18.泥の呪詛、切り裂く声
「あ゛? なんだよ、もごもご言ってねぇで、結論から言えって言ってただろ。本当、成長してねぇな」
「あ、ぁの、すみませんっ……お願いしますから、し、静かに……大声は――」
「はぁ!? 黙れってどういう意味だよ! 先輩に対してうるさいなんて随分偉そうなことを言うようになったなぁ?」
「ち、ちが……」
「大声は危ない」ということをつっかえながら、伝えようとしたのに。大島は夏樹の言葉を遮って、腹立たしそうに凄んでくる。
何度も味わった、息が詰まってくる絶望感。
理由を言えと言うくせに、話そうとしても聞いてくれない。
『だからお前はダメなんだよ』『原因はお前にあるんだよ』『言い訳すんな』
かつて浴びせられ続けた言葉が、幻聴のように耳の奥で反響し始める。理不尽に理不尽を重ねて追い詰められる感覚が、当時の恐怖を引きずり出してくる。
どうやって状況を説明するか、何を言えば良いか。必死に考えようとするのに、頭の中には濃い霧がかかったように白く濁って機能しない。
「…………っ、あぁ、の……」
口の中がカラカラになって、夏樹はただ怯えた眼差しで、目の前の男を見つめ返すことしかできなくなってゆく。
そんな夏樹の耳に。
『……おい、どうした。何が起きてる? お前以外に誰が居るんだ』
「ナァ~~~オッ!」
「うお!? なんだこのでけぇ猫!?」
右耳のインカムから、春日井の声が聞こえ、そして夏樹の足元でツバキが毛を膨らませ、大島を威嚇するように低い声で唸る。
大柄なツバキの威嚇に、大島が一瞬、怯えたようにたじろぐ。だが、ツバキの体に装着されたハーネスとリードが、夏樹の手に握られるのを見て、再び眦をつり上げた。
「お前さぁ、ペットのしつけも出来ねぇのかよ……!」
「かつての絶対的権力者」の怒りに触れる恐怖で夏樹の歯がガチガチと鳴る。しかし耳に届いた春日井の、僅かに「焦り」を含んだ声と、怒れるツバキの存在に、夏樹はほんの少し我を取り戻し、震える顎を必死に制御し、掠れた声を絞り出した。
「すみません大島さん、お願いですから、声を少し抑えて」
「はあ!? 誰に向かって口きいてんだお前!」
「お、落ち着いて、ください。大きい声を出すと、本当に、ホントにマズいんです……!」
声を出してはいけない。見つかってしまう。
自分の命を守るため、同時に目の前の元上司を死なせないために、必死の説得を試みる。
ここがどういう場所なのかを説明する時間はない。そもそも説明しても普通は信じられないだろう。だから、とにかく黙らせて、やり過ごさなければ、と思うのに。
「ここから出るには、静かにして、隠れないと……」
「ふざけんな! 俺は忙しいんだ。お前みたいな暇人に付き合ってる場合じゃない、良いからさっさと出せよ!」
夏樹の訴えは、大島の耳には全く届かなかった。
彼は昔からそうだった。自分の思い通りにならない状況に陥ると、部下の言葉など一切聞かず、ただ自分の不満や不平を周囲に撒き散らす。
「俺の時間をこれ以上無駄にさせるな! 今すぐここから――」
怒鳴り散らそうとした大島の言葉が、途中でピタリと止まった。
――ズル……。ぬちゃ、ズズ……
あの不快な匂いと共に、背後から重い肉の塊を引きずるような音が耳に届いた。
そして夏樹の足元で大島に対して威嚇していたツバキが、先ほどの比ではないほど全身の毛を逆立たせ、背中を弓なりに反らせて、ホームの奥の暗がりへ向かって牙を剥き出しにしていたのだ。
「シャァァァァァァァァーッ!!」
それは空気をビリビリと震わせ、ただの威嚇ではないようだった。
ツバキの咆哮に、音が止まる。
あの泥の化け物が足を止めたのだ。
しかし、それはほんの少しの間で、すぐ様音がまた再開する。
尋常ではないツバキの様子と漂ってくる「酒と汗とヘドロが混ざったような、むせ返るような強烈な悪臭」に、大島から威勢の良さが消え、明らかな狼狽えが滲む。
「な、なんだよこの匂い……なんか、音が……ひっ……!?」
大島の顔からスーッと血の気が引いていくのを見て、夏樹は背後を振り返った。
それは、夏樹達から二十メートルあるかないかの所まで迫っていた。柱の陰からのっそりと。薄暗い蛍光灯に照らされ、小太りの男の形をしたヘドロの塊が浮かび上がる。通常より早歩きのような速度で、しかし確実に夏樹達に向かってくる。
「な、何だよ……アレ……っ」
大島は先ほどまでの傲慢な態度を無くし、唇を震わせる。
そこには未知の存在に恐怖する、一人の男がいた。腰が抜けかかっているのか、膝が小刻みに笑っている。
(……今ならいける!)
完全にパニックになりかけている大島とは対照的に、トラウマの圧から解放された夏樹は冷静になってそう判断する。
大島が恐怖で固まっている今なら、まだ間に合うかもしれない。あの怪異はあまり足が速くはない。急いで逃げ、上手く隠れれば、きっと逃げ切れる。
「だ、大丈夫です……!」
夏樹は震える大島の背中に手を添え、できるだけ穏やかなトーンで言った。
「怖がらないで、落ち着いて対処すれば大丈夫です。あの化け物は足が遅いですし、逃げて隠れれば――」
「ッ、ば、馬鹿にすんじゃねぇ!!」
落ち着かせようとして口にした言葉に、大島の目が屈辱に満ちた光を灯して、夏樹を睨みつけた、と思ったその瞬間。
「へ……?」
ドンッ、とした衝撃が夏樹の胸に走り、押し出されるように間抜けな声が漏れた。
視界がぐるりと反転し薄暗いコンクリートの天井が映る。次の瞬間、背中に激しい痛みが走り、息が詰まった。
「っ、ぐっ……ぅ!」
夏樹はホームの冷たい床に叩きつけられて呻く。痛みに顔をしかめながら夏樹は必死に上体を起こす。何が起きたのか分からなかった。
大島が、夏樹を力任せに「前へ」――迫り来るヘドロの怪異の方向へと、突き飛ばしたなんて、そんな残酷な事実を理解したくなかった。
「おまえが、お前が悪いんだからな!!!」
「ウウ゛~~~~!!」
床に転がった夏樹へ、大島はそう吐き捨てて踵を返して走り出す。
倒れた衝撃で手放してしまったリードを、ツバキが口にくわえて夏樹の後ろに迫る怪異へ必死に威嚇する。
(は、早く、立たないと……!)
夏樹に背後を振り返る余裕はない。ただ、吐き気を覚えるほどの臭気に包まれながら、必死に痛みをこらえて立ち上がるが。
「あ……!?」
ぐじゅり、と、足首にまとわりついた冷たく湿った感触に引っ張られ、たたらを踏むようにして後へ再び倒れた背中は、地面に倒れる前にぬかるんだ泥に受け止められた。
(あ……ぁ……)
冷たくて重い泥の塊が、頭の後から首を伸ばして夏樹の顔を覗き込み、三日月型に口を歪めてニタニタと笑ってのしかかってくる。
泥の表面に浮いた、無数の顔にある白目がない真っ黒な目玉と目が合うと、体の力が抜けていく。
強烈な悪臭が鼻腔を完全に麻痺させ、身体を包んでくる泥はまるで服を溶かして皮膚へと入り込んでくるような悍ましい感覚がした。そしてパクパクと、魚のように音もなく蠢いているようにみえた口から。
『邪魔』
『お前が悪い』
『本当に役立たず』
『迷惑だってわからない?』
『どうしてそれくらい出来ないんだ』
『期待して損した』
『ゴミ以下』
『お前になんの価値があるの?』
まるで呪詛のように無数の不満の声が、夏樹の脳髄へと直接流れ込んでくる。
それは、何処か聞き覚えのある声だった。
かつての職場で大島が。……いや、他の上司も、同僚も、友人も、同級生も、親も……
耳に聞こえてくる声は、知っているものばかりだ。みんなが自分を蔑み、貶めてくる。
(……ああ、そっか、俺が悪いんだ)
視界が真っ黒なヘドロに染まっていく中で、夏樹の自尊心が崩れていく。
ツバキが必死に「フギャァァァン!!!」と激しい雄叫びを上げ、夏樹を引きずり込もうとする泥の塊に鋭い爪を立てていたが、今の夏樹には、その声すらも届いていなかった。
結局、自分はどこへ行っても駄目なんだ。踏みつけられ、泥にまみれ、もがいても、上手くいかない。誰にも必要とされてないし、助けてもくれない。
――いっそこのまま、泥の一部になってしまえば。
ここで全てを諦めたら。
もう、こんな理不尽で苦しい思いをしなくて済むのでは。
「あ………ぁ゛……」
夏樹の口からかすれた声が漏れ、夏樹の身体も心も、ヘドロの奥へと完全に沈み込もうとした、その時。
『――その犬に触んな。人のせいにしてんじゃねぇよ』
右耳のインカムから。
ひどく傲慢で冷たい、しかし怒りを含んだ春日井の声が、泥の呪詛を切り裂くように響き渡った。




