23.平和な一日……だけでは終わらない
「平和だ……」
駅前のコンビニでパシリの品を買い、よくある和定食チェーンで日替わり定食を食べ終えた夏樹は、食後のお茶で一息ついて、思わず呟いた。
マンションのある上野原駅周辺はのどかなベッドタウンだった。充実したテナントの駅ビルの屋上には庭園や、綺麗に手入れされた公園も点在しており、のんびりした雰囲気が漂っている。季節が良いなら外でお弁当を食べるのも良さそうだと思いながら。
(――なんて、きちんと昼休みをくれてたのは、気まぐれかもしれないのに)
ホワイトな職場でしっかり昼休みをちゃんと取る、という憧れのシチュエーションを思いがけず体験して、思わず逸る気持ちに夏樹はブレーキをかける。
(初めだけいい顔をするなんて、よくあることだ。午後はまた命懸けの現場調査かもしれないし……)
己の職場環境を思い出し、夏樹は期待するにはまだ時期尚早だと気を引き締める。
そうして、初めてのゆったりとした昼休憩から戻った夏樹を待っていたのは、新しい調査現場――ではなく。
「えっと、春日井さん……これは?」
「見りゃ分かんだろ。洗濯と掃除、午後のお前の仕事な」
「……あ、はい。……かしこまりました」
掃除機とゴミ袋、そして山積みにされた洗濯物に、夏樹は目を瞬かせる。
思わず拍子抜けして気の抜けた返事をしてしまった夏樹を、「不満かよ」というように、ジロリ、と春日井が睨む。それに夏樹は慌てて「洗濯機、回してきます!」と洗濯物を抱えて洗面脱衣室へと逃げ込んだ。
狭間で怪異と命のやりとりをするのに比べれば、掃除や洗濯などむしろ喜んでずっと従事していたいくらいだ。
一人暮らしで、実家でも親が共働きで何かと家事を手伝っていたせいか、夏樹にとって洗濯や掃除などなんの苦でもない。サクサクと溜まっていた服をより分け、洗濯機に放り込み、回している間に段ボールを解体して縛り、ゴミを種類別に分けて掃除機をかけ、洗い上がった洗濯物を乾燥機と陰干しに分ける。
「……お前、何してんの……」
「え? あ、風呂場は掃除しない方が良かったですか?」
浴室に、スプレーした後は放置するだけという売り文句の浴室洗剤を散布しながら、(……とは言え、やっぱりブラシで擦り洗いしたいな……)などと、所帯じみたことを考えていた夏樹の背中に、春日井の声がかかる。
振り向けば、春日井が眉を顰めており、(ヤバイ、浴室はさわられたくないタイプか!?)と慌てるが、何故か残念なものを見る目で溜め息をつかれた。
「別に、やれるなら良い……それで、あとどれくらいで終わる?」
「えっと、入るなって言われた部屋以外は終わりました。トイレットペーパーが少なかったので補充しておきましたよ」
「トイレまで掃除したのかよ……」
春日井は少し引いたような顔をして溜め息をついた。
「……他に買う必要のある生活用品があったら書き出しとけ」
「承知しました!」
夏樹の返事に、春日井は口の端を下げる。機嫌が悪くなったように見えるが、何も言わずにそのまま背を向けられたので原因はよく分からなかった。
とりあえずそのまま浴室の掃除を続け、乾いた洗濯物を畳んでリビングに戻る。
「春日井さん、服とかどこに仕舞います?」
「そこに置いとけ。……あと、ちょっとこっちに来い」
「?」
ゲーミングチェアから立ち上がり、春日井は顎でテーブルを指して、リビングの奥の扉の前に行く。そこは「掃除しなくて良い、開けるな」と言われた部屋だ。
「……お前、命令は守れるよな?」
「え、あ、その、……命の保証をしてくれれば……?」
春日井の機嫌を取るのならば、ここは「はい喜んで!」とでも言うべきなのだろうが。流石に軽率な言葉を吐く訳にはいかず、夏樹は引きつった顔でしどろもどろに答えると。
「余計なことをしなけりゃ、命の保証はしてやるよ」
夏樹の答えに春日井は気分を害した様子もなく、フンと鼻で笑って扉を開けた。
部屋の中は180センチ幅のステンレスの棚が二つずつ、三方の壁に六台備え付けられ、棚には段ボールがみっちりと積まれていた。
「………えっと、これは……?」
「赤と黄色のシールが貼ってる段ボールは移動しても良いが絶対に開けるな。それ以外の段ボールの中身を仕分けしろ。仕分け方法は、箱の中に説明とか、そこのファイルにラベルとか入ってる」
「こ、この量は今日中にはちょっと……」
「誰が今日中にしろって言ったよ。急いですんな。時間がかかっても良いから慎重に扱え」
「わかりました」
中身が分からない以上、どれくらいの時間がかかるか分からず、思わず途方に暮れかけるが、春日井の言葉にほっとする。
そしてふと、夏樹は身近な段ボールの中を覗き込んで。
「……か、春日井さん、この段ボールの中身って、もしかして……」
「仕事関係のヤツ。粗末に扱うなよ、高えんだから。あと赤いのと黄色いのはマジで開けんなよ。呪物じみたやつとか入ってっから」
「ぜっっっっっっったいに開けません!!!」
木札や人形など、なんだか凄く昨日見た覚えがあるモノばかりの品々に、思わず春日井を振り返れば、予想通りの返事が返ってきて震える。(呪物じみたヤツってなんだ、それってほぼ呪物と変わらなくないか!?)と、夏樹は固く赤と黄色の段ボールは開けるどころか触らない、と心に堅く誓って、なるべく距離を取るように作業を開始する。
「粗末に扱うな」と春日井は言っていたが、ざっくり中身を確認したところ、「整理」の「せ」の字もない、とりあえず全部まとめて放り込んだだけという惨状に、これは骨が折れそうだと夏樹は溜め息をつく。
(まあ、コレを整理し終えるまで、現場に行かなくて良いとかだったらいいな……無理か)
「んにゃあ~ん」
「あ、ツバキ先輩こんにちは。ブラシを持ってきて、もしかして、ブラッシングをしてほしい、とか……?」
「にゃん」
そうなの、と言うように、器用にブラシを口にくわえて持ってきたツバキは、きゅるんとしたまん丸の目で夏樹を見上げ、その眼差しに、打ち抜かれた夏樹は「う゛っ」と、声にならない悲鳴で呻いた。
「っ……! そ、それは、是非とも俺もしたいところなんですが、今は春日井さんに頼まれた仕事中でして、あっ、手を舐めないで、そんな……! ゴロゴロしてもっ……だ、駄目なんです、今は……!」
「キモい声出すな。ツバキを優先しろ、ツバキの方がお前より上だから」
「はい、喜んで……!!」
ツバキの「ブラッシングして欲しいニャン」のおねだりに悶える夏樹に、リビングから春日井の心底嫌そうな声が飛んだが、今日一番の良い返事が出てしまった。
夏樹はお許しが出たのだからと、それはもうツバキのお願いのままに、ふわふわの毛並みを更につやつやさらっさらに仕立て、さらに持って来られた猫じゃらしを全力で操る。
現場では知的で頼もしいツバキが、ゴロゴロと喉を鳴らして伸びきり、目をまん丸にしてお尻を振って猫じゃらしに飛びつく仕草は、優雅と愛らしさに満ちあふれており、夏樹の心が潤ってゆく。
(……あれ。俺、今何してんだっけ。これって、仕事……?)
以前は、トイレすら「サボるな」と詰められていたのに。ツバキのふかふかのお腹を撫でながら、今日一日を振り返る。
午前中の書類作成から始まり、たっぷりの昼休憩に、午後は掃除に洗濯。家事も立派な仕事に間違いはないが、あくまでも家庭レベルの範疇だ。そしてツバキの相手に至っては仕事と言うより完全なる癒しタイムで、昨日と前職に比べて、あまりにも平和すぎる一日に夏樹は頭がバグりそうだと思っていたら。
「……おい、お前。いつまでツバキを撫でてんだよ」
「あっ、え、その……!?」
不意に、部屋の入り口に立つ春日井から声をかけられた。
その言葉に、いくらツバキを優先しろと言われても、限度があったか!? と夏樹は戦々恐々とするが。
「いい加減、さっさと帰れよ」
春日井の不機嫌そうな声に、夏樹はヤバイ、時間の感覚が狂っていたのだろうか、と慌てて時計を見るが、針は午後六時を少し過ぎた所だった。
(もしかして、これで……!? 終わり……!?)
定時は十八時で、労働時間、七時間……!?
昨日も似たような時間だったが、思わず計算が夏樹の脳内を駆け巡る。
本当に帰っても……?と、ぽかんと春日井を見上げれば、春日井の眉間に皺が出来る。
「なんだよ。掃除と洗濯だけじゃ物足りねーなら、今からどっかの『狭間』にでも行かせてやろうか?」
「い、いいいいえ!!! 結構です! 大丈夫です! お疲れ様でした!!」
夏樹は首がもげるほどの勢いで首を横に振り、慌てて立ち上がった。これ以上ここにいて、本当に地獄の残業が発生してはたまらない。
「それでは、失礼いたします! ツバキ先輩もさようなら!」
逃げるように春日井とすれ違い、玄関に向かおうとリビングの扉に手をかけた、その瞬間。
「おい」
背後から短く声がかかり、振り返りざまに、何かがポーンと放り投げられた。
咄嗟に両手で受け取った夏樹は、手の中のそれを見て目を瞬かせる。それは、長方形のよく見る、シンプルな朱色の布でできた小さな「お守り」だった。
「持っとけ」
春日井はゲーミングチェアに深く寄りかかり、面倒くさそうに鼻を鳴らしながら。
「お前みたいなどんくさい奴が、ホイホイと狭間に足を突っ込んだり、その辺の浮遊霊に襲われたら、迷惑だからな」
「春日井さん……っ」
ぶっきらぼうな言い回しだが、春日井が渡してくる以上、本当に効果があるもので、そしてそれは自分の身を守る物なのだろう。
不意に、ずっと機会をうかがっていた言葉は、今言うべきだと、夏樹は胸を熱くし、深く頭を下げた。
「このお守りも、昨日も、助けてくれてありがとうございます……! 俺、これからも一生懸命頑張ります!」
「おう。五十万な。借金につけとく」
「…………はい?」
今、なんだか、信じられない数字が聞こえた気がした。
「五十万だ。本来なら一見さんには売らねぇ特注品だからな。……おい、なんだその顔。金取るのかって顔してんな。当たり前だろ、ただで命が守れるとでも思ってんのか」
「ご、五十万!? これ一つでですか!? いや、そもそもお金取るんですか!?」
あまりの理不尽な請求に、夏樹の喉から裏返った悲鳴が漏れた。
「いらねーんなら返せよ」
「…………~~~~~ッ、い、いります……!」
夏樹は涙目になりながら、朱色のお守りをギュッと胸に抱きしめた。
これを返せば、九十九駅のような場所に迷い込んだり、あの泥の怪異や、巨大な顔に目をつけられたりするかもしれない。
五十万で命が買えるなら安い……いや、安くない。めちゃくちゃ高い。
(当分、借金生活は終わらなさそうだ……)
夕暮れの空の下、夏樹はとぼとぼと駅へ向かって歩き出した。
五百万円だった借金がたった二日で五百五十万円に増えてしまった。
(もっと増えたらどうしよう……俺、一生あの人の犬としてこき使われるんじゃ……)
書類仕事は褒められて、昼休みはしっかりあり、労働時間は七時間で、もふもふの癒しもあり。
一見、理想の職場環境に思えるが、扱う物には何かと死がつき纏ってくる。
良いところと悪いところ、両極端なこの仕事環境を一体どう評価したら良いのだろうか、と思いつつ。
(そもそも、給与って払われるのかな……いつ聞こう……)
ポケットの中の五十万円のお守りを握りしめながら、夏樹は深くため息を吐きつつ、明日も平和に終われば良いな、と願うのだった。




