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狭間塞領奇譚 〜元社畜は、最強霊能者に拾われ、もふもふ猫先輩を愛でたり怪異に怯えたり、頑張ります!〜  作者: キキ イチ
第2章 新しい職場と業務説明

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10.怪異の恐怖 vs 社畜の呪縛



「あ、あのっ、ちょっと待ってください……!」


 これまで、下手に春日井の機嫌を損ねないよう、気配を殺して大人しくしていたが、あまりにも不穏すぎる成り行きに夏樹は思わず踏み台から立ち上がって声を上げた。


「確かに五百万の借金のために春日井さんのもとで働くって約束しましたが、あんなヤバい場所にまた突っ込ませるなんて、いくらなんでもメチャクチャです! 俺は死にたくないです……!!」


 二人が話す「ちょうどいい実験として九十九駅の処理をさせる」という言葉は、夏樹には死刑宣告と同じように聞こえた。

 せっかく九十九駅から出るために借金までして生きて帰って来たのに、今度は借金のカタに再びあそこへ行けというのは完全な詐欺だ。洒落にならない。

 いろんな意味で怖くて額には脂汗が滲み、両手は汗でびっしょりと濡れた。しかしどれほど理不尽な労働条件でも、最低限「命の保証」だけはしてもらわないといけないし、ここだけは譲れない。

 そんな夏樹の決死の抗議を聞いて、伊津はちょっとだけ驚いたように目を見開くと、「あらあら、落ち着いて」と宥めてきた。


「大丈夫よぉ、夏樹くん。そんなに心配しなくても」

「ほ、本当ですか……!?」

「ええ。だって、業務上の死亡手続きって、書類がものすごーく面倒くさいのよぉ。だから、そんなに簡単に死なれちゃったら困っちゃうわ」


 ふんわりとした口調と笑みを浮かべたまま、放たれたその言葉の内容に夏樹は一瞬、自分の耳を疑った。

 死なないようにする理由が、「命は尊いから」ではなく「事務手続きが面倒くさいから」と聞こえた気がする。

 一応、国の公的な機関であるはずの『狭間塞領事務所』のパイプ役と言っていた伊津から、まさかそんな、ブラック企業顔負けの倫理観ゼロなサイコパス発言が飛び出すとは。

 あまりのことに夏樹が絶句していると、ゲーミングチェアをゆらゆらと揺らして、夏樹と伊津のやり取りを見ていた春日井が、心底不思議な様子で口を開いた。


「なんでこいつが死んだらババアの書類が面倒なんだよ、こいつを雇うのは俺だろ?」

「馬鹿ねぇ、元請けは下請けが起こした事故にも責任を負う必要があるの。まあ当然、直接雇っている春日井君も責任を負う必要はあるけどね」

「雇うんじゃなくてパシリのつもりなんだけど」

「一応、お金を払うなら業務委託か、従業員か、そこはちゃんとしなきゃ。また決算の監査で怒られるわよ」

「あ゛ぁ~?……マジでクソ……しくったな、助けなきゃ良かったか……?」

(この人、助けなきゃ良かったって言った!?)


 春日井が天井を仰ぐようにギィギィとゲーミングチェアを鳴らし、ぽそりと呟いた言葉に、夏樹の脳内で「労働基準法とは」という言葉がぐるぐる回る。

 まともじゃない仕事に、まともじゃないやり取り。これって労基か警察に駆け込んだら助けてもらえないだろうか、なんてことも頭をかすめる。

 しかしながらこの流れはチャンスなのではないだろうか。

 使えないとレッテルを貼られるのは傷つくが、正直こんな狂ったオカルト業界で使える人間だと思われるより、「やっぱお前、使えないから雇うの無しで」と断られたほうが百倍マシだ。

 借金に関しては九十九駅を脱出したのだ。一応、命の危機は去った。故に後はもう、ちゃんと払うとしても、分割にしてもらえるよう、拝み倒すしかない。

 よし、その方向でお願いしよう、と、夏樹は密かに春日井にクビを言い渡される気持ちで再び二人の様子を見守り始めた――が。


「まあ、とりあえず、要は死なせなきゃ良いんだろ?」

「そうそう! できれば怪我もしないのがベストね!」

「えっ……あの……? お二人……?」


 思わず夏樹は困惑の声を上げるが、春日井も伊津も、全く気に留めてくれる様子もなく。


「なあ、こいつが勝手に転んだりして怪我するのは?」

「基本的に業務上で起きたケガは運動神経が鈍いせいでも労災になるわね~」

「……お前、鈍臭そうだよな。大抵現場は足場が悪いから、履くならスニーカーにしろよ」


 おかしい。使えないとか、言われていたはずだし、そもそも自分は必死に嫌だ、と訴えていたはずなのに。

 気のせいでなければ何故かまた、春日井と伊津の会話は夏樹を九十九駅に行かせる方向で進んでいる。


「いや、あの……現場って……?」

「現場って言ったら、九十九駅に決まってんだろ」

「急で悪いんだけど、今日行ってもらえると助かるのよねぇ……」


 恐る恐る尋ねた問いに、最悪の答えが返ってきて、夏樹はついに、泣きそうになりながら叫んで膝をついた。


「あの五百万円は、消費者金融を回ってでも、親に土下座してでも、必ず耳をそろえて払います! だから、あそこに行くのだけは絶対に嫌です! 無理です、勘弁してください……っ!」


 成人男性になって、もう八年も経っているのに。人前で半泣きになって命乞いをするような事があるとは。

 客観的に見ればひどくみっともなく、情けない姿だろう。夏樹自身も心のどこかで「俺、何やってるんだ」という惨めさを感じてはいた。しかし、流石にこの状況は仕方なくないだろうか。

 相手は人間ではなく化け物なのだ。

 話し合いも、土下座も、労働基準監督署の介入も、そもそも法律が通用しない存在。あんなものに生身で立ち向かえと言われて、泣き喚かない人間などいるはずがない。

 夏樹は必死の形相で「嫌です!」と首を振って訴えるが、春日井は鼻で笑い、深々と、わざとらしいほど大きなため息をついた。


「へ~、別にいいけど……?」


 春日井は、ゲーミングチェアの肘掛けに頬杖をつき、三白眼でフローリングに膝をつく夏樹を見下ろした。


「お前、あの日あそこに迷い込んだ時点で、完全に『縁』が出来てるからな。まあ、今日明日とかじゃないだろうけど、またいつの日か(・・・・・・・)間違いなく狭間に迷い込むだろうな」

「……え?」


 縁。迷い込む。

 決しておどろおどろしい口調ではなく、むしろそっけなく言い放たれたその言葉は、夏樹の背筋にゾクリと冷たいものを走らせた。

 だが、すぐに(いや、脅しだ)と夏樹は心の内で強く首を振る。ブラック企業でも、相手を引き止めるために、不安や恐怖心を煽る常套句を吐いていたではないか。

 これもきっと同じだ。

 便利な「実験体」として、夏樹の労働力をタダ同然で確保するための、悪質な脅し文句に決まっている。縁ができるなんて、そんな都合のいい話があってたまるか。

 夏樹が強張った顔で、春日井の言葉を必死に否定しようと見つめ返していると、春日井はふっと口角を上げ、顎の先で部屋の奥を指し示した。


「なあ、お前。あっちの窓の外、何が見える?」

「……?」


 夏樹は反射的に、春日井が指差した方向――部屋の壁に設けられた、少し大きめの出窓へと視線を向けた。

 この部屋は、二十階建てマンションの高層階にある。窓の外に広がるのは住宅街と、少し距離を開けた先にある、同じ高層マンションぐらいだが――


 出窓のガラスの向こう側に「それ」はいた。


 大人の胴体ほどもある出窓の枠、そのサイズいっぱいに、ひどく赤らんだ、巨大な「人間の顔」が張り付いていた。

 明らかに人間ではありえないサイズに、単純に人の顔を大きくしたのではなく、目や鼻といったパーツが肥大化し、顔の半分以上を占めている。

 そんな顔が、鼻が潰れるほどガラスにべっとりと張り付き、バスケットボールほどもある巨大な目が、ギョロギョロと部屋の中にいる夏樹たちを『覗き込んで』いた。


「ひっ、あ、あああっ!?」


 化け物と思いっきり目が合ってしまって、夏樹は少しでも窓から距離を取ろうと、完全に腰が抜けたまま床の上を後退する。

 全身に鳥肌が立ち、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂う。嘘だ、脅しじゃなかった。

 自分はもう、完全に「あちら側」のモノに目をつけられているのか。

 動いた夏樹を追いかけるように、目玉がぎょろりと動いて、顔を更に出窓に押し付け、這いつくばる夏樹をねっとりと見下ろしている。


「ぅ、わ、……ああああああのっ! ちょ、ちょっと、あれ! あれ! やばくないですか!? 窓、割れませんか!?」

「――キャンキャンうるせぇ、黙れ」


 今にも窓を突き破り、部屋に入ってきそうなそれに、夏樹はパニックを起こす。

 だがそこに、春日井の底冷えのするような声が響いた。

 それは決して大声ではないし、むしろ気だるそうな調子だ。しかしその言葉には、有無を言わせぬ絶対的な「圧」が込められていた。


「っ……!!」


 その瞬間、夏樹は喉の奥で言葉を凍らせ、両手で自分の口を塞ぎ、床にへたり込んだまま硬直してしまった。

 巨大な顔面に見つめられている恐怖で理性が吹き飛んでいるはずなのに、身体が、脳が、「格上の人間」の命令に逆らえず、条件反射で完全に服従してしまったのだ。ブラック企業で刷り込まれた哀しい習性は、怪異への恐怖すら上回っていた。

 涙目になり、ガチガチと歯の根を鳴らしながらも、口を噤んでブルブルと震える夏樹。

 その異常なほどの従順さを見て、春日井はニヤリと、ひどく意地の悪い笑みを浮かべる。そして顎の先で床に這いつくばる夏樹を指し示しながら、伊津に向かって楽しそうに言った。


「な。コイツ、言った通り犬みたいだろ」

(やっぱりこの人悪魔だ!)


 夏樹は、窓の外の巨大な目玉に見下ろされながら、自分の人権と尊厳が前職同様に蔑ろにされてゆくのを、ただ震えて受け入れるしかなかった。



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