62:聖女にまつわる語り草
──はう……
漏れこぼれたのは、老婆の、諦めたような息遣いだった。
「やれやれ。こんな若造を何度見たことか。だから嫌じゃよ、聖女選別の時期は」
「……ご婦人?」
顔を上げ小さく問うクルードに、老婆は皿のナッツをひとつ、つまみ上げると、手指さきで弄びながら言う。
「教会は極秘にしちょるがね、聖女選別ってのは心の選別だ。候補生の心の奥ん底を揺さぶって揺さぶって、素養があるかどうかを確かめる。方法は知らんがの」
くるりくるり。
指の先のナッツが回る。
老婆が軽く力を入れると、小さな音を立てて亀裂が走る。
「生還できるのは試験を乗り越えたものだけじゃ。大概は”混沌の水面”に呑まれ戻ってこん。運よく身体がこちらに戻ってきても、心が壊れて元には戻らん」
ぱきっと音を立て、割れたナッツを前にして。どくん、と、ひとつ、鼓動が嫌な音を立てた。
老婆は語った。
混沌の水面──噂によれば、それは人の心を反映する鏡だという。揺らぎの中で過去の罪や後悔を見せられ、立ち向かえなければそのまま心を引き裂かれる。選別に失敗した者は、そこから還ることはないと。
「だからの、可哀そうなのはアータたち身内の方じゃよ」
どくん、どくん。
──視界が暗く成りゆく中。
老婆は、諦めと憂いを宿し、彼に述べる。
「言われるがまま連れて行き、今生の別れも、覚悟も出来ぬまま。もう……会うことは叶わんのじゃから」
■
「────開けろ! リュネットを返せ!!」
セラフィア大聖堂前。
無駄だと解りつつも、クルードはその大扉を叩いていた。
老婆の話を聞いてすぐさま駆け出した。
彼女の言い分では、選別の結果次第では、リュネットに金輪際会えない可能性がある。聖女選別に通ればそれなりの使命が科せられるだろうし、落ちてしまえば命がないなど──冗談ではない。
知っていたらこの場に連れてなど来なかったのに。
「──くそ! 開けろ! 開けろと言っている!」
──ドンっ!
クルードは力任せに扉を叩いた。
しかし、重厚な扉はびくともせず、彼の拳に痛みを残すだけだ。
「彼女を取られてたまるかッ……!」
ぐっと拳を握りしめ、絞り出すように呻いた時。後ろから聞こえたのは慌ただしい足音。その煩さにクルードが眉を顰めた瞬間、声は、息も絶え絶え飛んできたのである。
「オ~ララ! アータ! すっ飛んでいくんじゃないよ、はぁはぁ……!」
──先ほどの老婆だ。
怪訝を押し込めゆっくりと振り向けば、先ほどの老婆が息苦しそうに肩を揺らしている。
──いったい何の用だ。
彼がそう声に出す前に。
老婆は大きく息を吸い込むと、歪んだ顔で彼に述べるのだ。
「見かけによらず激情家だねぇ、ひぃ、ひぃ、正面叩いても開きゃしないよ、阿保かいな」
「……ッ冷静でいられるか! 俺はリュネットに何も伝えられていない!」
「……オララ、だから追っかけて来たんじゃろ、ひぃ。ひぃ。……まったく困ったもんだよ、最近の若い衆は話も最後まで聞けないのかい」
「──…………?」
その言い分に、クルードは眉を顰めた。
この老婆は、どうやらからかいに来たわけではないらしい。
もったいぶった言い方がまどろっこしいが、彼女はどうも、こちらを悪いようにするつもりはないようだ。
彼は、怒りを納めて老婆に向き直ると、疑問の眼差しで問いかける。
「意図が読めん」
「アータ、その婚約者に別れの挨拶もできておらんのじゃろ? 今飛び込めばまだ、壊れる前に取り戻せるやもしれん」
「…………扉の鍵でも持っているのか?」
「ハハ! あったとして、ここの鍵なんか渡してどーにかなるもんか!」
心底おかしい、と言わんばかりに笑う老婆に、クルードの眉に皺が寄った。
──しかし、老婆は構わず続けるのである。
その重たい瞼をもちあげて、じろりと見上げると、クルードにやけ気味の笑みを向け、
「アータ扉叩いてるでねぇ、今頃向こうじゃ臨戦態勢だろうよ! 聖女の資質があるモンは、ひとりでも多く試したいのが教会らのやることさね!」
「……何がしたい」
いい加減、苛立ちを露わにすごんだ。
こんなことをしている時間は無いのだ。
話を聞いてやっているというのに、この老婆は《まだ》、含みのある言い方をする。
……こいつ──時間稼ぎが目的では?
クルードの紺碧の瞳が疑いに染まった時。
じゃらり。
老婆の手の内から現れたのは、年季の入った鍵の束。
それらを目の前に、彼女は不敵に笑う。
「──手を貸してやる・ちゅーとるんじゃ」
「……は?」
「──いいかい、よく聞きな。右手奥に勝手口がある。そこから忍び込んだら左。回廊をぐるりと回りこめ。したら”聖女の泉”に出る。婚約者さんはそこじゃろ」
「……待て、理解不能だ」
カカカ、と笑う老婆に首を振った。
急な展開について行けない。
彼女が自分に手を貸す理由もわからない。
都合の良すぎる展開に、クルードは戸惑いを露わに口を開くと、
「何故だ。どうしてそこまでする。俺をはめようとしているのか」
「無粋な男だねぇ、ンなこと聞くもんじゃぁないよ、アータ。手を貸したるっつぅんだから、大人しく借りておくもんさ」
陽気に、しかし、どこか怒りを宿して述べる老婆の雰囲気は、どこか説得力に満ちていて。クルードは躊躇いがちに手を開いた。
伸ばした右手に預けられる鍵の束。
それら全ては古ぼけていたが、さび付いては居なかった。
そこから感じる執念のようなものに、一瞬。
気圧され沈黙する彼に、老婆は述べる。
「……アタイだってね、聖女選別の方法さえ知ってりゃあ、娘を差し出すことなんてなかったんじゃ。……無かったんじゃよ」
言いながらこちらを見上げる眼差しには──寂しさと、希望と、反骨の色が宿っており、彼はそれで理解した。
彼女が託してくれた理由と、重さ。
──見えぬ『老婆の過去』が、クルードの胸を焼く。
差し出された鍵の束は、ただの金属ではなかった。彼女の想いと人生だ。
「さあ、奪い返してきな! 漢を見せるんだよ! アータ!!」
「────礼を言う! 必ず連れて帰る!」
託された鍵束を握りしめて。
クルードは正面扉を背に、駆け出していた。




