第9話 場の空気 酒に呑まれて 阿鼻叫喚⑤
そんな騒がしい朝とは対照的に、帰りの車内はまるでお通夜のように静かだった。
別に誰かの機嫌が悪いとか、空気がギスギスしているとか、そういうわけではない。ただ運転手である雛菊を除いて、全員が寝ているだけだ。
まあ、朝からあんなに騒いでいれば、疲れて寝入ってしまうのも仕方のないことだろう。
かく言う梛も、高速に入ったあたりからうとうとし始め、気づいた頃には見慣れた街並みが窓の外に広がっていた。
……あと、いつの間にか凜桜の膝の上に頭が乗っていた。
「それじゃあ、気をつけて帰るんだぞ。旅行は帰るまでが旅行だからな」
初日に拉致されたコンビニの近くで梛たちが降りると、助手席の窓が開いて秋穂が顔を覗かせる。
「いや、それ遠足の話ですし。気をつけるも何も、家はすぐそこですから……」
「そうやって油断してると誘拐されるかもしれんぞ? 後ろからこう……ガッ! とな」
秋穂は面白がるように言いながら、車内から不意に手を伸ばして梛の腕を掴んだ。
一瞬肩を震わせた梛を見て、秋穂は満足気にニヤリと笑う。
「とまあ、こうならないようにな?」
「……そんなことするのは笹塚先生くらいですよ。それに、仮に誘拐されるとしたら俺じゃないでしょ」
「まったく……彩峰は冗談が通じないな。要するに、それくらい気をつけて帰れということだ」
秋穂は腕から手を離すと、そのまま梛の頭をわしゃわしゃとかき乱す。
「楽しかったか?」
「……まあ、そうですね。それなりに楽しかったですよ。色々ありすぎて疲れましたけど、念願だったピザ窯でピザも焼けたわけですし」
頭に乗せられた手を振り払いながら梛が答えると、秋穂はどこか安心したように、柔らかく微笑んだ。
「そうか……なら良かった。——今度は夏休みに海だな」
「…………は?」
「おや、今年は修学旅行があるんじゃなかったかな?」
「あー、そういや二学期に沖縄行くもんな。となると、海以外の方がいいか」
呆気にとられている梛をよそに、秋穂と雛菊は次の予定について話し始める。
まだ一学期も始まったばかりだというのに、もう夏休みの予定を立てるなんて、いくらなんでも気が早いように感じた。
「君たちは、どこか行きたいところはあるか?」
「梛と海で遊びたーい!」
凜桜は梛に抱きついたまま、バッと勢いよく手を挙げる。泣きじゃくっていた朝とは一転、元気いっぱいだった。
「なら、海にするかい? 少年と楓くんが良いなら、私たちは構わないよ」
「でも、お兄ちゃん的には海とかプールは嫌なんじゃないの? 前行ったときも、『足に砂が付く』だとか『髪がパサパサになる』って文句ばっか言ってたし」
「……まあ、気持ちはわからなくないな」
思い当たる節があるのだろう。秋穂は苦笑しながら小さく頷いた。
「そもそも夏自体、虫が多いだの暑いだのって外に出ようとしないし。まあ、無理やり連れ出せばいいんだけどさ」
「それは可哀想じゃないかな……」
「今回もなんだかんだ楽しそうだったし、多分大丈夫でしょ」
今回の梛拉致計画の首謀者である美卯は、悪びれもせず、肩をすくめておどけてみせた。
「となると、次は冬休みだな」
「いやいや。なんで話がそんなトントン拍子で進んでるんですか。事前に打ち合わせでもしてたんですか?」
置いてけぼりの梛が、慌てて会話に割り込むと、秋穂はきょとんと不思議そうに首を傾げる。
「ん、嫌か? スキーでも、と思っていたんだが」
「……無理やり連れてくんじゃなくて、普通に誘ってください」
美卯の言う通り、始まりは酷いものだったが終わってみれば楽しい旅行だった……と、言えなくもない気がしなくもない。
『終わりよければすべてよし』という言葉に基づくのなら、今回の旅行は「楽しかった」と断言できるのだろう。
「まあ、お兄ちゃんがわがまま言わなければ、今回みたいに拉致されることなんてないでしょ」
「わがまま言うどころか、旅行のことすら聞かされてなかったんだが……?」
「そうだっけ?」
問い詰める梛に、美卯は素知らぬ顔でとぼけてみせる。都合の悪いことだけ綺麗に忘れられるあたり、政治家も顔負けだった。
「次の予定についてはまた今度話そうか。少年たちも疲れているだろうからね」
「まあ、ゴールデンウィークもまだ始まったばかりだ。残りは存分にゆっくりするといい。私もこのあとヒナと一杯やる予定だからな」
「飲みすぎないよう気をつけてください」
「善処する、とだけ言っておこう」
言って、秋穂はわざとらしく肩をすくめた。
この様子では、昨夜のように潰れるのも時間の問題だろう。
もっとも、ここで分かれる梛には関係のないことなのだが。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「だな。んじゃ、ゆっくり休むんだぞ」
「はい。色々とありがとうございました。笹塚先生と雛菊さんも、ゆっくり休んでください」
そうして梛たちに見送られながら、二人は「それじゃあ」と手を振り、車を走らせていった。
車が見えなくなると、梛たちも久方ぶりの我が家へ歩き出す。
たった数日離れていただけなのに、どこか懐かしく感じる街並みを眺めながら歩いていると、楓がふと思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、もうすぐ綾芽さんの誕生日じゃなかった?」
「あー……あの人のことだから、近いうちに露骨なアピールしてきそうだよな……」
五月五日——こどもの日は、凜桜の友人である小鳥遊綾芽の誕生日だ。
去年は知り合ってから日が浅かったので何もなかったが、おそらく今年の誕生日には「祝えー!」と家に押しかけてくるだろう。綾芽の性格からして、百パーセントと断言できる。
「せっかくだし、誕生日会でもやってあげればいいじゃん」
「……まあ、どのみちやらされそうだしな。となると、プレゼントも用意しないとか。綾芽さんの欲しいものってなんだ……?」
「お兄ちゃんとのデート券とかじゃないの?」
「あっ! ねーえー、なーぎー! おねーちゃんとのデートはいつしてくれるのー!」
美卯の言葉で思い出したらしい。凜桜は梛の前へ回り込むと、肩を掴んでぶんぶんと揺さぶった。
「あー……そういや、そんな約束したな……」
「忘れないでよー!」
凜桜は頬を膨らませると、思い出せと言わんばかりに梛の身体をさらに激しく前後させる。
梛は落ち着けというふうに凜桜の肩を掴むと、ゆっくりと首を横に振った。
「いやいや、忘れてない忘れてない。ちゃんと覚えてるって。……まあ、ゴールデンウィークもまだ始まったばかりだしな」
「……忘れないでね?」
「わかってるわかってる」
不安そうに見つめてくる凜桜をなんとか宥め、梛は脱線した話を戻す。
「それで、綾芽さんへの誕生日プレゼントだが……」
「まあ、私とお姉ちゃんで用意しとくよ。お兄ちゃんと楓ちゃんは料理の方よろしく」
「ああ、わかった」
「うん、任せて!」
こうして今回もトントン拍子に話がまとまり、綾芽の誕生日会が開かれることになった。
凜桜と美卯が、綾芽へのプレゼントに何を用意するつもりなのか。
パーティーの定番だからという理由で、昨日食べたばかりのピザをまたすぐ作ることになるのか。
昨日ピザ窯で焼いたあの味を知ってしまった今、家のオーブンで焼くピザに満足できるのか。
不安要素や何やら、色々考えることはあるが……まあ、まだ数日あるから大丈夫だろう。
そう結論づけて、梛は未来の自分へ全て丸投げすることにした。




