第8話 火の用心 阿呆が一人 火事の元②
やがて交渉が終わったのか、凜桜はあっさり離れ――ベッドの上にちょこんと座ると、梛に向けて腕を大きく広げた。
「えーっと……?」
「……?」
梛が首を傾げると、凜桜もまた鏡写しのように首を傾げる。
「ハグしてくれるんじゃないの?」
「……美卯さん? いったい、あなたは何を吹き込んだんですかね」
「何って……『今離れれば、お兄ちゃんからハグしてくれる上に、ほっぺにチューまでしてくれるかもよ?』って言っただけだけど」
「『だけ』じゃねえよ。何言ってんだお前」
助けてくれとは言ったものの、代価が大きすぎる。梛は据えた目で美卯を問い詰めた。
百歩譲って、ハグはまだわかる。しかしキスはさすがにどうなのか。
「助かったんだし別にいいじゃん。どうせ減るもんでもないし」
と、美卯は反省の色も見せず、むしろ感謝してほしいというふうに言ってくる。
今すぐこの場から逃げたいが、凜桜の方が出口に近いのでそれも難しい。
偶然が必然か、まるで狙っていたかのような位置取りだ。
梛は嘆息すると、覚悟を決めて凜桜の身体に腕を回し――
「……これで勘弁してくれ」
そのまま抱きしめ、許しを乞うた。
いくら頬、いくら家族と言えども、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
こうして抱きしめるだけでも、十分頑張ってると思ってほしい。
凜桜の後ろで、美卯が「うわ、日和った……」などと呆れた目を向けてくるが、そんなもの知ったことじゃない。
どうせ同じ立場になれば、美卯だって同じ行動を取るだろう。
これを恥ずかしいと思わないのはおそらく凜桜くらい……だと思っていたのだが、それはあくまで自分がする側のときだけらしい。
「えへ、えへへへへ……え、へ」
抱きしめること十数秒。ついに限界に達したようで、凜桜は事切れたように固まってしまった。
抱擁を解き、梛は安堵するように息を吐く。
「姉貴にも羞恥心があってよかった……」
「お姉ちゃんのこれは恥ずかしいんじゃなくて、ただ単に感極まってるだけでしょ。お兄ちゃんに抱きつかれて嬉しい、って顔してるじゃん」
「……いや、わかんねえよ」
シスコンではないので、さすがの梛でも姉の感情をすべて読み取ることはできない。
つまり梛とは逆に、完璧に理解している美卯は紛れもないシスコンということになる。
もっとも、そんなことを言えばシスコン疑惑を否定されるどころか、逆になすりつけられるのがオチだろうが。
「……と、ゆっくりしてる暇はないな」
やっとの思いで解放されたというのに、その余韻に浸る暇もなく、梛はせっせと部屋をあとにする。
早足で階段を駆け下りてリビングに顔を出すと、こちらに気づいた楓がいつものように優しく微笑みかけてきた。
「おはよ、梛」
「ああ、おはよう。その……悪いな」
「ううん、大丈夫だよ」
有言実行できなかったことを申し訳なさそうにする梛に、楓はいつもの調子で返してくる。
「私がやりたくてやってるんだから、気にしないで、ね?」
「でも、本当にすまん。うちの姉貴がいつもいつも……」
「何、お姉ちゃんに全部なすりつけてんの?」
言って、美卯が梛の脇腹を肘で小突いてきた。
「そんなこと言ってる暇があるなら、楓ちゃんの手伝いでもしなよ。ま、お兄ちゃんの出番はもうないと思うけど」
「うっ……」
席に着く美卯を追って、梛はテーブルを見やる。
テーブルの上には、トーストにベーコンエッグ、ヨーグルトなど、カフェのモーニングメニューのような品が並んでいる。美卯の言う通り、梛の出る幕などなかった。
「……本当にすまん」
「気にしなくていいのに……」
楓は苦笑しながら、コーヒーをテーブルに並べていく。
「それじゃあ……その分、お昼と夜は梛に頑張ってもらおうかな」
「喜んでお受け致します」
梛が執事のように仰々しくお辞儀をすると、楓も「もう……」と笑って席に着いた。
そして揃って食べ始めようとしたところで、梛はふと辺りを見回す。
「そういえば、笹塚先生と雛菊さんはどこ行ったんだ? たしかリビングで酔い潰れてたよな……?」
昨晩最後に見たとき、二人がまるで殺人現場のようにその辺に転がっていたのを覚えている。
これを教え子、そしてバイトとその家族に見せていいのかというくらい、だらしない姿を晒していたことまで、しっかりとはっきりと。
「私と楓ちゃんが起きたときはまだリビングにいたけど、作り始めるときに『朝ごはんいらない』って部屋に戻ってった」
「あー、二日酔いが相当つらかったんだろうな……」
一応、合間合間に水を飲ませはしたのだが、大して意味はなかったようだ。浴びるように飲む二人にとっては、所詮焼け石に水だったらしい。
「明日が本番なんだから少なめにって言ったはずなんだけどな」
「お兄ちゃんの相手でストレス溜まってたんじゃない?」
「……否定しづらいこと言うなよ」
的確にボディブローをかましてくる美卯に、梛は頬を引きつらせた。
あの大人たちは、こうして旅行に連れていくくらいには距離感が近いというか、だいぶ親しみやすい性格なので、こちらもついフランクに接してしまう。
知らないうちに失礼なことを口走って、ストレスを溜めさせてしまっていた可能性もある……が、さすがに低いだろう。
そうでなければ、酔っ払っているとはいえその原因であろう相手にダル絡みなんてしないはずだ。
「まあ、二日酔いで寝てるなら無理に起こさないでそのまま放置しとくのが良さそうだな。吐かれても困るし」
「多分大丈夫じゃないかな……?」
梛の容赦のない言いように、楓は苦笑する。
「ところで……凜桜さんはまだ寝てるの?」
「一回起きたけど、お兄ちゃんが気絶させた」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺が悪役みたいじゃねえか」
「でも事実じゃん」
「やってることがマスコミの悪意ある切り取りと同じなんだよなあ……」
印象操作で兄を陥れようとする妹に、梛は頬杖をついて、呆れたように息を吐く。
とはいえ、美卯の偏向報道など今に始まったことじゃない。いつものように「まあいいや」と流して、梛は話を続けた。
「どうせそのうち起きてくるだろうし、さっさと食べちゃおうぜ。このあとも色々やることあるんだしな」
「ピザ窯のお掃除もしないとだもんね」
「そういえば夜ごはんピザだっけ。美味しいピザのために、掃除がんばってねー」
「いや、ピザ窯掃除以外にもやることはあるんだから、美卯にもちゃんと手伝ってもらうぞ」
他人事のように手をひらひらさせながら言ってくる美卯に、梛は淡々と言って返す。
梛が掃除している間、美卯には凜桜の面倒を見てもらわなくてはいけないのだ。
美卯の助力は必要不可欠。でないと、掃除どころではなくなってしまうだろう。
ただまあ、それも朝食を済ませてから。まずはエネルギー補充が優先だ。
「それはそれとして、せっかく楓が作ってくれたんだから、冷めないうちにさっさと食べようぜ。ほら――いただきます、と」
『いただきまーす』
三人は手を合わせ、いつもと同じように会話を楽しみながら、コーヒーやトーストを口に運ぶ。
環境が静かな山中に移ったのと、凜桜不在の理由が二度寝か気絶かの違いなだけで、それ以外は普段と何ら変わらない、穏やかな朝の光景だった。




