第10話 こどもの日 主役となるは 菖蒲かな②
時は遡ること、およそ二時間前。
家事やら何やらを終えた梛が、残りわずかとなったゴールデンウィークを味わい尽くすように、ソファで二度寝をしていたときのことだった。
突如、ローテーブルの隅に置かれたスマートフォンがけたたましく鳴り響き、梛の安眠を妨げた。
「……ん……うぁ…………あ?」
寝ぼけた梛は、横になったままゾンビのような呻き声を漏らしつつ手を伸ばす。だが、振動によってスマートフォンは梛の手から逃げるようにテーブルの端へ端へと移動し――ついにはゴトン、と床へ落ちた。
その落下音でようやく身体を起こすと、梛は気だるそうにしながら立ち上がり、床に転がったスマートフォンを拾い上げる。
画面に表示されていたのは『小鳥遊綾芽』の五文字。梛の先輩であり、姉である凜桜の友人の名前だった。
普段であれば無視しようかと悩むところだが、今日の夕方頃には綾芽には内緒で誕生日会を計画している。どうせ家に呼ぶつもりだったこともあり、「ちょうどいいか」と梛は大人しく通話に応じた。
「……もしも——」
『もっしもーし!!』
最後まで言い切る間もなく、脳に直接響くような大声が飛び込んできた。梛は顔をしかめ、スマートフォンを耳から遠ざける。
綾芽の第一声がうるさいことくらいわかっていたはずなのに、寝起きで頭が回っておらず油断していた。
梛は鼓膜の無事を確かめるように耳をさすると、今度は警戒しながらそっとスマートフォンを耳に当てる。
『梛くーん、もしもーし? あれ、切れちゃっ……てはないね。ということは、梛くん無視してるなー? お姉さん泣いちゃうぞー?』
「……いつも言ってますけど、声が大きすぎるんですよ。そんな叫ばなくても、ちゃんと聞こえてますから」
『おっ、良かった良かった。梛くんに無視されたら、お姉さん、ショックで三日間は寝込んじゃうよー』
綾芽は電話向こうの梛にも聞こえるようにわざとらしく「ふう」と息を吐き、心底安心したような声を漏らした。
「それで、何の用ですか? 前に言った通り、うちに来るのにちゃんと電話するようになってくれたんですか?」
『おっと、そうだったそうだった』
梛の嫌味など華麗に聞き流し、綾芽は本題に入るかのように「ごほんごほん」と、これまたわざとらしく咳払いをした。
『さてさて、いきなりですが梛くんに問題です!』
綾芽は「デデン!」と効果音まで口にすると、そのまま間髪入れずに続ける。
『今日は何の日でしょーか?』
「こどもの日」
『おー、即答だねー。やる気いっぱいだけど、残念、不正解! ……いやまあ、合ってはいるんだけどね。でも他にもあるでしょ? ほらほら、「た」から始まるめでたい日!』
「……端午の節句ですか。それならこどもの日でもあながち間違いじゃ——」
『ちーがーうーよー!!』
再び耳元で叫ばれた梛は、反射的に通話を切った。……が、数秒もしないうちに、懲りずにまた電話がかかってくる。
『ちょっと梛くーん! なんで切るのさー!』
「叫ぶなって言ってるのに叫ぶからですよ!」
『梛くんだって叫んでるじゃーん!』
「あんたが叫ぶからだろ!」
思わずタメ口で叫び返した梛は、一つ息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「……それで? 誕生日がどうかしたんですか」
『だーかーらー! ……って、んー?』
梛の言葉が引っかかったのだろう。綾芽は「今何かおかしかったような」と言うように唸った。
『……梛くん、今なんて?』
「だから、今日は誕生日なんですよね? それでどうかしたんですか?」
『…………もしかして、最初からわかってたり?』
「もうすぐ一年の付き合いですからね。さすがに誕生日くらいは覚えてますよ。おめでとうございます」
梛があっさり返すと、先程まで騒がしかった綾芽の声がぴたりと止んだ。
通話は切れていない。そのまま少し待ってみると、再び声が聞こえてくる。
『……梛くん』
「何ですか」
『お姉さんね、今すぐ梛くんのこと抱きしめたい』
「やめてください。マジでやめろ」
あまりにも真剣な声音だったせいで、梛は思わず身震いした。
そんな梛の反応を面白がるようにくすくす笑うと、綾芽は何事もなかったかのように話を戻す。
『さてさて。それじゃあ、本題に入ろっか』
「はあ……」
『梛くんも知っての通り、今日はお姉さんの誕生日です! そこで、愛する梛くんからのプレゼントが欲しいのですよ』
「……何ですか。ケーキでも買って渡せば満足ですか?」
途中で妙な単語が聞こえた気もするが、あまりにも露骨で図々しいアピールに疲れ果て、もはや聞き返す気にもなれなかった。梛は呆れ半分に適当な返事を返す。
すると綾芽は、「チッチッチッ」と得意げに舌を鳴らし、梛の提案を却下した。
『違うんだなぁ。お姉さんが欲しいのは、そういうのじゃないんだなぁ』
「じゃあ、何が望みなんですか」
梛が尋ねると、綾芽は「よくぞ聞いてくれた!」と言わんばかりに、ふっふっふっと不敵に笑う。
『お姉さんの欲しいプレゼント——そ・れ・は、『梛くんとデートする権利』なのです!』
「…………はい?」
『あれ、聞こえなかった? デートだよ、デ・エ・ト!』
「いえ、聞こえなかったんじゃなくて、理解できなかっただけです。……バカなんですか?」
思わず罵倒してしまった……が、綾芽はそんなことなど気にも留めない。
『お姉さんはね、梛くんともっともーっと、イチャイチャラブラブ、キャッキャウフフしたいのだよ!』
「やっぱバカですよね」
『それなのに梛くんは、お姉さんのことを冷たくあしらって……。お姉さん悲しいよぉ、しくしく……』
「…………」
今度はわざと罵倒したものの、無敵の綾芽にはまるで効いていないらしい。もっとも、自分の話に夢中で、単に梛の話を聞いていないだけかもしれないが。
『それじゃあ、十一時ぐらいに駅前集合ねー! 遅刻したらダメだぞっ!』
……話を聞かないどころか、そもそも聞く気すらないらしい。梛に返事をする隙すら与えず、綾芽は一方的に通話を切ってしまった。
耳からスマートフォンを離して画面を見ると、そこにはもう通話中の文字はなく、いつものロック画面が映し出されていた。
やがて画面は暗転し、生気のない少年の顔がぼんやりと映り込む。梛は全身から力が抜けたように、ソファへ深く倒れ込んだ。
まるで日曜日の夕方を迎えたような気分で、もう動く気力すら湧いてこない。
たしかに綾芽の誕生日を祝うつもりではいたが、どうして呼び出される側なのか。むしろ、こちらが呼び出す側ではないのか。
「どうしたもんかなぁ……」
来いと言われたものの、素直に行く気にはなれない。普通に面倒だし、このまま惰眠を貪っていたい。
しかし、綾芽のことだ。梛が待ち合わせ場所に現れなければ、来るまでひたすら待ち続けるか、あるいは家まで押しかけてくるだろう。
とはいえ、面倒なことに変わりはない。それ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけの極めてシンプルな理由で行くのを拒んでいた。
「行きたくねえなぁ……」
「行きたくないって、どこ行くの?」
「うおっ!?」
背後から不意に声をかけられ、梛はまるでバネ仕掛けの人形のように飛び起きる。
早鐘を打つ胸を押さえながら振り向くと、そこには呆れたような顔をした美卯が、梛を見下ろすように立っていた。
「なんだ、美卯か……驚かすなよ」
「ただ話しかけただけじゃん。なんか一人で騒いでたから、虫でも出たのかと思ってたんだけど……やましいことでもしてたの?」
「いや、虫が出たわけでも、やましいことをしてたわけでもねえよ。というか、そうであればどれほど良……くはないな。それなら素直に綾芽さんとデートした方がまだマシだわ」
「……デート?」
「あー……実はだな」
なぜか半眼を向けてくる美卯へ、梛は数分前の出来事を手短に説明した。綾芽の面倒さを何倍にも誇張して。
「ふーん……なるほど、ね。まあ、ちょうどいいんじゃない? どうせ、プレゼントはそれにするつもりだったんだし」
平然と言ってくる美卯に、梛は顔を引きつらせた。
「お前、それ本気で言ってたのかよ……。え、じゃあ、綾芽さんへのプレゼントは何も用意してないのか?」
「いや、それとは別にちゃんと用意してるに決まってるじゃん。デート云々は、あくまで冗談で言っただけだし」
冗談も通じないのかと言いたげに、美卯はため息をつく。
「というか、綾芽さんはお兄ちゃんが来ること前提で話進めてるんでしょ? あの人のことだし、どこぞの忠犬みたいに待ち続けるんじゃないの?」
「それは俺も思ったけどさ……」
「どうせ『でも面倒だからなぁ』とか言うんでしょ。つべこべ言わず、行ってきなよ」
さすがは妹。兄の浅はかな考えなどお見通しのようだ。
しかし、梛も負けじと食い下がる。
「でも、そうなると飯はどうすんだよ。また楓に全部任せることになるぞ」
「楓ちゃんなら、お兄ちゃんがいなくても平気でしょ。それに、忙しそうなら私も手伝うし」
美卯は「これで文句ないでしょ」と言わんばかりに、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
実際、梛がいなくても支度は楓だけで十分だし、その上美卯が手伝うとなれば尚更だ。もはや梛の居場所は完全に失われたと言えるだろう。
「お兄ちゃんが一番面ど……大変な仕事なんだから、楓ちゃんもわかってくれるでしょ」
「今、さらっと面倒って言いかけたよな!?」
「気のせい、気のせい。ほら、早く準備しなよ。主役を待たせちゃダメでしょ」
美卯ははぐらかすように言うと、未練がましくソファに縋りつく梛を引っ張って、リビングから追い出した。
「お姉ちゃんには私から何とか言っておくから、こっちの準備が終わるまでの時間稼ぎ……じゃなくて、綾芽さんのお相手よろしく。……逃げたらどうなるかわかってるよね?」
「…………はい」
観念した梛は、美卯に逆らうことなく部屋へ戻ると、まるで自分のベッドかのように熟睡している凜桜を横目にそそくさと着替え、大人しく家をあとにした。
正直、このままどこかへ逃げ出してしまいたいが、それはそれであとが怖い。残る選択肢は、素直に綾芽とデートする道のみというわけだ。
梛は大きなため息をつくと、タイヤでも引きずっているかのような重い足取りで、綾芽との待ち合わせ場所へ向かった。




