63:────どぷん。
■ 水を掬って覗き込んだ先は、漆黒の中だった。■
〈さあ皆さん、物語を始めましょう。
今年の主役(捧げもの)は「リュネット・サルペント」。
魂の半身に裏切られ、烙印を押されたものの、そのずる賢さで領主を篭絡。
愛も恋も全て偽り・『掌握の演技』で人々を欺き続けた女の話です〉
……え? なに? なにが始まったの?
脳に響き渡った声に、リュネットは半身をおこして眉を顰めた。
思わず目を見開き、辺りを見回す視界に飛び込んできたのは、闇の中にぼんやりと浮かび上がる「見覚えのある広場」だ。
あれは、競売広場だ。
自分が「妻売り」にかけられた、あの広場である。
当時は不穏な熱気に包まれていた広場は今、異様なほど鮮やかに彩られている。
──どうしてこんな光景が?
……これは、祭り? 精霊祭り?
闇に浮かび上がるそれを、呆けた瞳で見つめるリュネットは、すぐ違和感に駆られ眉を顰めた。
なにかが、おかしい。
光目映い会場は「祭り」のように華やかだが、──どこか、歪んでいる。
旗や花飾りは鮮やかすぎるほどの色を放ち、その強い色彩が目に刺さる。
聞こえてくる歓声も、調子外れの音ばかりで、不自然に跳ね返ってくる。
笑い声は響いているのに、その笑顔が見当たらない──
……なに、これ……
背筋に冷たいものを感じながら、リュネットは記憶をさかぼのった。
聖堂の泉で両手で水を掬ったところまでは覚えている。
あの時は、澄んだ空気と聖なる光に包まれていた。
こんな闇が広がる空間ではなかったはず。なのに──
状況が読めない。
把握に時間がかかりそうだ。
しかしそんな彼女をあざ笑うかのように、闇を一筋の光が駆け抜け、一点を照らすとそこに現れたのはローブを目深にかぶった女だった。
見覚えのあるようなないような女は、背丈はリュネットと同じぐらい。
先ほどの声の主だろうと勘づいたリュネットの前、彼女は民衆の視線を集めて、悠々と語り出す。
〈リュネットは商家・男爵の娘。
恵まれた家に生まれ、何一つ苦労ない生活を送っていました〉
当たり前ですね? 男爵の娘ですもの〉
”はははは”ローブ女の演説に、観客たちが一斉に笑い声をあげる。
しかしその笑いに温かさはなく、あるのは嘲笑と冷淡のみ。
景色は遠いのに声だけがやけに近い。
すぐ後ろで話しかけられているような感覚に背筋を冷やし振り向くが、闇が広がるのみ。
リュネットは座り込んだまま身を竦めた。
目の前の全てが異様で、怖かった。
それを待たずに演説は続く。
〈リュネットは裕福なのです、お金持ちなのです、愛されて当然なのです。
そう、蝶よ花よと愛され成長した彼女でしたが、性格は「難あり」。
子供らしい愛嬌も可愛げも持っていなかった!〉
”おおおおう”
響く、落胆と享楽の声。
それは人間のものとは思えなかった。
「ははは」「ほほほ」といった調子外れの声が、あちこちでこだまのように跳ね返る。それが段々とひとつの大きな塊となり、リュネットの耳を覆う。
笑っているはずの顔には、笑みの形だけが張り付いている。目元は死んだように冷たく、そこに温かさなど微塵も感じられない。
リュネットは、たまらず、ずるりと後ずさりした。
途端、背中に触れた『なにか』。
跳ね上がる心臓に突き動かされるように振り向けば、──そこにあるのは、こちらを見下ろす『ほの暗い顔の父と母』。
……ひっ……!
喉の奥で悲鳴が潰れた。
目の前いっぱいに広がる、血の気を失い、生気のない目でリュネットを見下ろす二人。皮膚は青白く、不気味な光に照らされたその表情には、怒りも愛情も感じられない。ただ、そこにあるのは「冷たさ」と「諦め」だった。
父の口がわずかに開いた。
音はない。
しかし、次の瞬間。
ローブの女が代弁するかのように広場に響き渡るのだ。
〈「ああ、こんな可愛らしさのない娘は要らない」
親御さんもそうお考えになられたのでしょう。
彼女を早々に嫁に出しました。
ご両親は聡明です!
女は若さと愛嬌が武器。
愛嬌のないリュネットは早々に嫁に行きました〉
「……ちがう、ちがう……! こんなもの、うそ……!」
リュネットは震える声で呟いていた。
頭の中が混乱する。
自分の記憶が歪んでいく。
お父様お母様にそんなことを言われたことはない。いつだって自慢の娘だとほめてくれた。けれど、愛嬌に関しては指摘されたのも確かで、──……。
──揺らいでいく。
自信がなくなっていく。
お父様もお母さまも、本当は、本当は、わたくしのことを疎ましく思っていた?
愛想も愛嬌もない能面だと?
いいえ、違う!
そんなこと、そんなことない……! そんなことはない!
〈彼女はダルネス子爵のもとに嫁ぎました。
けれど愛されることはなかった〉
くすくす。
────フッ!
〈当たり前ですね?
「いつも張り付けたような笑み」
「見通していると言わんばかりの生意気な顔」
「近寄るなとでも言いたげな空気」
愛されるはずがありません〉
その先は言わなくても解ってる。
言わないで、言わないで。
解っているから言わないで。
”おおおおう……”
納得と落胆の歓声が次を促すように響いて、もう一度眉を寄せた時。
声は響いた。
〈──案の定、ダルネスは女を連れ込みました。
可愛らしい女性・ナルシアでした〉
ローブの女がそう告げた瞬間、闇がぐるりと様変わり。
まるで魔法のように現れたのは、絢爛豪華な屋敷の一室。
柔らかな熱を放つ暖炉・絹張のソファー。豪華な食事。そこで寄り添うダルネスとナルシアは、とても幸せそうで──そこから伝わる『互いの想い』に、息をつめた。
苦しい。
まるであの日々に戻されたような感覚。
悔しかった。憎かった。
自分の未来に希望など持てなかった。
なぜ蔑まれなければならないのか。
夫婦というものはこういうものなのか。
父と母はそんなことはなかったのに。
自分は理想の夫婦になれないのか。
自分に愛が無いのが悪いのか。
わたくしはダルネスのことなど愛していなかった。
契約だと割り切っていた。
ダルネスは愛の持たない男なのだと思っていた。
もともと「契約結婚」、形だけ。そういうものなのだと。
けれど、彼はナルシアを愛した。
目の前で愛した。
〈悔しかったよね。
自分はもらえなかったんだもの。
……ナルシアぐらいの可愛らしさ、愛嬌があれば……
わたくしも愛してもらえたかもしれない〉
そう──わたくしは可愛くない女だった。
それは自覚している。
ナルシアのように、甘えたり媚びたりする振る舞いはできない。だけど……目の前で彼女が愛された瞬間、呆れと侮蔑の中に、明らかな悔しさもあった。
──だけど、あの時の自分には
〈あんな風には振舞えない。
ナルシアのようにはできない。
あんな、男に媚びるような笑顔で甘えられない。
弱みを見せるなんてできない。
だってわたくしは誰も信じていないから。
だーれも信じていないから〉
呆然と。
幸せそうな二人の消えた闇を見つめるリュネットに、耳元で声がする。
詰まった息を吸い込み、瞳だけを滑らせれば、──後ろ。
ローブの女がいつの間にか背後を取り、囁くように述べるのだ。
〈誰も信じていないから演技する。
自分の利となるほうへ誘い込む。
クルードさまのことだってそう。
信じてなんていない〉
──どぐん、と、胸の奥で何かが蠢いた。
『それは違う』──そう否定しようとした声は、喉奥で潰える。
〈クルードも哀れな男。
烙印つきの女に手を差し伸べて
『愛』だなんて大層な言葉を使うんだから。
だけど、あの男だってあなたを信じてなんかいない。
嘘つき女を信じられるわけがない〉
「──違ッ……!」
リュネットは反射的に叫んだが、声は掠れて消えた。
彼への気持ちに嘘はない。けれど……
『彼が本当はどう思っているのかなんて──分からない』
足元が揺らぐ感覚に、リュネットは膝をついた。
「愛している」も「幸せ」も、彼には本音として届いていないのかもしれない。
過去の自分の振る舞い──そのすべてが、彼の信頼を遠ざけているのではないか──……
〈ほら、分かってるんでしょ?
誰からも信じられてない。思われてないって。
そうよねぇ、あんたが見せてないんだもの。
信じてもらえるわけないのよ〉
「……ちがう、ちがうきっと、わたしだっ……て、みなさん……を」
否定の言葉が口から出かけるが、力が入らない。
闇が広がっていく。
〈可哀想ね、リュネット。
仮面をかぶり続けるしかないなんて。
でもそれでいいんじゃない?
どうせ剥がしても、あんたには何もないんだから〉
〈いっそのこと全部捨てたらどう?
クルードも、ショーンも、ネネも。
だって、誰もあんたの本当の顔なんか見たくないんだからさ〉
〈あー、でも安心して?
リュネット・サルペントって名前は忘れられないよ。
きっと。ずーっと。
"嘘つきの烙印女"として語り継がれるからね〉
くすくす、くすくす。
愉快な笑いが響く中。
リュネットは呆然と闇を見つめた。
頭を駆け巡るのは、クルードやショーン・ネネの顔だ。
ローブの女はこう言うけれど……
本当にそうなのかしら
ふと思う。
本当にそうなのかと。
自分が見てきた彼らは本当に、こちらを慕ってくれていた。それが演技だとしても、穏やかな時間に幸せを覚えたのも、かけがえのないものだと感じていた。
ショーンは恨みを押し殺してダルネスの懐に飛び込んでくれたし、ネネはかなりの力を使って自分に扮し、盗賊たちを欺いてくれた。
クルードは……言うまでもない。
人生に光を与えてくれた。
恨みと辛抱の世界から、暖かい光の下へと導いてくれた。
そう感じたのは、本当のことで。
それだけは、嘘でも演技でもなくて。
自分の中にしっかりと、息づいている。
────すぅ…………!
体内に火をおこすように、リュネットは息を吸い込んだ。
目の前の光景と自分の中に、明らかな乖離が生まれ、動揺が冷めていく。
私の中にはこんなにも、あたたかなものが流れているのに。
この女は何を言っている?
〈──ウソツキ、ウソツキ。捨てられ女は一生嘘つき〉
「──……」
『煽る女』に、リュネットは静かに視線を送った。
不思議だ。
先ほどまでの動揺が嘘のよう。
いきなりのことで驚き呑まれ、動揺の渦に飲み込まれてしまったが、我に返れば迷霧消散。
私は捨てられても居ないし、嫌われても居ない。
──私は守られていた。
確かに、護られていた。
それが「自分が見てきた光景」。
ならばこの「笑う女」は何のためにいる?
その疑問は、リュネットを「答え」に導くのに十分だった。
すぅ……と静かに立ち上がるリュネットを煽るように、ローブの女は依然、闇の中で愉快にケラケラ笑っている。
くるくる、けらけら、ふふふ。
たたん、たたん、ひらひら、くるくる。
……ほら、やはり。
──こいつは──”試している”。
〈嘘つきウソツキ、ワタクシはウソツキ〉
「──それを。」
ローブのお道化た動きを封じるように。
リュネットは強く、はっきりと言葉を投げた。
固い声にローブが止まる。
壊れたからくり人形のようにピタリと硬直するローブに、リュネットは続けた。
「…………それを認めたうえで、心を静めればここから出られますか」




