第11話 何事も 終わり良ければ 全て良し①
——凜桜は、決して怒らない。
物心ついたときから今に至るまでの十数年間、人生のほとんどを共に過ごしてきた梛がたどり着いた結論だ。
もちろん、あの手この手を使って無理やり怒らせようとした上で、この結論に至ったわけではない。あくまで、普通に日常を共に過ごしてきた中でそう結論づけたというだけだ。
梛の対応にやや不満そうな様子を見せることはあるものの、そのくらいで凜桜は怒らない。人や物に当たったりしないのはもちろんのこと、喧嘩をするなんてもってのほかだ。
とはいえ、くだらない言い合いくらいならしたこともある。
だが、罵詈雑言が飛び交うような口喧嘩をしたことがなければ、そもそも険悪な空気になったことすらない。まあ、梛と接する凜桜を見ていれば誰だってわかるし、そんな場面を想像することすらできないだろう。
梛のことを思う存分甘やかしてあげたいし、それと同じくらい、もしくはそれ以上に、どっぷりと梛へ甘えたい。凜桜というのは、そういう人物なのだ。
もっとも、四六時中ずっと凜桜と共に過ごしているわけでもないので、梛の知らないところで怒っていたりする可能性だって十分ありうる。が、少なくとも梛が生きてきた十六年間で、凜桜が怒っているところなんて一度も見たことはない。
その代わり……なんて言うのもおかしな話ではあるが、機嫌は損ねる。そりゃあもう、すごい損ねる。
梛が適当にあしらっただけでもすぐに拗ねるし、梛が構ってくれないと、不満そうに頬を膨らませてはしがみつくように抱きついてきたり、肩を掴んで身体全体を揺すぶってきたりする。凜桜の喜怒哀楽は、まるで犬の感情表現のようで、非常にわかりやすい。
だからこそ、目に映ったその光景が異常であることは、すぐに理解できた。
「…………」
珍しく布団に潜り込んできていない。それでいて、昼前になっても起きてこない凜桜を心配した梛と美卯が部屋を覗きに行くと、凜桜がまるで何もかも信じられないとでもいうような虚ろな目をして、ベッドの上で掛け布団にくるまっていたのだ。
「姉貴……?」
梛が声をかけるも、凜桜からの返事はない。目を開けたまま眠っているのかとも考えたが、瞬きはしているので起きてはいるはずだ。
しかし、凜桜が梛の呼びかけを無視するというのも、にわかに信じがたい話である。
普段の凜桜であれば、梛に話しかけられればどんなときであろうと笑顔で応対する。たとえそれが、猛烈な眠気に襲われていたり、どんなに忙しかったりしたとしても、だ。
そんな凜桜が梛の呼びかけに反応しないのは明らかに不自然。これが非常事態であることは一目瞭然だった。
そして美卯もまた、梛と同じように違和感を抱いているらしい。怪訝そうな面持ちで凜桜に近づき、意識があるかどうかを確かめるように、その顔の前で手を上下に振ってみせた。
「……まあ、起きてはいるよね。お姉ちゃんが目を開けたまま寝てるとこなんて見たことないし、そうだろうとは思ったけど」
「だよ……な。でも、なんで無反応なんだ?」
「さあね。お兄ちゃんが何かしたんじゃないの? お姉ちゃんがこんなになるなんて、それくらいしか思いつかないし」
「何もしてないし、むしろ俺はいつもされてる側だろ……」
犯人だと決めつけるように言ってくる美卯に、梛はため息をこぼす。
とはいえ、凜桜がこうも酷い有様だと、もしかしたら本当に自分が原因なのではないかとも思えてしまう。いやまあ、全くもって心当たりはないのだが。
しかし美卯の言う通り、凜桜がこうなるとすれば、おそらく——いや、確実に梛に関係することだ。知らず知らずのうちに、凜桜を傷つけてしまった可能性がもっとも高い。
梛は凜桜の傍へ歩み寄ると、中腰になってその顔を覗き込む。
よく見ると目元は赤く染まっており、服や掛け布団もうっすらと濡れていた。虚ろな目をしているのも、おそらく泣き疲れたからなのだろう。
「……なあ、姉貴。もしかして、俺が何かしたのか? もしそうなら、何が悪かったか教えてくれないか?」
「…………」
梛が声をかけると、凜桜はまるで梛を避けるかのように、俯いて顔を逸らした。
普段の凜桜ではありえない、明らかに奇怪な行動。……いや、凜桜がおかしくなったのではない。ただ単に、梛に愛想を尽かしただけとも捉えることができる。
そう考えると、あの夜——血が繋がっていないと両親から告げられたときと同じような、身の毛もよだつ恐怖を覚えた。
——嫌われた。嫌われてしまった。
身体が強張り、まともに動かない。
思考がまとまらず、頭が正常に働かない。
視界が霞み、呼吸もままならない。
美卯が凜桜に対して何かを言っているようだが、それすらも聞こえない。
ただの勘違いだと信じたい。だが、こうして無視されている以上、そんなことはありえない。
凜桜に拒絶されたという現実が、梛にそう告げていた。
嫌われたという事実が、まるで刃物のように梛の胸へ突き刺さった。
しかし、それは梛の被害妄想に過ぎない。あたかも凜桜が加害者であるかのように、ただ梛が被害者面をしているだけだ。
これまで梛は、凜桜からの好意をことごとくぞんざいに扱ってきたのだ。その好意がいきなり裏返り、嫌悪に変わってしまってもおかしくはない。むしろ、仕方のないことだった。
今さら後悔しても遅い。大切なものというのは、なくなってから初めて気づくのが世の常だ。
「…………そう、か……そうだよな。……ごめんな。話しかけられても迷惑、だよな。もう二度と関わらないから、安心してくれ……。今まで、ありがとな」
恐怖に打ちのめされながらも、精一杯の作り笑いを浮かべて。
今まで自分に目一杯の愛情を注いでくれた凜桜へ、最後に心からの謝罪と感謝を述べて。
美卯の制止も耳に入らず、梛は重い病に冒されたかのような、ふらふらとした足取りで静かに部屋をあとにした。




