第9話 場の空気 酒に呑まれて 阿鼻叫喚③
「…………」
目を覚ました梛は、自分の置かれた状況を瞬時に理解し、一晩を秋穂の胸に抱かれた状態で過ごしてしまったという事実に、羞恥で固まった。
「…………」
そして、見当たらない梛を案じて探しにきた美卯もまた、兄の淫らな現場を目の当たりにし、固まっていた。
まさか姉だけではなく、担任教師にまで手を出していたとは……。などと考えているのだろう。美卯の瞳からは完全に光が消え失せていた。
おそらく弁明したところで、変態呼ばわり――いや、犯罪者扱いされるのは間違いない。
とはいえ、弁明しない事には誤解は深まるばかりだ。
梛は秋穂の胸元からなんとか顔だけを持ち上げ、状況説明を試みた。
「……美卯――美卯さん。まずは落ち着いて話を――」
「警察って110で合ってるよね」
「おい待て、早まるな! 話を聞いてくれ!」
スマートフォンを操作しながら部屋を出ていこうとする美卯を、梛は慌てて呼び止める。
「見てわかるだろ? いつもの姉貴と同じで、捕まって動けないんだよ」
「お姉ちゃんと同じ、ね……。やっぱ夜中のうちに潜り込んだんだ」
「いや、姉貴と同じことをしたわけじゃねえよ! 昨日の夜……いや、日付的には今日だけど、雛菊さんと笹塚先生を部屋まで運んだだろ? で、そのときに寝ぼけた笹塚先生に捕まったんだよ」
「って言い訳?」
「……」
どうしても信じてくれないらしい。美卯は依然として、梛に冷ややかな視線を向けてくる。
梛はどうしたものかと大きく息を吐き、やけになったように目の前の柔らかいものへ勢いよく顔を埋めた。
……自分が今、どこにいるのかも忘れて。
「ん……んぅ……彩峰? 何してるんだ……?」
そりゃあ、自分の身体に強い衝撃が走れば、誰だって起きるだろう。
拘束から解放された梛が反射的に飛び退くと、秋穂は眠そうに目を擦りながら、大きなあくびをこぼした。
秋穂はむくりと身を起こして大きく伸びをすると、顔の青ざめた梛に目を向ける。
「おいおい、なんだ彩峰。そんなに人肌が恋しかったのか? 君には、君のことを愛してやまない姉がいるだろうに……まさか担任である私にまで手を出すとはな」
「笹塚先生、まずは話を聞いてください。俺は無実です、冤罪です、誤解です。だから通報だけは勘弁してください……」
梛は無抵抗であることを示すように手を上げ、懇願するように訴える。
すると秋穂は、怒るでも恥じらうでもなく、むしろ面白がるように顎先に手を当て、ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべた。
「さて、どうしてくれようか……。これはもう、彩峰に責任を取ってもらうしか……」
「だから話を聞いてくださいってば……」
「いやしかし、この状況で手を出していないと言われてもなあ」
「ま、普通はそうだよね」
美卯も同感するように頷く。
「お前はどっちの味方なんだよ」
「少なくとも、この状況でお兄ちゃんを信じろって方が無理でしょ。疑いの余地がないじゃん」
「……俺が笹塚先生なんかに手を出すと思うか?」
「おい。なんかとはなんだ、なんかとは」
「それは……まあ」
「いや、納得するな納得するな」
揃って憐れむような目を向けてくる兄妹に、秋穂は不服そうに半眼を返した。
「……私って、そんなに魅力がないか?」
「子供の俺には、大人の魅力はわかりかねます」
言って、梛はわざとらしく肩をすくめた。
均整の取れた肢体に整った顔立ち。加えて高身長と、見た目だけで言えば秋穂は間違いなく美人の類――それも、最上位クラスだろう。
だが、自身の部屋の掃除を生徒に任せるほど家事スキルは壊滅的で、料理に関してはできないどころか火の扱いすら危うい。
そして何より、酒癖が悪い。
せっかくの外見の良さを、数々の欠点でほぼ相殺してしまっているような人物だ。
とはいえ、そういった欠点も魅力に感じる人がこの世にはいるらしい。
梛のような人間には理解しがたい、いわゆる『ギャップ萌え』というやつだ。
「とにかく、俺が笹塚先生に何かした事実はないです。というか、むしろ被害者は俺の方ですから」
「先生と抱き合ってたのに?」
「いや、だから。それは誤解だって……」
梛は眉根を寄せて否定する。
秋穂に手を出していないのは事実だ。
だが同時に、梛の無実を証明できる者がいないのもまた事実だった。
寝ぼけていたのか、それとも酔っ払っていたのか。
真相は定かではないが、昨夜抱きついてきた秋穂の言動を見るに、少なくとも意識は朦朧としているように見えた。
本来ならば当事者である秋穂に証言してもらいたいところだが、あれで昨夜の出来事など覚えているはずもない。
つまり、梛の無実を証明できる者など誰一人としていないのだ。
「しかし、そうは言ってもだな……。いくら酔っていたとはいえ、私が彩峰に……その、なんだ……抱きつくと思うか?」
「――していたさ。映像に残せていないのが悔やまれるよ」
と、今の今まで寝ていた雛菊がいきなり身体を起こし、会話に割って入ってきた。
雛菊はベッドの縁に腰掛けて足を組むと、軽く手を上げる。
「やあ、みんな。おはよう」
「なっ……! 雛菊さん、いつの間に起きてたんですか!?」
「たしか……美卯くんが少年を警察に突き出そうとしていたあたり……だったかな?」
「それ最初の方じゃん……」
「なんだ、起きていたのにずっと寝たふりをしていたのか?」
「いやなに。話の腰を折ってしまっては申し訳ないと思ってね。決して、『面白いからこのまま黙っていよう』なんて思っていたわけじゃないよ」
雛菊はわざとらしく言って、いつものように微笑む。
そして、話を戻そうというように足を組み替えた。
「さて、少年。アキの寝心地はどうだったかな? そして、アキ。少年の抱き心地はどうだったかな?」
「……その口ぶりからして、もしかして昨日の夜も起きてました?」
梛が問いかけると、雛菊はこれまたわざとらしく爽やかな笑みを浮かべる。
「ああ、起きていたよ。少年がアキを運んできて、アキが少年に抱きついて、そしてそのまま二人仲良く寝てしまうところまで。一部始終しっかりと、ね」
「起きてたのに、なんで助けてくれなかったんですか……」
「すまないすまない。私も眠くてね。二人の行く末を見届けたあと、すぐに寝入ってしまったんだ」
「……で、本当のところはどうなんだ?」
「起きたときが面白そうだったから、そのままでいいかなと思ってね」
「確信犯じゃないですか……」
己の無実が証明された安堵感と、それに至るまでの疲弊で、梛は壁に寄りかかるようにその場へ座り込んだ。
「とりあえず、俺の無実は証明されたってことでいいんですよね?」
「そうだね。少年は被害者で、アキに抱きつかれてしまったせいでそのまま寝過ごしてしまった。それが事の顛末さ」
「なんだ。彩峰が欲求不満だったわけじゃないのか」
「んなわけないでしょ。そんなこと言ってると、本当に手が出ますよ」
「おや、まさかアキの言う通りなのかな?」
「やはりそうなのか。いやしかし、教え子とそういう関係というのはなあ……」
「お兄ちゃん……」
梛の言葉に、秋穂と雛菊は面白がるようにニヤニヤと笑い、美卯はゴミでも見るような冷たい目を向けてきた。
もちろん、秋穂の言うような意味での『手を出す』ということではない。そんなわけがない。
ただまあ、秋穂も雛菊も、梛がそんなことをするはずがないのはわかっているのだろう。
それでもこうして面白半分にからかってくるのが、この大人二人の面倒なところだ。
梛はうんざりとした顔で、指を一本ずつ曲げて拳を握ってみせる。
「拳が出るってことですよ。俺を何だと思ってるんですか、ほんと……」
朝から溜まりに溜まった疲れを体外へと押し出すように、梛は大きなため息を吐いた。
「んじゃ、お兄ちゃんの冤罪も晴れたことだし、朝ごはん食べよ。楓ちゃんが作って待ってるし」
「……おい。俺に何か言うことあるんじゃないか?」
梛が言うと、美卯は口元に手を当てて考えるような仕草を見せる。
「…………お勤めご苦労様?」
「警察に突き出されてたあとじゃねえか……。兄を犯罪者扱いしやがって」
「別に、お兄ちゃんが本当にやったとは思ってないしね。それに、お兄ちゃんが女の人と一緒に寝てるなんていつものことだし」
「ほう……彩峰は浮気性か」
「おい、美卯。人聞きの悪いこと言うな。その女の人って姉貴だろ。……てか、浮気も何も、そもそも誰とも付き合ってないですし」
表向きには凜桜や美卯と付き合っていることになっている以上、浮気と言われても仕方ない。
だが、秋穂と雛菊はそれがあくまで『付き合っているフリ』だということを知っている。浮気性呼ばわりとは、なんとも酷い言いがかりだった。
「いつも一緒に寝ているなんて、相変わらず仲がいいじゃないか」
「姉貴が勝手に潜り込んでくるだけですから……。——って、そういや姉貴はどうしたんだ?」
扉の前で立ち止まり、梛は気づいたように美卯へ尋ねる。
いつまで経っても梛が部屋に戻らないというのに、あの凜桜が放っておくわけがない。
探し出して連れ戻そうとするか、もしくは見つけた場所でそのまま一緒に寝ようとするはずだ。
そんな梛の疑問に、美卯は自分なりの推測も交えて答える。
「お姉ちゃんならお兄ちゃんのベッドで寝てたよ。いつまで経っても戻ってこないから寝落ちしたんじゃないの?」
「あの姉貴が寝落ちなんてするか……?」
普段から梛が寝静まるのを自室で待ち、日付が変わる頃になると布団へ潜り込んでくる凜桜だ。そう簡単に寝落ちするとは思えない。
「お姉ちゃんのこと、サイボーグか何かだと思ってる? いつもより遅くまで起きてたんだし、お兄ちゃんと同じで眠かったんでしょ。……まあ、気持ちはわかるけど」
美卯は呆れたように言いながらも、同感だというふうに苦笑する。
どうやら凜桜の梛への執着心は、兄妹の間で共通認識のようだ。




