20.胸に広がる苦みと甘さ
伊津に連れられて入ったのは、駅前にあるレトロな雰囲気の喫茶店だった。
古びた木製の重厚なドアを開けると、鈍くも温かみのある真鍮のベルがカランッと鳴り、深く焙煎された珈琲の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
カウンターの奥で、サイフォンの中で湯が上下するコポコポという心地よい音が響いていた。
伊津は顔なじみなのか、カウンターの中の穏やかそうな白髪のマスターが、手元でカップを磨きながら「いらっしゃい。奥、空いていますよ」と声をかけてくる。それに伊津も「あら、ありがと~」と、微笑みを返す。
通されたのは、店の一番奥にあるボックス席だった。高い木製のパーティションで仕切られており、入り口や他の客席からは完全に死角になっている。薄暗いアンティーク調のランプが雰囲気よくぼんやりと照らすその空間は、公然と口にするのが憚られる話をするにはぴったりの場所だった。
深いベルベットのソファに深く腰を下ろし、運ばれてきた温かいブレンドコーヒーに口をつける。
ほんの少し酸味のきいたコーヒーにほっと溜め息をついて、自分がまだ緊張していたのだと夏樹は気づく。そして一口、また一口と温かいコーヒーを飲むうちに、少しずつ人心地がついてくると、次に湧き上がってきたのは、九十九駅で起きたことの顛末――特に、最後の春日井の理不尽極まりない対応への不満だった。
「……というわけなんですよ! 春日井さん、あんな言葉一つで怪異を吹き飛ばせる力があるなら、初めからサクッと倒してくれればよかったじゃないですか。そうすれば、あんなに必死に怖い思いしながら隠れて、それでも泥に飲まれて、死にかける羽目にならなかったのに……!」
何処で漏れるか分からないから、上司への不満や愚痴をこぼすなんて、関わりのある人の前では出来なかったのに。
命の危機にさらされ、そしてやっと日常を実感した夏樹は、そのストッパーが緩んで、思っている事を素直に全部ぶちまけてしまった。
伊津は夏樹の不満に「あらあら」「それは大変だったわねぇ」「酷い話よねぇ」と始終柔らかく相槌を打っていた。
しかし、話が終わると浮かべていた微笑みを不意に消して、真面目な顔になった。
「夏樹くんは一つ勘違いしてるねぇ。彼はね、あの怪異を『障封』したわけじゃないの。ただ、無理やり形を『散らした』だけ。……春日井くんったら、よっぽど焦っちゃったのね」
「……しょうふう? 散らした……?」
聞き慣れない専門用語に、夏樹は首を傾ける。
「怪異っていうのはね、基本的に消滅させる、祓うことがとっても難しいの。だから、正しい手順を踏んで結界の中に『封じる』のが基本的な対処なのよ。障りを封じるって書いて、『障封』って読むのよ~」
「えっ、倒せないんですか? 春日井さんって強い塞領師っていう霊媒師? 霊能力者、ってやつなんですよね??」
夏樹の言葉に伊津は困ったように眉を下げ、「うーんそうね、夏樹くんってそのへんの基本もないわよね~」と小さく唸った。
「あのね、私や春日井くんは、広義で言えば霊媒師に分類されるけど、その中で『塞領師』という職、異界と現世の『狭間』を管理したり、塞ぐことに特化した専門家なの。だから、身を守る防壁や空間を隔絶する結界術には強いけれど、怪異や怨霊そのものを完全に祓ったり浄化するような力は、またちょっと違う分野でね。たまに一緒にお仕事することもあるけど、また違う名前の組織なの」
「意外と役割が別れているんですね……」
オカルト業界も、現実のお役所と同じように縦割りなのだと、夏樹はなんだか妙な気持ちで納得してしまう。
「それにね、そもそも狭間に主に出てくる『怪異』って、怨霊に比べてすっごく祓うのが大変なのよ……」
伊津の声のトーンが、一段低くなった。テーブルの上のランプの光が、彼女の顔に深い影を落とす。
「この世によくいる、怨霊とか妖怪って呼ぶモノは、基本的に一個体から成り立っているの。でも『怪異』は違う。無数の霊体、土地の因習、人間のドロドロした怨念や後悔、そういった得体の知れない感情の『煮凝り』なの。無数の要因が絡み合って、一つの『形』になってしまったモノなの」
「う……」
泥の表面に浮いた顔を思い出し、夏樹は顔をしかめた。一つ一つの顔は形が崩れているが、どれも違って見えたのは気のせいではなかったのかもしれない。
「そもそも祓うのにも障封するにも、怪異の場合は生まれた因果の解明とか、最適な方法の把握とか、色々と時間も手間がかかるのよ~。根本的に絶やさないと、また再発生しちゃうから」
「なるほど、色々と複雑なんですね……」
「その分ただの怨霊なら楽ね! 圧倒的な力で無理やり『ズバッ』とやるだけで済むことが多いから。……まあ、たまに一個体でも力が段違いの例外はいるけど」
「例外、ですか?」
「夏樹くんも都市伝説で一度は聞いたことあるでしょ? 例えば、大手町の首塚に祀られてる平将門公とか。大宰府の菅原道真公とか。ああいうたった一人で国を傾けるクラスになると、もう一種の天災対策並の予算が動くのよねぇ……」
(アレってガチなんだ……)
テレビや動画で見たことがある、有名すぎる名前の話に夏樹は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「話を戻すわね。春日井くんは確かに強いし、多少の霊や怪異を祓う力は兼ね備えているわ。でも、それはあくまで『塞領師』としての話。流石に『狭間』の外から遠隔で、原因もはっきりしない怪異を祓うのは無理。たとえ『障封』であっても。だから、彼が今回やったのは、怪異を無理やり『散らした』の。一時凌ぎの力技よ」
「その『散らす』って言うのは……???」
「そのまんまよ。小魚の群れを脅かして無理やり散らしたの。でも小魚たちは生きている限り集まって再び群れを成す」
伊津は、スプーンでコーヒーの表面をくるくると混ぜながら説明を続けた。黒い水面に、小さな渦が巻き起こる。
「怪異の形を散らして、少しだけ時間稼ぎをした。放っておけば、またすぐに元の泥の塊に戻るでしょうね。でもまあ、遠隔でそれをするのも無茶苦茶なんだけど。……でも本来なら、絶対にやっちゃいけない御法度なのよぉ~?」
急に大きな溜め息をついた伊津と、「絶対にやってはいけない御法度」という重々しい言葉に、夏樹は「ど、どうしてですか?」と恐る恐る尋ねる。
「だって、散らした怪異がどこに飛んでいって、どこで再結合するかわからないじゃない。下手するとどこかに狭間を生む可能性もあるし、別の怪異と混ざって悪化するかもしれない。狭間を管理してる『狭間塞領事務所』からすれば、迷惑極まりない話なのよ」
「えっ、そんなに……?」
「そうなの! やる可能性がある場合は事前に面倒な申請をあげなきゃいけないし、もしも無断でしてしまった場合はそれはもうなが~い始末書ものの、減給・懲罰対象なんだから」
――迷惑極まりない。始末書ものの、減給・懲罰対象。
鼻の上にシワを寄せて心底嫌そうな顔をする伊津に、夏樹は背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。
前職では叱責やサービス残業がまかり通っていても、減給・懲罰対象なんてものまでは流石に発生しなかった。それらが一般社会においてくだされる事例は想像以上に少ない。――それなのに、そんな選択を春日井がしたなんて。
「それにね、あの子、別に片手間で夏樹くんを見てたわけじゃないのよ」
伊津は、ふふっ、と面白そうに笑った。
「夏樹くんの作業中に、九十九駅へ別の被誘者が現れたでしょう? 実は一応、今日の夏樹くんの作業のために、邪魔が入らないよう、狭間に蓋をしてたはずなの。それなのにあんな事になっちゃって、春日井くん、狭間塞領事務所にすぐ『管理はどうなってんだ』って、クレームを入れてきてウチも大わらわだったわ」
「……」
夏樹には、狭間に迷い込んだ人を落ち着かせる対応に追われて、春日井に他に被誘者がいる事を伝えられなかった、という記憶がある。
だが春日井は、途切れたチャットと、インカムから聞こえてくる音で夏樹の状況をちゃんと察して、把握してくれていたのだと、初めて知った。
黙り込んだ夏樹に、伊津はほんの少し肩をすくめながら。
「確かに、初めから春日井くんが現場に行けばよかったわ。でも、後で事務所から大目玉を食らう力技を、遠隔で無理やり使って、夏樹くんが泥に取り込まれる前に引き剥がす判断をしてくれたのは評価してあげても良いんじゃないかしら」
「……」
「……ま、とりあえずそういう理由で、力の使いすぎで疲れてる上に、ウチから詰められるの確定で、今、彼ったらすご~く機嫌が悪いの……!」
「あ……」
おどけて言ってみせる伊津に、夏樹はなんと言えば良いのか分からなかった。
夏樹を危険な目に遭わせたのは、間違いなく春日井だ。
春日井は、ただ悠々と安全圏から指示出しをしていただけではなかった。不遜な態度で、助けなければ良かっただの、別に知らないところで怪異に襲われたり、迷い込んでも知らない、と言いながら。
あの時――夏樹が心を折られ、泥と同化する寸前だった瞬間。春日井は後の始末を承知の上で、夏樹を助けるために「ルール違反の力技」を使ってくれたのだ。
『――その犬に触んな。人のせいにしてんじゃねぇよ』
インカム越しに聞こえた、あのひどく乱暴な言葉は。
ルールを破ってまで自分を助けざるを得なかった状況への、春日井なりの「焦燥」が滲んだものだったのかもしれない。
「……そっか。そう、だったんですね」
夏樹は、すっかり冷めかけたコーヒーの黒い水面を見つめた。
底知れぬ怪異への恐怖は、まだ背中に張り付いて消えない。
しかし、先ほどまで荒ぶっていた春日井への不満はいつの間にか凪いでいた。
(そういうことなら、ちゃんと説明してくれればいいのに……)
夏樹は小さく息を吐き出すと、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。苦味の奥に、ほんの少しだけ甘い余韻が残った気がした。
「少しは、スッキリしたかしら」
カップを置いた夏樹を見て、伊津が優しく微笑みかける。
「……はい。お話、ありがとうございます」
夏樹が憑き物が落ちたような顔で頷くと、伊津はゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、また明日。今日は本当に大変だったんだから、家に帰ったらゆっくり休んでね」
明日もまた、あの不器用で横暴な男の元へ出勤しなければならない。そして、ちゃんとお礼も言わなければ、と思いながら。夏樹は小さく苦笑して、伊津に深く頭を下げた。




