第7話 聞かぬなら 拉致してみせよう 無理にでも⑧
「……はあ……」
いまだに引っ付いたままの凜桜の頭を撫でながら、梛は疲弊を一切隠そうともせず、大きく息を吐いた。
倒れたことで、周囲に多大な心配や迷惑をかけたのは本当に申し訳ないと思っている。
何かしらの形でお詫びをしたいと考えているくらいだ。
だが――服をしっかりと着ることすら許されないのは、さすがにどうなのか。
梛の安否を確認したのち、秋穂と雛菊は安心したように浴室へと向かった。
そして、それからかれこれ三十分。梛が風呂を出てからは、すでに一時間近く経過している。
それなのに今の梛は、腰にタオルを巻き、覆面のようにシャツを被った状態。言ってしまえば、変態のような格好だ。
凜桜に悪気がないのはわかっているのだが、さすがにそろそろ離れてほしい。
いくら地球温暖化の影響で、例年より大きく気温の上がった春とはいえ、このままだと風邪を引いてしまいそうだ。
「……なあ、姉貴。そろそろ離れてくれないか? そりゃあ、心配かけたのは悪かったけど、もう大丈夫だからさ……な?」
「……やだ」
凜桜はふるふると首を横に振り、さらに強く抱きしめる。大泣きしたあとだからか、鼻声だった。
「でもな、笹塚先生と雛菊さんにつまみ用意するって約束してるし、晩飯も作らなきゃいけないんだ。だからさ、離れてくれないか?」
聞き分けの悪い子供を優しく諭すように梛が言うも、案の定凜桜は離れず。その代わり、背中にバスタオルがかけられた。
さすがに哀れに思ったのか、美卯がかけてくれたらしい。そして、選手交代とばかりに凜桜の説得を始めた。
「お姉ちゃんもとりあえず離してあげなよ。さすがに服くらいは着させてあげな?」
「でも……」
「お兄ちゃんが風邪引いたら嫌でしょ?」
美卯が言うと、凜桜はこくんと頷く。
「……それはやだ」
美卯の言うことに従い、凜桜は素直に梛から離れた……が、未練がましそうにこちらを見つめたまま、その場から動かない。
まるで虎視眈々とチャンスを伺う捕食者のような目をしていた。
梛は再度捕まる前にと、着替えをまとめ上げて部屋へと逃げ込む。そして、被っていたシャツをしっかりと着直し、腰に巻いたタオルの代わりに下着とズボンを身につけ、外を出歩いても警察に捕まらないような格好になってから、ようやくリビングへと戻った。
瞬間、凜桜がいつものように抱きついてきたが、言っても聞かないだろうし、背中側だからそんなに邪魔にはならないので、今日くらいはまあ良しとしよう。
「さてと。晩飯を作って、つまみを用意して……だいぶ忙しくなりそうだな」
と、梛が凜桜を引きずりながらキッチンに向かおうとすると、楓が引き止めるように手を掴んできた。
「私がやるから、梛はゆっくり休んでて」
「え、いや、大丈夫だって。もう回復したしな」
「でも、病み上がりなんだから、あまり無理しない方がいいんじゃないかな?」
「病み上がりって、そんな大袈裟な……」
苦笑を返し、梛は再度足を進める。しかし楓も譲らなかった。
手を引いて、キッチンから遠ざけるように言ってくる。
「ううん。大袈裟なんかじゃないよ。倒れたのも、日頃の疲れが溜まってたからだと思うんだ。だから今日くらいは私に任せて、梛はゆっくり休んでて、ね?」
「いや、でも……」
「また倒れたら、ピザも作れなくなっちゃうよ?」
「そ、れは……」
楓の言うことはもっともだ。言い返せず、梛は言葉を詰まらせる。
この旅行での梛の目的は、ピザ窯でのピザ作りに挑戦することだ。もしそれができないとなってしまえば、梛はいったい何のためにここへ来たのかということになってしまう。
もっとも、『来た』のではなく、『拉致された』が正しいのだが。
しかし、だからといって、すべてを楓に任せきりにはできない。
当然、楓の料理の腕前は把握しているので、任せておけば万事上手くいくのはわかっている。ただ、単純に申し訳ないのだ。
「でもさ、さすがに楓一人に全部任せるのは申し訳ないというか……」
梛は少しでも手伝わせてほしいと説得を試みる。
すると楓は、なかなか折れない梛に、困ったように小さく息を吐く。
そして、少し間を空けてから、「うん、わかった」と答えると、梛の手を離――さずに、両の手でぎゅっと握ってきた。
「じゃあ、私から一生のお願い。今日くらいはゆっくり休んでてほしいな」
と、梛を休ませるためだけに、一生のお願いまで切り出してきた。
そこまでする幼なじみに驚き、梛は思わず顔を引きつらせる。
「……そこまでして、俺を休ませたいか」
「うん。梛にまた倒れてほしくないもん。だから、お願い。今日はゆっくりしててほしいな」
お願いだから聞いてほしい、というふうに、楓は手に強く力を込める。
そんな幼なじみの優しい覚悟に、梛が応えないわけがなかった。
ため息を吐き、呆れたように言ってやる。
「……わかったよ。今日は楓に全部任せる。だけど、一生のお願いは使わなくていい。というか、こんなことで使うな」
生粋の世話焼きというか、心配性というか。
いくら倒れたとはいえ、幼なじみを休ませるためだけにここまでするとは、優しいにも程があるというものだ。
世界中の人々全員が楓のような性格ならば、この世から争い事がなくなるのかもしれない。……いや、それはそれで意固地な人だらけになりそうなので、どのみち争いは避けられない気もした。
「それじゃあ……ちゃんと休んでてくれる?」
「まあ、滅多にない楓のわがままだからな。今日くらいは大人しく聞くことにする……けど、明日は俺もやるからな」
「うん、頼りにしてるね」
「……ったく。それはこっちのセリフだっての」
なんとも心優しすぎる幼なじみに、梛は呆れたように苦笑する。
「じゃあ、今日のところは楓に任せて、俺はゆっくり休ませてもらうとするか」
言って、梛が踵を返してリビングに戻り、大人しくソファに腰を下ろそうとした――その瞬間。
背中に張り付いていた凜桜がやっと離れたかと思えば、先回りするようにソファへ腰かけ、流れるような動作で頭を自身の膝の上へと導いてきた。
「……おい、姉貴」
梛が抗議するように睨んでも、凜桜は無言で頭を撫でるばかり。
それどころか、梛の顔を挟んでは伸ばし、捏ねたりつねったりして遊び始めた。
最初のうちは、凜桜をいつもの調子に戻すためなら少しくらい仕方ないとも思ったが、あまりにもしつこい。
それに、これでは『休んでほしい』という楓の要望を叶えることができそうになかった。
美卯に助けを求めようと辺りを探してみると、梛に代わり、キッチンで楓の手伝いに徹していた。
普段なら叫んででも助けてもらおうと考えるところだが、ただでさえ代わりに手伝ってもらっているのに、これ以上手を煩わせるのも申し訳ない。
とはいえ、梛だけでどうにかできる話でもなかった。
起き上がろうとすれば、寝ていろと言わんばかりに肩を掴まれて押し倒され、手を掴んで必死に抵抗しても、力ずくで頬を揉みしだかれる。休ませる気があるのかないのかどっちなのか。
「なあ、姉貴。そろそろやめてくれないか? さすがにしつこすぎて、相手するのも面倒になってきたんだが……」
と、梛が少しうんざりしたように言うと、意外なことに凜桜はぴたりと手を止めた。
こんな簡単に聞いて貰えるなら、最初から頼んでおけばよかった――と、後悔したのもつかの間。凜桜は瞳を曇らせ、梛の顔にぽつりぽつりと大粒の雨を降らせた。
「あ、姉貴……?」
「……梛は、おねーちゃんのこと……嫌い?」
「いや、なんでそうなるんだよ……」
最愛の弟に面と向かって面倒と言われたのが、よほど堪えたらしい。凜桜は再び泣き出してしまった。
普段ならこの程度で泣くことはない。おそらく、梛が倒れたことがかなりショックで、情緒が不安定になっているのだろう。
梛はちらりとキッチンに目を向ける。二人は会話と作業に夢中で、まだ凜桜が泣いていることに気がついていないみたいだ。
美卯に気づかれようものなら、「またお姉ちゃんのこと泣かせたの?」などと、しつこく言われるに違いない。どちらかと言えば、被害者はこちら側だというのに。
とはいえ、倒れて心配をかけたのは否定しようもない事実だ。
「……まあ、俺に責任がないとも言えないか」
梛は身体を起こすと、凜桜の泣き顔を隠すように、自身の身体へ凜桜の顔を抱き寄せる。……幸いなことに、再度押し倒されることはなかった。
キッチンにいる二人からは凜桜の顔が見えないよう角度を調整しながら、梛は凜桜を連れてこっそりとリビングをあとにする。
「ふう……」
部屋の扉を閉めると、梛はひとまず安心というふうに息を吐いた。
もっとも、まだ何も解決していないのだが。
すすり泣く凜桜をベッドに座らせ、同じように隣に腰かけると、梛は優しく頭を撫でてやる。
いつもならこうすれば簡単に泣き止む凜桜だが、今回ばかりはそう上手くいかないらしい。
まるで親とはぐれた子供のように、ぽろぽろと涙をこぼし続けた。
「なあ、姉貴。別に怒ってないからさ、そろそろ泣き止んでくれよ」
「……でも……梛は……おねーちゃんのこと……嫌い、なんでしょ……?」
凜桜は俯いたまま、嗚咽を漏らすように続ける。
「おねーちゃんが……一緒にお風呂に入ろうなんて言ったから、梛が倒れて……それで怒って……それで……っ」
と、途中で言葉を詰まらせ、凜桜は大泣きしてしまった。
やはり凜桜は、梛が倒れたのは自分のせいで、それが原因で嫌われたのだと思い込んでいるらしい。
まあ、のぼせた原因に凜桜が無関係かと言われれば否定はできないのだが、それを言ってしまえば絶対に泣き止まなくなる。
凜桜はそういうのを――特に梛のことともなると、一生引きずるタイプだ。
凜桜を泣き止ますためにも、まずはどうにかして誤解を解かなくてはならない。
そもそも、今更この程度のことで凜桜を嫌いになんてなるわけがないのだ。
今まで――今日の朝だって、出会い頭に地面へ張り倒されている。それに比べれば、故意でもない今回の件は、怒る理由などない些細なことだ。
梛は凜桜を抱き寄せ、子供をあやすように背中をぽんぽんと叩きながら、優しく声をかける。
「あのな、姉貴。何か勘違いしてるみたいだけど、俺は別に怒ってなんてないからな? ……いやまあ、散々引っ付かれて疲れはしたけど、倒れたのとは一切関係ない。体調管理ができてない俺が悪いんだから、姉貴が気にする必要はない。……それと――」
と、梛は凜桜の肩を持って引き離すと、先程自身がやられたように、思いっきり頬を引っ張り返す。
優しく諭すつもりでいたのだが、勝手に嫌われたと決めつける凜桜に、だんだんと腹が立ってきたのだ。
あの日――血が繋がってないと両親から告げられた日、「幻滅する」と言った美卯の気持ちが、今なら少しだけわかる気がした。
「……俺はな、姉貴を嫌いになってもいない。もちろん、離れろって言ってもなかなか離れないのは、マジで本気でどうにかしてほしいとは思う。……けど、その程度のことで、俺が姉貴を嫌いになんてなるわけないだろ」
言いたいことをすべて言い切ったというふうに息を吐くと、梛は凜桜の頬からパッと手を離す。
泣いたせいか、それとも梛が引っ張ったからか。凜桜の頬は少し赤く染まっていた。
「……まあ、そういうことだ。わかったか?」
「……ほんと……?」
凜桜は目元を拭い、今にも泣き出しそうなうるうるとした瞳で、梛の目をじっと見つめる。
「……じゃあ……おねーちゃんのこと、好き……?」
「……家族としてはな」
梛が言うと、凜桜は少し頬を膨らませ、ほんの一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、すぐに和らいだ笑顔を見せた。
いつも通りに戻った凜桜に、梛も呆れたような、それでいて安堵したような笑みを浮かべる。――と。
「なーぎー!」
「うおっ!?」
凜桜が急に立ち上がったかと思えば、次の瞬間には梛をベッドに押し倒し、そのまま飛び込むように抱きついてきた。
そこからはもう、お察しの通りでいつも通り。だらしない笑みを浮かべては、甘えるように頬擦りまでしてきた。
これでこそ凜桜……ではあるのだが、感情の起伏が激しすぎる。
先程まで纏っていた、あの青黒い負のオーラはどこへ行ったのか。
梛は呆れたように半眼を作り、凜桜の両頬を両手で挟み込んで押し返す――が、そんなものは暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹……要するに、無駄な抵抗だった。
いくら押し返そうとも、凜桜はそれ以上の力で顔を近づけてくる。
「なあ、姉貴。俺は明日に向けて身体を休ませなきゃいけないんだ。だから、いい加減、さっさと、今すぐ、速やかに、迅速に離れてくれ」
「いーやーだー!」
つい数分前、なかなか離れないのはどうにかしてほしいと言ったばかりだというのに、凜桜はまるで飼い主に甘えるペットのように、しがみついて離れてない。
抱きつかれ、甘えられ、頬擦りされ、頼んだところで離れてくれない。そして――最後に梛が折れるまでがお約束だ。
凜桜に対して、いささか甘すぎると思わなくもないが、どうせ何を言っても、何をしても、意味がないか、事態が悪化するのが目に見えている。
梛は諦めたように息を吐き、水に浮かぶように脱力すると、凜桜が満足するまでこの猛攻を受け切ることにした。
それが――一時間以上続くとも知らずに。




