第9話 場の空気 酒に呑まれて 阿鼻叫喚④
そんな会話を交わしながら部屋を出ると、テーブルに朝食を並べていた楓が、いつものような柔らかな笑みで四人を出迎えた。
「おはよ、梛」
「ああ、おは——って、すまん。今日も楓に任せることになって……」
梛は申し訳なさそうに肩を窄める。
結果論にはなってしまうが、凜桜が珍しく寝落ちしたおかげで、今朝こそは梛が朝食を作れるはずだったのだ。
だというのに、代わりに秋穂に捕まったせいで、結局三日間すべて楓に頼りきりになってしまった。
しかし楓は怒ることなく、ふるふると首を横に振る。
「大丈夫だよ。よく眠れた?」
「……まあ、不本意ながらな」
疲れていたからか、それともクッションのように柔らかいものを枕替わりにしていたからか。
普段よりも熟睡できたような気はする……が、あくまで気がするだけだ。絶対にそんなわけがない。
「——なぁぁぁぎぃぃぃ!!」
と、絶叫にも似た叫び声と共に、ドタバタと慌ただしく階段を駆け下りてくる音が響いた——次の瞬間。
凜桜がリビングに姿を現したかと思えば、席に着こうとしていた梛を吹き飛ばす勢いで、ベッドへ飛び込むかのように抱きついた。
押し倒されて尻もちをついた梛が、「ぐへっ……!」と潰れたカエルの断末魔のような声を漏らすも、凜桜の耳には届かない。甘えるように梛の胸元へ顔を擦り付けている。
そうしてひとしきり梛を堪能すると、今度は不満げに頬を膨らませた。
「もー! 梛が全然戻ってこないから、おねーちゃん先に寝ちゃったよー! 梛と一緒に寝られなかったー!」
「いや、むしろ毎日先に……じゃなくて、毎日一人で寝てくれ」
「いーやーだー! 梛と一緒がいーいー!」
凜桜は梛の肩を掴み、これでもかというくらいぐわんぐわんと揺さぶる。
どうせ何を言ったところで、凜桜が布団に潜り込んでくるのは今まで通り変わらない。
と、半ば悟ったように梛がされるがままになっていると、先に席に着いた美卯が、面白半分に爆弾を投下してきた。
「ま、お兄ちゃん部屋に戻ってないけどね。先生と一緒に寝てたから」
「…………梛?」
瞬間、いつも太陽のように輝いていた凜桜の瞳が、一瞬にして深い闇に沈んだ。
つい先程まで逃げ出す余裕がある程度には緩かった肩を掴む手も、今や身動きを封じるかのように、容赦なく力が込められている。
凜桜の拘束が簡単には抜け出せないほど強いのはいつも通りなのだが、今回のそれは訳が違った。
力の源となっているのが、今までとは比べ物にならないくらい強い嫉妬心や執着心。
凜桜から放たれる圧は、あの美卯すら霞むほど恐ろしかった。
「誤解だって! ……いや、事実ではあるんだけども。でも、俺は悪く——」
「しかも抱き合ってたよね」
と、梛の弁明を遮るように、美卯は更なる燃料を投下する。
それが、凜桜の理性に最後の一撃を与えた。
我慢ならないと言わんばかりに肩を掴む手を震わせ、梛に死を覚悟させるような殺気まで放ち始める。
美卯とは違い、全力で謝罪をしても許してくれなさそうな雰囲気だった。
もっとも、この場で凜桜に謝るべき人間がいるとすれば、それは梛ではなく秋穂の方なのだが。
「な、なあ、姉貴。まずは話を——って……え?」
梛は凜桜の肩に手を乗せ、必死に訴えかけて——そして、言葉を止めた。
「姉、貴……?」
「…………やだよぉ……なぎぃ……」
凜桜の瞳がみるみる潤み、やがて真珠のような大粒の涙が溢れ出す。
絶え間なくこぼれ続ける涙は途中で一つに繋がり、頬を伝って川のように流れ落ちていった。
まるで「どこにも行かないで」と懇願するように梛の服をぎゅっと掴み、ぽすりと顔を梛の胸元に埋める。
「おねーちゃんのこと……捨てないでぇ……」
「…………、はあ!?」
あまりにも予想外の言葉に、梛の思考は完全に停止した。
数瞬遅れて、ようやく裏返った声が飛び出す。
「捨てる? 俺が? 姉貴を? いや、なんでだよ!?」
「だって……だってぇ……」
もはや会話すらも難しいらしい。嗚咽を漏らし、ただひたすらに泣きじゃくるばかりだった。
梛は狼狽し、助けを求めるように辺りを見回す。
しかし、楓や秋穂、雛菊はもちろんのこと、先程までは面白がるようにニヤニヤしていた美卯でさえも、凜桜の発言に戸惑っていた。
まあ、いきなり「捨てないで」などと言われれば、誰だって同じ反応をするだろう。
もっとも、この場合の美卯は、さすがにからかいすぎたと反省しているだけかもしれないが。
「おい、美卯。これどうすんだよ」
梛は凜桜の頭を撫でながら、状況の打開を求めて美卯を睨みつけた。
「お前が余計なこと言うから、姉貴が泣いちゃったじゃねえか」
「いや、別に私は事実を言っただけだし……。そもそも、先生がお兄ちゃんを捕まえなければこうはならなかったんだから、私じゃなくて先生のせいでしょ」
美卯は罪を擦り付けるように秋穂へ目を向ける。
秋穂は自分を指さし、目を丸くした。
「わ、私なのか!?」
「まあ、美卯くんの言う通り、元を辿ればアキが少年を抱いたまま寝ていたのが悪いからね。さらに言えば、意識が朦朧とするまで飲んでいたのも、だね」
「それに関しては弁解の余地もないが……ヒナだって、起きていたのに面白がって放置してたんだろ? 同罪じゃないか」
梛はただ助けてほしかっただけだというのに、なぜか「誰が凜桜を泣かせたか」という醜い責任の押し付け合いが始まってしまった。
一方で、完全に蚊帳の外の楓は、預かっていた親戚の子が突然泣き出してしまい、どうしていいかわからず途方に暮れる人のように、おろおろと視線を彷徨わせている。
常日頃から頼もしく感じる楓でも、今回ばかりはとても頼れそうになかった。
梛は保育園や幼稚園の先生にでもなった気分で、泣きじゃくる幼児をあやすように、凜桜の背中をぽんぽんと優しく叩く。
あくまで体感だが、凜桜も少し落ち着きを取り戻してきたように思えた。
「なあ。なんで姉貴は、俺に捨てられると思ったんだ?」
「…………だってぇ……っ……おねーちゃんとは一緒、に……っ……寝てくれないのにぃ……っ……先生、とは一緒に……っ……」
「ダメだ……話聞いても、なんで『捨てられる』って考えたのか全くわからねぇ……」
おそらく凜桜が言いたいのは、「なぜ笹塚先生とは一緒に寝るのに、自分とは寝てくれないのか」ということなのだろう。
会話が成り立ったおかげでそこまでは理解できた。
だが、それがどうして「捨てられる」という結論に繋がるのかがわからない。
捨てる捨てない以前の話、凜桜は梛の所有物でもないのに。
そもそも梛は、ただ一晩を秋穂と過ごしただけで——
「……誤解されてもおかしくはない、のか? いや、だからって捨てるなんて話にはならないだろ……」
眼前でいまだ泣いたままの凜桜を見て、梛は大きなため息を吐いた。
仮に将来、梛が誰かと結婚することになったとして、その相手が自分ではなかった場合、凜桜はどうなってしまうのか。「梛を殺して私も死ぬ」などと言い出すのか。
そんな物騒な未来を想像して背筋を冷やしながら、梛が相も変わらず凜桜を宥めていると、秋穂が頭をぽりぽりと掻きながら近づいてきた。
「……あのなぁ。何か勘違いしてるみたいだが、私と彩峰がそういう関係なわけないだろ。第一、彩峰本人が誰とも付き合う気はないと言っているんだ。姉である君が、それを信じてやらないでどうする」
少し顔を上げた凜桜に目線を合わせるようにしゃがみ込み、秋穂はそのまま言葉を続ける。
「それとも何だ。彩峰は、君のことを捨てるような最低なやつなのか?」
「そんなことないッ!」
よほど梛のことを悪く言われたのが嫌だったのだろう。凜桜は勢いよく顔を上げ、秋穂をキッと睨みつけた。
そんな凜桜の反応に対して、秋穂は予想通りだというふうに肩をすくめ、ふっと微笑む。
「なら、ちゃんと信じてやれ。君の大好きな彩峰が悲しむぞ」
言って秋穂は立ち上がり、その場で大きく伸びをした。
「ほれ、せっかく月宮が作ってくれた飯が冷めて——って、なんだその顔は」
揃って呆気にとられたような顔をしている梛と美卯に、秋穂は不服そうに半眼を向ける。
美卯は梛と顔を見合せ、言っていいかどうかを確認するように視線を交わすと、遠慮がちに口を開いた。
「いや、なんか……先生がまるで教師みたいなこと言ってるなーって」
「『まるで』とか『みたいな』じゃなくて、本物の教師だ。というか、今自分で『先生』って呼んでいたじゃないか」
「でも、美卯がそう思うのも無理はないと思いますよ。教え子を家に呼び出して掃除をさせたり、目の前で酔い潰れて醜態を晒したりする教師なんて、見たことも聞いたこともないですもん。実際俺も、『そういや笹塚先生って教師だったな……』ってなりましたし」
「む……」
さすがの秋穂も、それらが教師のすることではないという自覚はあるのだろう。反論できず、気まずそうに口を噤んだ。
すると、そんな秋穂を見た雛菊が苦笑混じりに口を開く。
「まあ、そうアキをいじめないでやってくれ。日頃のあれこれや今回の件については擁護のしようもないけど、アキに悪気はないんだ。どう足掻いても改善するのが難しいくらいに、どうしようもなくだらしないだけなんだ」
秋穂を庇うのかと思いきや、まったくそんなことはなかった。そう見せかけて雛菊は、背後からのメッタ刺しで秋穂に追い打ちをかけた。
「だからアキのことを許してやってくれないかい? アキには私から言って聞かせておくから」
「いや、自分のことを棚に上げるな。酔い潰れたことについては私が悪いが、そもそもヒナが止めてくれればこの事態は防げたんだからな」
「そうしたかったのは山々なんだけどね。あのときの私は、アキを部屋まで運ぶのを少年に任せるくらい酔っていたんだ。少年を助ける余裕もなかったよ」
「私を叩き起こせばいいだろ! ……ったく、もういい。これ以上待たせたら、作ってくれた月宮に申し訳ないからな」
おどける雛菊に何を言っても無駄だと悟ったのだろう。秋穂ははあと嘆息すると、諦めたように席へ着いた。
「すまないね。せっかく朝早く起きて作ってくれたのに、待たせることになってしまって」
「本当にすまん。結局、この三日間ずっと楓に任せきりで……」
「いいのいいの。私がやりたくてやってるんだから」
離れようとしない凜桜をどうにか引き剥がして席に着き、申し訳なさそうに身体を縮こまらせる梛に、楓はいつものように優しく微笑む。
「それじゃあ、食べよっか。まだ温かいうちに、ね?」
「……ほんと、そのうち何か礼させてくれ。飯奢るでも飲み物奢るでも、何でもいいから」
今回の旅行中だけでなく、楓には常日頃から世話になりっぱなし。何かしらの形で礼をしなければ、さすがにバチが当たるというものだ。
「もう……気にしなくていいのに」
と、そんな梛の申し出に対し、楓は困ったように苦笑する。
「いや、これだけ色々やってもらってるのに、さすがに『気にするな』は無理があるだろ。楓にばっか負担かけてるしな」
「でも……」
「お兄ちゃん、あんまりしつこいと嫌われるよ」
美卯が呆れたようにぽつりと呟いた。
「気持ちはわかるけどさ、とりあえず食べようよ。今度は逆に先生たちを待たせてるし」
「……そうだな。まあ、何かあったら言ってくれ。俺にできることなら何でもするから」
「うん、何かあったらお願いするね」
楓は柔らかな笑みでそう答えると、前に向き直って手を合わせる。
それを合図とするように皆も手を合わせ、「いただきます」と、図らずとも飲みやすい温度になったコーヒーやスープを口へ運んだ。
こうして旅行最終日の朝は、いつも以上に賑やかに、そして慌ただしいまま過ぎていった。




