第8話 火の用心 阿呆が一人 火事の元①
ここ数年、林間学校やスキー教室といった宿泊行事などを除いて、寝覚めが良かった試しがない。
普段から夜の十一時には必ず床に就き、朝の六時半――休日ともなれば、八時だったり九時だったりと、少なくとも七時間以上という十分な睡眠時間をとっているのに、だ。
「……」
梛は重い瞼を、重力に逆らうように頑張って開くと、これまた重い身体を、亀のようにのっそりとした動作で起こす――が、中途半端な位置で止まってしまった。
理由は単純。梛の腕が、寝覚めの悪い原因にがっちりと拘束されているからだ。言わずもがな凜桜である。
昨夜、「一緒に寝る」と泣き喚く凜桜を、梛は何とか隣のベッドに転がしたのだが、その程度で諦めるような姉ではなかった。
案の定、深夜のうちに布団に潜り込んできては、このように隣で気持ちよさそうに眠っている。
凜桜が毎朝起きてくるのが遅い理由も、こうして布団に忍び込むために、部屋の主が寝静まるのを、夜遅くまで待っているからなのだろう。そんなことを最近考えるようになったのだが、おそらくそれが正解な気がした。
と、隣に凜桜が寝ているという現実を受け止めた途端、だんだんと目が冴えていく。周囲の景色も、少しずつはっきりしてきた。
視界いっぱいに広がる、温かみのある木の壁と天井。それらを見てようやく、梛は自分が秋穂と雛菊に連れられて、コテージに来ていることを思い出した。
そして同時に、昨晩の記憶が次々と蘇ってくる。
ほどよい辛さで食べやすく、それでいて絶品の楓特製チキンカレー。
まるで修学旅行の夜のように盛り上がった、罰ゲームありのトランプ大会。
そして――飲みすぎて酔い潰れる秋穂と雛菊。
「……いや、最後のは忘れたままでよかったな」
まだ起きたばかりだというのに、嫌な光景を思い出してしまった。梛はあくびの代わりに、大きなため息を吐く。
昨晩は梛が休むことを余儀なくされたため、おつまみは市販のものをそのまま出した。
それでもかなりの量飲んでいたのに、本番とも言える今日の夕食のピザでは、いったいどれほど飲むというのか。夜のことを考えると、今から恐ろしい。
「……と。さっさと起きないとだな」
昨晩、「明日は俺もやる」と言ったのだから、そんなことを考えている暇はない。夕食のことなど、未来の自分に任せればいいのだ。
まずは朝食作り。そのためには、目の前のこと――隣に横たわる凜桜をどうにかしなくてはならない……のだが。
「どうしたもんかなあ……」
これで捕まっていなければ、「起こすの可哀想だし、このまま寝かせておいてやろう」なんて考えるところだが、やるべきことがある以上そうもいかない。
だからといって、起こしたら起こしたで捕まるのは確定している。手詰まりとはまさにこのことだ。
いつものように美卯が起こしに来てくれれば、そのタイミングで助けを求められるのだが、それもいつになるかわからないので待っている暇もない。
常日頃から早起きな楓のことだ。こうして梛が美卯の助けを待っている間に、先に朝食を作り出してしまう可能性もある。……いや、もう動き始めていてもおかしくはなかった。
梛は、緩みきった寝顔の凜桜を見やる。
「一か八か……か」
凜桜を起こし、完全に捕まり切る前に弱点の脇腹をつつく。
そうすることで凜桜は怯み、その隙に抜け出せさえすれば、何事もなく朝食を作りに行けるというわけだ。
しかし、言うは易く行うは難し。凜桜の反応速度は寝ぼけ具合によって異なるので、上手くいくとは限らない。
コンティニュー不可、直前でのセーブも不可。捕まってしまえば即ゲームオーバー。
言うなれば、一度きりの高難度クエストだ。
どうせ行動を起こして捕まっても、起こさずにこのまま助けを待っていても、この場から離れられないことに変わりはない。
それなら、今日の運勢占い程度に考えて、この脱出チャレンジに挑戦するべきだろう。
もっとも、梛にとって『凜桜に捕まる』ということは、そんな生易しいものではないのだが。
「……おい、姉貴。さっさと起きろ。離してくれさえすれば、二度寝してもいいから」
言いながら、梛は凜桜の肩を揺すってみる。
しかし、凜桜は無反応。相も変わらず、緩みきった顔だった。
「まあ、この程度で姉貴が起きるわけがないよな……」
どうしたもんかなあ、と梛は頭をかく。
頬を引っぱたくなり、大声で叫ぶなりすれば、さすがの凜桜でも目を覚ますだろう。
とはいえ、それはあくまで最終手段。わざわざエアガンを携えて兄を起こしに来るような、乱暴な妹とは違うのだ。
いくら相手が、いつもしつこく迫ってくる凜桜とはいえ、できる限り優しく起こしてあげたい。そう思うのは、痛みを知る者として当たり前だろう。
――そこで問題となってくるのが、「どう起こすべきか」ということだ。
ちょっとやそっとじゃ起きないのだから、何か特殊な方法で起こすしかない。
例えば、美卯がやるように、耳元で凜桜にとって有益なことを囁く方法が上げられる……が、実際にそれで起きるとしても、己の身を犠牲にはしたくない。
かと言って、他に思いつく手も……――
「……いや、これは嫌だな」
凜桜が起きるであろう方法を思いついた。……思いついたのだが、己の身が犠牲にならない代わりに、羞恥心がズタボロになる類のものだった。
しかし、「さすがにこれは……」と首を捻りに捻って考えるも、他に方法が思いつかない。
いくら低スペックとはいえ、脳みそにはもう少し頑張ってほしいものだ。
考えても考えても妙案は浮かばず、無駄に時間だけが過ぎていく。
こんなに考えても思いつかないのだから、仕方ないと割り切るしかないのだろう。
梛は覚悟を決めるように、何度も深呼吸を繰り返した。
「……よし」
梛は、まるで眠れる森のお姫様をキスで起こすかのように、ゆっくりと凜桜の顔へ自身の顔を近づける。
そして――
「……お、お姉……ちゃん」
と、昔の呼び名を、恥じらうように耳元で囁いた。
小学校低学年くらいの純粋無垢な頃の梛なら、一切の躊躇いもなく、連呼することもできたのだろう。
しかし、思春期を過ぎた今の梛にとっては、顔から火が出るほど……いや、全身が燃え盛るほどに恥ずかしい。というか、恥ずかしくないわけがない。
そして――そんな恥じらいが、梛の反応を鈍らせた。
「いっ……!?」
梛の言葉が届いた瞬間、凜桜はまるで最初から起きていたかのように目をカッと見開き、梛が策を弄する間もなく、身体に手足を絡ませてきた。
その上、昨晩のことから学んだのか、脇腹をつつかれないようにと梛の手もしっかり押さえている。
昨日の今日ですぐに反省を活かすとは、さすがは姉貴だ。――などと、感心している場合ではない。
「な、梛が……梛がおねーちゃんのことを、『お姉ちゃん』って……」
凜桜はまるで、血の繋がらない息子に初めて「お母さん」と呼ばれた母親のように、瞳に涙を浮かべてその言葉を噛み締める。
――同時に、呼吸するのに支障がない程度に、梛の身体も容赦なく締め上げられていった。
「ちょっ、姉貴……」
「えへへ……梛が『お姉ちゃん』って……えへ、えへへ……」
「なあ、姉貴。落ち着いて話を――」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……えへへー」
完全に上の空だった。凜桜は頬擦りしながら、ひたすらに梛の言葉を反芻する。
これならさすがに目を覚ますだろうと、甘い考えで行動を起こした結果がこれだ。
とはいえ、あの言葉にこれほどの効力があるなんて、誰が予想できただろうか。
説得しようにも、嬉しそうに笑みを浮かべて話を聞かない。
それなら抜け出すしかないと行動に移そうとするも、手を押さえられているため、もがくことすらままならない。
凜桜といい、この状況といい、色んな意味でどうしようもなかった。
梛に残された手段は、美卯の助けを待つことのみ。
……もっとも、美卯でさえこの状況をどうにかできるか怪しいものではあるのだが。
と、サンタが来るのを心待ちにする子供のように天井を仰いでいると、入口の方から木を叩く甲高い音が聞こえてくる。
「――楓ちゃんはもう起きてるけど、お兄ちゃんはいつまで寝てるつもり?」
言いながら、その音の主――美卯は、返事を待たずに扉を開けた。
そして、梛を抱き枕にする凜桜を視認した瞬間、何かを察したようにすぐに扉を閉め――
「おい待て待て待て。行くな行くな」
梛はもがくように身体をくねらせながら、必死に呼び止めた。
美卯は手を止め、半眼を向けてくる。
「……何?」
「いやいや、助けてくれよ。これをどうにかしてくれ」
「自分でどうにかすれば?」
「無理だってわかってんだろ……」
普段なら助けを求めて手を伸ばすところだが、押さえられているのでそれすらもできない。こうして言葉で説得するのが関の山だ。
すると美卯は、そんな情けない兄と幸せそうな姉をちらりと一瞥して、呆れたように息を吐く。
「なんか、いつもとお姉ちゃんの様子が違く見えるんだけど、お兄ちゃん何したの?」
「…………ノーコメントで」
「つまり、ついにお姉ちゃんを襲っ――」
「違う。断じてそれはない」
兄を犯罪者に仕立て上げようとする美卯の言葉を遮ると、梛は観念したように口を開いた。
「……なかなか起きないから、試しに昔の呼び名で呼んでみたんだよ。そうしたらこうなった」
「なるほど、ね。……お兄ちゃん、バカでしょ」
美卯は枕元まで歩み寄ると、文字通り見下すように見てくる。
「そんなことしたら離れるわけないじゃん。後先考えて動くこともできないの?」
「いや、さすがにこれは予想できないだろ……」
いまだ引っ付いたままのどうしようもない姉を横目で見て、梛は諦観のため息をこぼした。
予測不可能、回避不可能。その上、即死トラップ満載。
そんな死にゲー要素の擬人化とも言える凜桜相手に、初見でどう立ち向かえというのか。
「というか、そんなに死に急がなくても、耳元で叫ぶなり、頬を思い切り引っ張ったりすれば起きるでしょ」
「そりゃあ考えはしたけど、そんな起こし方したら可哀想だろ」
「そんな甘いこと言ってるから捕まるんじゃん。バカなの?」
「俺は美卯みたいに乱暴な人間じゃ――ごめん、俺が悪かった。だから行くな、助けてくれ」
踵を返して部屋を出ていこうとする美卯に、梛は言葉で誠意を示す。
ここで美卯に立ち去られてしまっては、梛の助かる道は完全に消滅してしまうのだ。それだけは何としても防がなくてはならない。
「ほんと、マジで。頼むから助けてくれ」
梛は、陸に打ち上げられた魚のように身を捩らせて呼び止める。
すると美卯は嘆息し、再び梛の元へと戻っては、悪魔のような笑みを浮かべて顔を近づけてきた。
「『助けてください。お願いします』でしょ?」
「親愛なる妹様。どうか、この情けない兄をお助けくださいませ。よろしくお願いいたします」
梛は即答した。自分なりのアレンジを加えて。
兄としての威厳など存在しない。今このとき、梛の中にあるのは、助かりたいという一心だけだった。
しかし、そんな梛の浅い考えなどお見通し。美卯はやれやれと肩をすくめる。
「お兄ちゃんが余計なこと言わなければ、もっと簡単に抜け出せたのにね。結局、朝ごはんも楓ちゃんが用意してくれてるし」
言いながら美卯は、凜桜の頬をぐいぐいとつつく。
やはり上の空のようで、恍惚とした表情を浮かべたままだった。
いくら美卯とはいえ、この状態の凜桜をどうにかできるものなのか。と、頼んでおきながらそんなことを考えていると、美卯はベッドの反対側に回り込み、凜桜にボソボソと耳打ちを始めた。
どうせまた良からぬことを吹き込んでいるのだろうが、助かるためには仕方のないこと。というか、そう割り切らないとやっていられない。




