19.帰ってきたもの、消えたもの
(――犬って、俺のことだよな。相変わらずひどい……)
あまりにもデリカシーに欠けた春日井の言葉は、泥から聞こえる罵詈雑言と変わらなく思える。それなのに、どうしてだか夏樹の耳に届き、意識を再浮上させた。
犬みたいだと言った春日井の言葉は、夏樹を馬鹿にしているように聞こえた。
だが、なぜだろう。
まるで俺の所有物に気安く触れるなというような、ひどく傲慢な主張は、夏樹を絡め取っていた虚無と同調の呪縛を、一瞬だけ引き剥がす。
『夏樹、手を動かしてインカムの横のボタンを押せ』
春日井の静かな、しかし強い心の通った声が頭の中に響く。
泥に飲まれ、指一本動かせないほど硬直していた身体が、その言葉に反応して、まるで目に見えない糸で操られているように「強制的に」跳ね上がった。
震える指先が、インカムの側面に付いていた小さなボタンを探し当てて押し込む。
プツっと、音が途切れるような音がしたかと思うと。
『 散 れ よ 、 流 れ よ 』
それは、ひどく静かで平坦な、囁くような声だった。
だが、スピーカーに切り替わったインカムから発せられたその短い言葉は、空間を震わせるような、体の芯を痺れさせるような、異様な響き方をした。
「……ッ!」
ざぶん、と。
突如、目に見えない巨大な波のような「何か」が、夏樹の前方から後の空間へと駆け抜けた。
海で波を正面から受けたような。春一番の強風に正面から吹かれたような。見えない圧に、夏樹は思わずギュッと両目を固くつぶる。
水の中のような、膜の中を通過したかのような。音がすっと遠くなったと思うと、ジェット機のような鈍い風切り音が一瞬だけ轟き、驚いて体が跳ねる。
――そして、ふっと、不自然なほどの静寂が訪れた。
「……え?」
恐る恐る目を開けた夏樹は、信じられない状況に息を呑んだ。
つい数秒前まで、自分を飲み込もうと目の前に覆い被さっていた巨大な泥の塊が、その痕跡さえ、跡形なく消え去っていたのだ。
あのむせ返るような悪臭すらも、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に拭い去られ。倦怠感も、体に湿った感触もなく、夏樹はぽつんと立っていた。
ただ、足元ではツバキが、何かを拭うようにしきりに顔を洗っている。
『……残りを終わらせて、帰ってこい。緊急以外は話しかけるな、チャットに送れ』
インカムの向こう、少し疲れたような声で、春日井がぽつりと一言だけ言い放つ。
「えっ、か、春日井さん! 今のは一体――」
一体何が起きたのかと、思わず説明を求めて夏樹は声を上げる。が、しかし、そんな夏樹の言葉を無視するように、プツンという電子音と共に、イヤホンから伝わるノイズが消えて無音になり、春日井側がマイクを切った気配がした。
どうやら、夏樹の疑問には答えてくれる気は無いらしい。
「……とりあえず、助かった、んだよな……?」
夏樹もマイクをミュートにしながら、呆然と呟いてその場にへたり込む。
「にゃ」
ツバキが「ほら、仕事はまだ終わっていないぞ」とでも言うように、夏樹の膝へ、むに、と前足を乗せてリードを差し出してくる。
その柔らかく温かい感触に我に返った夏樹は、「ツバキ先輩、有り難うございます……」と掠れた声で返事をし、ふらつく足で立ち上がった。
春日井に聞きたいことや、自分の身に起きたことなど、疑問は山のようにあって、頭がこんがらがって何から考えたら良いのか分からない。
しかし、九十九駅から脱出するために、ひとまず作業を終わらせることが一番だろう。
元通り、ツバキに先導される形でホーム端へ向かい、木札を所定の線路の奥へ投げ入れる。
カランっと音が鳴るが、もうあの泥の怪異が居ない今では拍子抜けするほどあっけない作業終了の音だった。
「ツバキ先輩、コレで、すべての工程が終わりました」
そう告げると、ツバキは明るく「にゃん」と鳴いて、再び歩き出し、一つの階段の前で止まった。階段を見上げれば、コンクリートの壁がなくなっており、脳裏に初めてこの駅に迷い込み、春日井に助けられた時の記憶が蘇った。
「終わった……帰れるんだ…………ん? あれ!?」
一体どれくらいこの駅に居たんだろう、と時計を見たら、そろそろ十七時になるところだった。
なんだかもっと長時間、作業していたような気がするのに、たった二時間のことだったのか、と思いながら階段を上ろうとしたところで、夏樹はとんでもないことに気がつく。
「つ、ツバキ先輩! 誰かもう一人! 確か人がいましたよね!?」
どうして今まで忘れてしまっていたのか。
恐怖のトラウマのせいか、泥の怪異に取り込まれた所為なのか、上手く顔が思い出せないが、誰か居たはずだと思い出す。
たしか九十九駅に迷い込んだ人が居て、何故か口論のような感じになり、突き飛ばされた気がする、という事を思い出し、夏樹はぞっとして二の腕をさすった。
あの人は一体、何処に行ったのだろうか。
(なにか分かりますか?)という視線でツバキを見ると、にゃーんと小さく鳴いたツバキは片側の線路を見る。
そこには確か、乗車を急かす電車が停まっていたはずなのに、いつの間にか居なくなっていた。
「え……もしかして、あの電車に乗っちゃった……!?」
まさか、と思って呟くが、ツバキが困った顔で肯定をするように、「そうなの」とゆっくりと瞬きをする。
【春日井さん大変です! 作業は無事に終わりましたが、一人、九十九駅に迷い込んできた人が居たのですが、電車に乗ってしまったそうです! どうしたら良いですか?】
自分を突き飛ばすような人間とは言え、放っておくのは後味が悪いしマズイだろう。これは緊急かそれ以外か。判断がつかず、とりあえずチャットに入力して送信する。もしも通話が必要なら、春日井から指示があるだろうと思ったその目論見は、すぐさまチャットにて答えが返って来る。
【報告処理済み対応不要】
(すっごい簡潔……)
要点のみ圧縮した返信に、春日井の機嫌の悪さを感じて、夏樹はチャットで送って良かった、と思った。
ひとまず、春日井が対処しているなら安心だろう。
今度こそ夏樹は心置きなく階段を上ってゆく。半分ほど上ったところで、ふっと空気が軽くなった。鉄錆と線香の匂いが消え、夏特有の、蒸し暑い湿気と騒がしい蝉の声が戻ってくる。
足元の汚れてひび割れたコンクリートが、使い込まれているが清掃された、白いタイルの質感へと変わり、現世の九十九駅へと無事に帰還したのだとわかった。
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「あ、はい。上野原駅から交差点を右に行った、ファミリーマンションです。お願いします」
九十九駅から少し離れた大通りでタクシーを拾い、春日井のマンションへの住所を伝えた夏樹は、後部座席に沈み込むように腰を落ち着けて、深く息を吐いた。
車の窓から流れゆく街の風景をぼうっと眺めながら、夏樹は自分の中に、とある一つの疑問と、不満が、ぐるぐると回っているのを感じていた。それは日常の世界へと戻り、やっと本当に緊張から解放されて、ふと思ったことだった。
(初めから、春日井さんのあの力で怪異を消せばよかったんじゃないか……?)
たった一言の呟きで、あの恐ろしい怪異を消し飛ばせるのなら。わざわざ隠れてやり過ごしたり、あまつさえ取り込まれかけるなんて危険な目に遭う必要はなかったはずだ。
なぜ、もっと早く助けてくれなかったのだろうか。
なにかやむにやまれない事情があるのだろうか。それなら仕方がない。でもその言い訳とか、説明くらい、してくれてもいいじゃないのだろうかと思う。
「……ありがとうございました。領収書、お願いします」
やがて、タクシーが春日井のマンションの前に到着する。
ドアが開き、何だか重い足取りで外に出た夏樹の目に、見知った人物の姿が飛び込んできた。
「おかえりなさい、夏樹くん。無事でよかったわぁ」
エントランスの自動ドアの前で。夏樹が九十九駅に向かうのに合わせて、「私も一度、事務所に戻るわぁ」と別れた伊津が立っていた。
タクシーを降りた夏樹を伊津はねぎらい、バックパックとツバキの入ったキャリーバッグを取り上げる。
「ハイハイ荷物は私に渡してね。事情はあらかた聞いてるわ。今日はもう、このまま帰っていいわよ~。……今、春日井くん、すっごく機嫌が悪いから」
「えっ、でも……」
帰っていいと言われて、本来なら嬉しいはずなのに、夏樹はその言葉に迷ってしまった。
心も身体も疲れ切って、今すぐ帰ってベッドへ倒れ込みたい。でも、今日体験した非日常的な恐怖と、最後の謎の現象と、理不尽な仕打ちを、誰かに話して、聞いて、説明してもらわなければ、落ち着いて眠れそうにもなかった。
「伊津さん、すみませんお願いです! 少しだけ、話を聞いてくれませんか!? 正直、納得がいかないっていうか、なんて言ったら良いか……!」
「んー……」
すがりつくような夏樹の懇願に、伊津は少しだけ困ったように眉を下げた。そして、周囲の静かな住宅街をぐるりと見渡す。
「ここじゃあ、アレだから……そうねぇ」
伊津は足元のキャリーバッグの蓋を開けた。
「私は夏樹くんと少しお話しするから、一人で帰れるわよね、ツバキちゃん」
「にゃあん」
キャリーから優雅に飛び出した巨大なメインクーンは、ちらりと夏樹と伊津を見やって、「後はよろしく」というように軽やかに鳴いた。そしてくるりと踵を返すと、エントランスの向こう、オートロックがかかっているはずの自動ドアを開けて、悠々とマンションの奥へと消えていった。
その先には、エレベーターと玄関の扉があるはずだが、大丈夫なのだろうか、と夏樹は心配になるが、しかしながらツバキなら大丈夫そう、という謎の確信も同時に覚えつつ。
「さて、行きましょうか」
「あ、はい!」
促され、夏樹は思いのほか歩みの早い伊津に、慌ててついて行く。
春日井に対して腑に落ちず、どこかザラザラと嫌な心地がする胸が、伊津との話でどうか落ち着きますようにと、無意識に願いながら。




