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狭間塞領奇譚 〜元社畜は、最強霊能者に拾われ、もふもふ猫先輩を愛でたり怪異に怯えたり、頑張ります!〜  作者: キキ イチ
第1章 九十九駅

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2.家に帰りたいだけなのに



「う、うそだろ……?」


 先ほど、確かに自分はこの階段を降りてホームにやって来たはずなのに。

 目の錯覚だと思いたかった。いっそのこと幻覚であってほしかった。

 だが階段を駆け上がり、その『壁』に触れる。ひんやりとした、ざらつくコンクリートの感触。まるで、最初からここは壁だったとしか思えない圧倒的な存在感に、夏樹の背中を大量の冷や汗が流れ落ちた。


「待ってくれ。なんで……なんで、こんな、嘘だろ、開けてくれ! 誰か!」


 夏樹は半狂乱になりながら、コンクリートの壁を両手で叩くが壁は微動だにしない。むしろ痛む手のひらに、これが現実だと余計に突きつけられた心地になった。

 パニックで爆発しそうになる心臓を必死に押さえつけ、夏樹は再びホームへと下りた。


 ここではない、別の地上への出口があるかもしれない。


 もしかしたら、降りてきた階段を間違えたのかもしれない。


 「そんなはずはない」と頭の片隅で分かってはいたが、薄暗いホームの中、他の二箇所の階段を見つけて駆け寄るも、同じようにコンクリートで塞がれており、夏樹は顔色をなくしていく。


 ――逃げ場がない。


 この場所から出るために考えられる手段は、線路沿いに歩くぐらいしかないだろう。

 だが、いつ電車が来るか分からない線路へ降り立つには勇気がなかった。

 もしも歩いている途中で電車がやって来たら。

 壁と電車との隙間には、人が一人、歩けるだけのスペースはあるのだろうか。

 その疑問に答えてくれる知識は夏樹にはない。

 そして何より、ホームから見下ろす線路の先は、まるで墨を流し込んだような深い闇が口を開けており、スマホのライトだけを頼りに、その闇へ足を踏み出す度胸を夏樹は到底持てなかった。

 せめて、自分以外の誰かが居たら。

 駅員なら。

 この際、乗客でも、誰でもいい。

 自分以外の、人間の声が聞きたい。


「誰か……誰かいませんか?」


 震える声で呼びかけながら、薄暗いホームを、自分の影にすら怯えつつ夏樹は彷徨い歩く。そうしてやっと、ホームの端、点滅する蛍光灯の光さえ届かないギリギリの暗がりに、ぽつんと立つ人影を見つけた。

 近づいてみれば、それは紺色のスーツを着た、線の細い男性だった。手にはくたびれたビジネスバッグを提げ、背中を丸めてうなだれるように、じっと線路を見つめている。

 その姿は以前の自分とよく似た、どこにでもいる疲れたサラリーマンに見えた。


「あの、すみません! ここ、出口がなくなってて……携帯も繋がらなくて……!」


 夏樹は藁にもすがる思いで、声を上げてその男性へと駆け寄った。

 心細さから、早く会話がしたかった。あと数メートル。彼が振り返り、「自分も困ってて」と困惑したように笑ってくれれば、この異常な状況の中でも、ほんの少しだけ救いになるような気がした。

 ――だが。


 ゴォォォォォォォ……。


 地響きのような音が、背後から聞こえてきた。

 電車の接近音。

 しかし、それは通常の列車が発する音とは似ているようで、何処か重い鉄の塊を引きずるような、獣の低い唸り声のように聞こえた。

 警報音もなければ、駅員による「白線の内側までお下がりください」というアナウンスもない。ただ、猛スピードでこちらへ向かってくる気配だけが線路の奥から迫ってくる。

 夏樹は電車の姿を確認しようと振り返りかけたが、目の前のスーツの男性の動きに視線を奪われた。

 ふらりと、まるで糸の切れた操り人形のように、男が線路へと足を踏み出したのだ。


「危ない!!」


 夏樹の叫びと同時に、闇を切り裂くような強烈な前照灯がホームと男を照らし出し、風圧とともに、全体が赤茶色に錆びついた古い車両がホームに滑り込んできた。


 ドォォォンッ……!!!


 鈍く、重い衝撃音が響いた。

 目の前で、人間が鉄の塊の影に消えた。

 その光景に、夏樹の思考は完全に真っ白になった。

 あまりにも衝撃的な出来事に直面したことで、防衛本能が働いたのだ。

 声を上げることもできず、固まったように動けない。喉がひゅっ、ひゅっ、と鳴るが、酸素がうまく肺に入ってこない。


 ――人身事故だ。


 時折、駅のアナウンスで聞く時には、ただダイヤの乱れを引き起こす厄介な言葉としか認識していなかったそれが、目の前で起きた。

 血しぶきが舞うのも、人が潰れる瞬間を目にしたわけでもない。

 それでも、やっと話ができると思った人間が、一人、線路へと姿を消した、その事実が夏樹の心を叩きのめした。

 だが、事態はさらに理解を超えてくる。

 急ブレーキの甲高い摩擦音もしなければ、運転士の警笛も鳴らず。電車は人を撥ね飛ばしたはずなのに、まるで何もなかったかのように滑らかに、所定の停止位置に止まり、プシューッと空気の抜ける乾いた音を立てて、ドアを開けたのだ。

 そして静まり返ったホームに、ひどく雑音が混じった事務的なアナウンスが響き渡った。


『―――ご利用ありがと――ざいます。1番線、到着の電車は――方面、きさ――行きです。――行きです。ご乗車ください』


 通常の電車であれば、それはごく当たり前の動作だ。

 だがたった今、人を一人轢いたはずだ。肉が硬いものにぶつかる、鈍い音が耳の奥にまだ残っているのに。

 

 ――自分はあまりにも人を求めすぎて、幻覚を見て、そして幻聴を聞いたのだろうか?


 夏樹は混乱した頭で、眼の前の電車を見る。

 車内は無人だった。照明は不気味なほど薄暗く、濃い緑の座席は色褪せ、ところどころが裂けて中の薄汚れた黄色いスポンジが露出している。


『――間もなく電車が発車いた――す。お並びのお――は、お早めにご乗車ください』


 マイクを通したノイズ混じりの、駅でよく耳にする男性車掌の声は、あまりにも日常的で、淡々とした抑揚のない口調だった。

 目の前の、明らかに様子のおかしい電車に乗る気なんて起きない。そしてそんな電車に乗っている車掌など、怪しいことこの上ない。それなのに、衝撃的な出来事の連続で思考回路が麻痺した夏樹は、「声がするということは、車掌がいるはずだ」と反射的に思い、強張る足によろけながらも歩き出した。先頭車両のほうが距離は近いが、先ほど目前で起きた人身事故の印象が脳裏にこびりつき、夏樹は無意識に避けて4両編成の最後尾へと向かった。

 だが、繰り返されるアナウンスを聞いた夏樹は、ふと、違和感に気がついて背筋にぞわりと氷の刃を当てられたような冷たいものが走った。


『まもなく発車――ます。扉が閉まり――お客様は、お早めにご乗車ください』


 繰り返される無機質な声。


 普通、電車の扉が閉まる際のアナウンスは、「駆け込み乗車はおやめください」や「扉から離れてお待ちください」と、危険を知らせ、乗客を制止するものであるはずだ。

 乗客を急かして、車内に押し込もうとするようなアナウンスなど、日本のどの鉄道会社でも絶対に流さない。

 それなのに、「早く乗れ」とまるで洗脳するように言葉が繰り返されていた。


「っひ、……い、いやだ……」


 その事に気がついて、夏樹は慌てて電車から距離を取ろうと後ずさりしようとした――が。

 

 身体が動かない。


 まるで『夏樹が逃げようとしたことに気がついた』かのように。金縛りのように足が固まった。そして夏樹の意思とは無関係に、右足を、左足を。見えない力が開いた電車のドアの方へ、強制的に進ませはじめる。


「だめだ、やめてくれ、行きたくない……!」


 掠れた声が口から漏れた。

 しかし足は止まらない。視界が、暗く口を開けた車内へと縫い付けられる。

 不意に、前職の通勤時にいつも感じていた虚脱感が蘇る。

 重い身体。寝ても疲れは取れず、上手く回らない頭。何もかもが上手く行かず、どうしたら良いのか分からない。――あの感覚に、全身が包まれた。


(……、疲れた、な……ここで乗ってしまえば、楽になれるんじゃないか……? 面接の準備も、履歴書を書く必要も、明日の生活費を心配する必要も、なくなるんじゃないか……)


 そんな甘美な誘惑が、耳元で囁かれているような気がした。

 あのドアの境界線を越えてしまえば、自分はあのおかしな行き先の場所に連れて行かれ、もう二度と戻ってこれないという確信があった。それなのに足は止まらなくて、どこか他人ごとのように思う。


 あと少し。あともう数歩。


 消えかけの白線を夏樹が踏んだ、――その時だった。


「……チッ。ったく、なんでこんなところに人がいるんだよ。死ぬほど面倒くせえな」


 夏樹の真後ろから、心底嫌そうな、ひどく不機嫌で、しかしはっきりとした男の声が聞こえた。



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