16.かくれんぼ
『……とりあえず、流石に情報が足りねぇ』
インカム越しに、春日井が舌打ちをするのが聞こえた。
『そいつがどんな性質か分かんねぇと対処のしようがない。おい、ツバキはずっと音がする方を見たままか? どんな様子だ?』
夏樹は息を潜めたまま、足元に視線を落とした。
ツバキは、相変わらず毛を膨らませたまま、しかし唸り声はやめて暗闇の奥で蠢く「何か」の方向を、黄金色の双眸でじっと、瞬き一つせずに見据え続けている。
身体をキュッと縮めているが、腹を床につけず、いつでも立ち上がれるようにしているようだった。
【ツバキさんは、静かに音の方を見つめて警戒しています。犬の伏せのようにしゃがんでいますが、すぐに立って動けるような状態です】
『……よし。それならひとまずは「見ても大丈夫」ってことだ』
そう言った春日井の声は、どこか少しだけ明るさを帯びているような気がした。
『ツバキと同じ位置から顔を出して、お前も見てみろ。とにかく分かる特徴を何でもいいから送れ』
(えっ!?)
見ろ、と言われて夏樹の心臓は跳ね上がった。
あの飛び込み自殺の男は「見ただけで引きずり込まれかけた」のだ。この未知の怪異だって、目を合わせた瞬間に呪われるかもしれない。
しかしながら、いくら頼れるツバキ先輩とて、春日井への報告だけは頼れない。自分にしか出来ないことだ。
――正直、ツバキの貫禄からスマホの一つや二つ操作できそうな気もしなくはないが、だからといってなにもかも甘えてしまうのは違うだろう。少なくとも彼女が安全と判断しているのなら、それを信じて出来ることはするのが後輩の務めだ。そもそもここまでずっと、一番に夏樹を守ってくれた実績と信頼もある。
(や、やるぞ……!)
夏樹は震える手足を必死に押さえつけ、這いつくばるようにして姿勢を低くした。ツバキのふさふさとした耳のすぐ横から、首を伸ばし、恐る恐る同じ方向へ視線を向ける。
(……っ、なんだ、あれ……)
音の正体が、薄暗い蛍光灯の下に姿を現した。
シルエットは、足を引きずるように歩く、腹の出た太った男のようにみえる。だが、その身体はまるでヘドロのような、灰色の湿った泥のような塊で構成されているように見えた。実際に濡れているのか、歩いた場所にはうっすらと、何かを引きずったような跡を残している。
そして、だんだんと近づいてくることによって、さらにその異様さに気がつく。
特徴的なのは、その表面だった。妙に凸凹と歪だと思っていたが、身体のあちこちに、無数の崩れかけた「顔」がボコボコと浮かび上がっては口をぱくぱくと魚のように動かし、消えるのを繰り返している。
また近づいたことで、鼻腔を強烈に刺激する悪臭が更にきつくなり、夏樹は吐き気を堪えながら、スマホの画面に目を落とす。
観察して分かった見た目から匂いまで、一体、何が春日井の手がかりになるか分からないから、なるべく詳細に記載する。そして送信を押す前に一言、「……以上が俺から見た内容ですが、細かく書きすぎですか?」と、尻込みして予防線を添えた。
『何でもいいから書けって言ったろ、素人が勝手に取捨選択するな。あと分かりやすいからそのままでいい』
(え、今、褒められた?)
春日井からすれば端的に事実を言っただけだったのだが。前職では上手く出来ても「調子に乗るな」とすぐ罵倒され、チクチク言葉でじわじわと自信を折られ続けた夏樹は、ストレートな評価に思わず食いついてしまう。
(春日井さんってお世辞言うタイプじゃないし……ってことはマジ褒めってことだよな……?)
慣れない褒め言葉に、思わず緊迫した状態というのも忘れて、ソワソワと落ち着かなくなりかけるが。
『……おい、アプリのカメラ機能でそいつの写真は撮れるか?』
(!!)
すぐさま、春日井の声で現実に引き戻される。
――写真。
確かに視覚情報を伝えるには一番、正確な手段だ。
写真を撮るにしても対象の目視が必要だ。だがそれならば自分の報告はいらなかったのでは、と思いつつ。夏樹は素直に指示に従い、アプリに備わっているカメラモードを起動し、レンズをそっと向けて、画面の撮影ボタンをタップする、――と、どうして春日井が自分にわざわざ報告させたのか、その理由が分かった。
シャッター音もなく撮れた写真には、何も写っていなかったのだ。
カメラを向けたスマホの画面には、間違いなくヘドロの怪異が映っている。しかし実際に撮った写真には、よくよく見ると怪異がいたはずの場所の背景が、わずかに歪んでいる気がする、という仕上がりだった。ただ、画面の端はまるで影になっているのかというように黒ずみ、変なノイズが走っている所は心霊写真っぽさがある。
一瞬、カメラ機能が壊れたのかと疑って、夏樹は自分に向けて写真を撮ってみると、緊張した自分の顔がしっかりと撮れ、スマホやカメラの問題ではないのだと知る。
【ダメです、化け物の向こうの背景が歪んで写るだけで、化け物の本体は撮れていません】
『なるほど、見えるが、撮れないパターンか。この感じだと発生してからあまり日は経ってねぇな……』
一応、撮影した写真も送信すれば、春日井には想定内だったのか、さして驚いた様子もない反応が返ってくる。
『次は、こいつが通った跡の写真を送れ』
【わかりました】
夏樹は了承を返しつつ、さてその為には、ズームで撮るか、それとも場所を移動するべきか、と考えているところに。
トントン、と。ツバキの前足が夏樹の腕を叩いた。
見ると、ツバキが「移動するぞ」というように、音もなく立ち上がっていた。怪異が、ゆっくりとこちらの方向へ歩いてきているのだ。
(ッ……!)
【ツバキ先輩の指示で移動します!】
『了解』
夏樹は慌ててメッセージを送り、スマホをポケットにねじ込んだ。ツバキの先導の元、なるべく中腰になって次の物陰――自販機の横へと足音をなるべく立てないように滑り込む。
ヘドロの怪異からしっかりと距離を取り、ツバキが再びしゃがんで、怪異を窺う姿勢を取る。それに倣って夏樹も息を殺し、怪異の後姿を観察していて、ふと気が付いた。
(……遅いな?)
ズル、ずちゅ、ズル……、と重たそうに足を引きずるような動きは、緩慢で鈍い。太った男の形に似ていると思ったが、実際の動きも、重そうに体を動かしている中年の男のように見え、あまり素早く追いかけてきそうな俊敏さは感じられなかった。
【移動、完了しました。作業⑦の近くの自動販売機の横にいます。怪異ですが、見た目もですが、あまり速く動けないようです。基本的に足は随分と遅く感じます】
『油断はすんなよ。獲物を見つけた瞬間、馬鹿みてぇな速さで動くヤツもいるから』
【はい、気をつけます】
『とは言え、確認はしておきてぇな……おい盛り塩を作るときに使った、容器があっただろ?』
【コレですか?】
夏樹はバックパックの中から、陶器でできた、円錐型の容器を取り出して写真に撮って送る。
掌に収まるサイズのそれは、円錐型の容器の中に塩を詰め、綺麗な山の形を作るための道具だ。
『それをなるべく遠くに投げて、どんな反応をするか確認しろ』
【いいんですか? 壊れちゃいません?】
『そんなの、どこでも買える安物だから。大体、盛り塩なんて山型に盛れれば厳密な形はねーんだけど、そう言うと、色々と加減が分からねぇ馬鹿がいるからな』
【そう言われると、俺もどれくらいが丁度良い盛塩の形なのか分からなかったので、これがあって良かったです】
『お前もかよ』
呆れたような春日井の声に、うっとなるが、盛り塩なんて旅館や小料理店でしかあまり見ないし、若者には馴染みが無いし……、と夏樹は思いながら。
ヘドロの怪異の様子を窺いつつ、夏樹は電車が止まっていない方の線路へ、なるべく遠くに飛ぶように祈りながら拳を振りかぶった。
程よい重みとサイズで、盛り塩の容器が良い感じの放物線を描いて、線路の闇へ消える。そして間を置かずパリンッと、容器の割れる音が響いた。
(……反応した!)
夏樹の耳に音が届いた瞬間、怪異も不意に足を止め、ぐるりと音の方へと向きを変えた。
【容器が割れた音に反応して、音の方向へ向かい始めました。でも、移動速度はあまり変わっているように見えません】
『ふうん……まだ正体を隠しているか、それともそのままか……おい、ツバキの様子は?』
【特に最初と変わりは無いですね。こんな感じで、ずっと怪異の方を警戒している様子です】
『……お前、意外と……』
口頭よりも実際に見た方が良いだろうと、ツバキの写真を撮って送ると、春日井がなにかを言いかけて止める。
【俺がどうかしましたか?】
『いや、お前、褒めたら調子にのりそうだよな』
(え!? なんで急に罵倒されたの、俺!?)
『……とりあえず、ツバキの落ち着きようから、距離があればいなせる、ってところか……』
唐突にけなされた事に夏樹は疑問符を浮かべつつ、しかしながらインカムから聞こえる春日井の声が思案する気配を感じて、ぐっと黙って様子を窺うと。
『イレギュラーが湧いたせいで、狭間の磁場がひどく不安定になってやがる。おそらく今回の九十九駅のスケジュールが狂った原因は9割そいつだ。……ただ俺が調査した時には、欠片もそいつの気配を感じなかった。つまりは常時発生じゃなく何かしらの出現トリガーと消失トリガーがあるはずだ』
【その、トリガーを俺が見つけるんですか?】
『いや、それを見つけるには時間も道具も足りない。中途半端な検証による断定は死に急ぐだけだ』
脳裏に、飛び込み自殺の男が思い浮かぶ。事前の資料を信じて目を合わせなければ大丈夫だと思っていたら、とんだ強制力で死にかけた。プロである狭間測量事務所がきちんと管理しているというのにそんな事が起きるのだから、素人の夏樹なら結果は言わずもがなだ。
『……おい、残りの作業は? 何カ所残ってる?』
【あと二箇所です】
『よし、ならいけるな……』
インカム越しに、春日井の低く、しかし有無を言わさぬ声が鼓膜を打つ。
『とりあえず、そいつから隠れながら作業を終わらせろ。そうすれば一時的に狭間を安定させて、出るだけの穴をツバキなら開けられる筈だ』




