3.不機嫌な救世主と、悲しき社畜スキル
突如響いた声に、夏樹は弾かれたようにその声の方へと振り返った。
暗がりの中、そこには一人の青年が立っていた。
黒のパーカーにカーキ色のゆったりしたカーゴパンツ。足元は紺色のラインのスニーカーを履いている。年齢は自分と同じくらいか、あるいは少し上にも下にも見えた。
襟足まで無造作に伸びた黒髪の隙間から窺える顔立ちは整っているが、眉間には深々と皺が刻まれている。こちらを見る瞳には同情の欠片もない。ただひたすらに、路傍の汚物でも見るかのような、嫌悪と面倒くささが入り混じった視線があった。
「た、たすけて……!!」
「うるせぇ、黙れよ」
夏樹は、力を振り絞って懇願する。だが青年は虫を払うような冷淡な声で一刀両断した。
「あ、足が! 足が勝手に、電車のほうに……!」
再び動き出そうとする足を必死に押さえ、それでも夏樹は泣きそうになって訴えた。今にもあの車両の中に引きずり込まれそうなのだ。見ず知らずの他人に暴言を吐かれようとも、簡単には諦められない。何しろ命がかかっている。
しかし、そんな必死な夏樹に青年は助け舟を出すどころか、さらに深く顔をしかめた。
「だから、うっさいって言ってんだろ。助けてほしいなら口を閉じろよ」
それは氷点下の声だった。
あまりにも残酷に突き放す言葉に、夏樹は悲鳴のような抗議の声を上げそうになった。必死に助けを求めているのに、あまりにも冷酷すぎる。どうして命がかかっている人間にそんな態度がとれるのかと。
「……っ!」
だが、夏樹は喉まで出かかった抗議の言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
「黙れ」という響きを浴びた瞬間、夏樹の脳内で、パニックとは全く別の、強烈な生存本能のスイッチがカチリと音を立てて切り替わった。
(――あ、このトーン。絶対に口答えしちゃ駄目な時のやつだ)
それは、かつて勤めていたブラック企業で培われた、悲しき生存本能だった。
前職で幾度となく経験した、機嫌一つで徹夜の企画書を破り捨てる上司の顔がフラッシュバックする。正論など言語道断。不条理な要求への最適解は「気配を殺し、ただ嵐が過ぎるのを待つこと」だ。パニックを起こして騒ぎ立てるのは最も嫌われる。
(この人は、俺がここで騒げば、本当に俺を見捨てる気だ)
本能でそう悟った夏樹は、ぐっと奥歯を噛み締め、両唇を力強く結んだ。
必死に呼吸を整え、パニックになりそうな脳を無理やり冷やす。そして、声には出さず、ただ見開いた瞳に怯えを滲ませたまま、ひたすらに視線だけで「助けて」と訴えかけた。
それはまるでひどく叱られた犬が飼い主に許しを乞うような、悲壮で、しかし絶対に逆らわないという意思表示に似ていた。
(貴方に絶対、逆らいません。ちゃんと従いますからどうか助けてください……!!)
そんな言葉を口には出さず、しかし伝われとばかりに繰り返す。成人男性としてはとても惨めな懇願だが、背に腹は代えられない。プライドなんてブラック企業でバキバキに折られてしまったのだから今更だ。そんなネガティブ方向に覚悟を決めた夏樹の態度を見て、青年の面倒くさそうに歪んでいたその顔に、微かな「驚き」が浮かんだ。
(……あれ?)
青年は、泣きも喚きもせずに言う事を聞いてピタリと黙った夏樹が余程珍しかったのか、まじまじと見つめ返してきた。
だが、それもほんの一瞬のこと。
すぐにまた、元の「スンッ」とした、世の中のすべてを億劫に思っているような不機嫌な表情に戻ってしまった。
「あ~も、分かったって。助けたいなら、オマエが勝手にすればいいだろ」
青年が唐突に、夏樹ではなく、虚空に向かってそう吐き捨てた。
彼の右手にはスマートフォンが握られている。誰かと通話でもしているのだろうかと思い、しかしここは圏外のはず……とそんな疑問を抱く暇はなかった。
青年のその投げやりな言葉が終わった瞬間、夏樹の両足の自由を奪っていた見えない力が、ふっと嘘のように解けたのだ。
「あっ……!?」
自由になった足で、夏樹は慌てて電車のドアから飛び退いた。そして無我夢中で数歩離れた場所に立つ青年のそばへと、転がるように駆け寄った。
どういう原理なのかは全く分からない。
だが、あの青年が指示を出した結果、自分が助かったことだけは間違いなかった。彼が助けてくれたのだ。
青年の身長は、夏樹と大差なかった。むしろ少し低いかもしれない。だが、足元にすがりついてきそうな夏樹を明らかに『見下した』冷ややかな目で一瞥すると、すぐさま興味を失ったように視線を外した。そして、手元のスマホに耳を当てると、ひどく投げやりな声で言った。
「おい、邪魔が入ったから、早めに切り上げるぞ。……あ? 一般人だよ。ハァ!? 俺が知るかよ。適当に塞いどくから後はそっちで処理しろよ」
そう言い捨てて、青年はスマホをポケットに突っ込んだ。
夏樹はそんな彼の一挙一動をじっと見守っていた。
聞きたいことは山ほどある。ここはどこなのか。貴方は誰なのか。そして何より、ここから生きて出る方法を知っているのか、と。
喉が渇き、何度も疑問を口にしたくなる。だが、夏樹はまたしてもそれを必死に抑え込んだ。
(不用意に話しかけるのはダメだ。相手の機嫌を損ねたら終わる……!)
忙しそうにしている上司にタイミング悪く話しかけ、ネチネチと嫌味を言われ続けたトラウマが蘇る。
今、目の前にいるこの機嫌の悪そうな青年は、あの時の上司よりも遥かに恐ろしい存在だ。何しろ本当に夏樹の「命」を握っているのだ。
ここで彼を怒らせて置き去りにされたら、今度こそ電車に引きずり込まれるのは間違いない。
夏樹が口を真一文字に結び、直立不動で彼を見つめていると、青年はそんな夏樹の存在にうんざりとした顔をした。
「……めんど……」
深いため息とともにそう呟くと、青年は夏樹に声をかけることもなく、ズカズカと歩き出した。
「っ……!!」
置いて行かれる。その恐怖に駆られ、夏樹は慌てて彼の後を追った。声は出さない。足音も立てないように、しかし絶対に離れないように、背後から一・五メートルほどの絶妙な距離を保って、黙ってついていく。
(追い払われないってことは、ついていっても多分大丈夫なはず……!)
心の中でそう自分に言い聞かせる。
青年が向かったのは、夏樹が先ほど絶望を味わった、改札階へと続く階段だった。
彼は階段の上の、出口を完全に塞いでいるあの無機質なコンクリートの壁の前に立つと、つまらなそうに壁をコンコンとノックした。
「……こっちのルートは同化してんな。歪みがない」
独り言のようにそう呟くと、青年はすぐに踵を返し、別の階段へと向かって歩き出す。
一体、彼が何をしているのか、夏樹にはさっぱり分からない。出口を探しているのか、それとも別の何かを探しているのか。だが、質問はしない。この空間で生き残るための希望は、明らかにこの平然とした、場違いに浮いているように見えるこの青年しかいないのだ。
夏樹は恐怖を腹の底に押し留め、ただ粛々と、機嫌の悪い上司の視察に随行する平社員のように彼の背中を追いかけた。
青年はしばらくの間、夏樹の存在など完全に忘れたかのように、ホームを行ったり来たりした。ベンチの裏を覗き込んだり、点滅する電光掲示板を見上げたり、時には舌打ちをしながらスマホの画面をタップしたりしている。
その間、夏樹はじっと耐えていた。車内へと誘うアナウンスは止まっていたが、電車は相変わらずホームに停まったままだ。またあの見えない力で急に引っ張られないかと、心臓は早鐘を打っていたが、青年の邪魔にならないようにただひたすらに無言で付き従った。
――それなのに。
「……うっざ。マジでうるさい」
不意に、青年が立ち止まり、不機嫌の極みのような声で吐き捨て、夏樹は肩を跳ねさせた。
(えっ!? 俺!? 俺の足音がうるさかった!? それとも息遣いが耳障りだった!?)
自分の立てた些細な音が彼の逆鱗に触れたのだと思い、夏樹は身を縮こまらせて怯える。
(どうしよう、謝った方がいいのか、でも『黙れ』と言われたし……)
脳内で激しく正しい対応を審議しつつ、しかし答えが分からずパニックに陥りかけた、その瞬間だった。
『――主君には、心というものがおありでないのか』
横から、青年とは全く違う、ひどく落ち着いた男の声がしたのだ。




