな得体の知れない場所で、こんな理不尽な形で死ぬのだけは絶対に嫌だ。

 もしあの電車に乗ったら。ただ心臓が止まって安らかに死ねる気が絶対にしない。

 見えない何かに絡み取られ、咀嚼されて、魂を永遠にこの澱んだホームに縛り付けられ、永遠に孤独と恐怖を味わい続けることになりそうだ。我に返ると、直感が、そう強烈に警告を発していた。

 生きなければ。

 這ってでも、借金まみれになってでも、まずはここから生還しなければならない。


「……あの」


 夏樹は震える両手を口から離し、カラカラに乾いた喉から掠れた声を絞り出した。

 青年は、相変わらず冷ややかな目で見下ろしてくる。夏樹は顔色を窺うように頭を下げながら、血を吐くような思いで尋ねた。


「……えっと、分割……分割払いは、可能ですか……?」



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