64:──さあ、帰して。
「…………それを認めたうえで、心を静めればここから出られますか」
〈……は? なに? なによ、急に冷静ぶって〉
ローブの女の声が、わずかに震えたように聞こえた。
しかしリュネットは動じない。
「問いに答えて。『認めたうえで心を静めればいいのですか』。そう聞いています」
問いかけに、闇がゆらりと揺らめいた。
──そうだ。
ここは本来「聖堂の中」だ。
自分は神託に導かれここに来た。
聖女の素養を確かめるために集められた。
つまり。
「これは──『試験』です。『生命の源・静謐の滝の安寧を保つ聖女』の『試験』。候補生の心を揺さぶり、強さを図る……そうでなければ筋が通らない。聖なる教会が、理由もなしにこんな無礼を働くわけがない」
怯むローブを前にして、彼女は一点も揺るがない。
闇に対し、筋道を立てて語りだす。
「聖女候補に求められるのは、『いかなる感情にも飲み込まれない冷静さ』。『荒ぶる水神にも恐れない屈強さ』。そうよね? 答えなさい」
見据える先、広がる闇は依然として暗澹を称えているが、不思議と怖くはない。
そう……私は確かに、嘘をついてきた。
人を操り、遠ざけ、利用した。
守るために。進むために。
だが、そのどれもが自分の一部。
私の武器だ。
「──元より揺さぶろうとしている者の虚言など、私には響かない」
カツンと一歩、払いのけるように踏み出した。
途端闇が湖面のように震え揺らめき、ローブの女の口元が焦りに歪む。
嘘が何だというのだ。
演技が何だというのだ。
純真無垢では生きられない。
こんな自分でも聖女の資格があるというのなら、誠心誠意勤めようじゃないか。
あらゆる厄災にも動じない。
不動の聖女として勤めてみせる。
「──さあ、帰して? 虚像とお喋りしている暇はないの。私はもう崩れない」
〈ハッ! 強がってんじゃないわよ! 本当はひとりになるのが怖い癖に!〉
「──そう揺さぶろうとしても無駄です。『試験』ですもの。種の分かった仕掛けに心乱されるほど無垢ではないの」
毅然とした声で云い放ち、リュネットはほほ笑んだ。
ローブ女の言いたいことは、手に取るようにわかる。
そうですわね、皆が居なくなるのは怖いです。
私の『嘘(仮面)』のせいで、本当の気持ちまで疑われてしまうのはつらいです。本音の自分が届かなくなるのは怖いです。
けれど私は信じたい。
ここに来るまで、彼らが私にしてくれたこと。
届けてくれた気持ち。
それに応えていくと決めた、未来の自分を。
「さあ、茶番は終わりです。立ち去りなさい。私は帰る!」
強く宣言しながら、リュネットは闇を払うように腕を振った。
──ザンッ!
瞬間、鋭い刃物で切り裂いたような音が響く。
一瞬の静寂の後。
昏き闇は糸を切られた操り人形のごとく崩れ落ち、──カラン……と、割れたガラスのような音を響かせながら、細かな欠片となって砕け散っていった。
〈──あんた、嫌い……本当に……可愛げがない〉
「あら。私は好きですよ、貴方のこと。
だって、貴方は私の一部ですもの」
にっこりとほほ笑み、深い紫の瞳をむけるリュネットの前、ローブの女が悔しそうに顔を歪めた瞬間。
砕けた闇の破片が、細かな霧となって宙に溶ける。
静けさが一瞬、耳を満たした後──
さらさらと、水が流れる音が優しく響き始めて、リュネットは周りを見渡した。
天からこぼれる柔らかな光が暖かい。
壁面に掘られた水神の紋様が美しい。
ああ、知らなかった。
ここがこんなに美しい場所だったなんて。
まるで「ここが聖域」と言わんばかりの美しさに洗われて、すぅっと大きく息を吸い込んだ。
言いようのない柔らかさが胸の奥まで満ちていく。
──私は帰る。
待つ人たちがいる場所へ。
私を信じ、想ってくれている人の元へ。
◇
◇
耳に届いたのは、清らかな水の音。
瞼の向こうが明るく眩しい。
穏やかな心ごちに息を抜いて、リュネットは静かに目を開いた。
目の前に在るのは、聖女の泉だ。
先ほどと変わらぬ清らかさで存在しているが──、それがどこか、優しく迎え入れているように感じて、リュネットは柔らかにほほ笑んだ。
手のひらに残る、掬い上げた水にも濁りはなく。
ただただ清らかで、冷たさが心地いい。
「────リュネット!」
前を向いた瞬間、呼ばれた声に振り向いた。
…………クルード様?
視線の先、床に刻まれた幾何学模様の外側に、彼は立っていた。
彼は今にもこちらに近寄りたそうだが、それはできないようだ。
床に描かれた文様から──薄く立ち上る光の膜。
「……リュネット!」
薄い膜の向こう、もどかしそうに叫ぶ声。
その表情に浮かぶのは、必死な安堵と僅かな焦り。
(……ああ、そういうことなのね)




