51:──どうして、今、どうして
不思議な感覚だ。
クルードは今までも、降りかかる悪意に対して一蹴してくれることはあった。そこに気持ちを感じていたのだが、ここまで怒りを露わにするのは初めて見た。
『自分以外の人間が、自分に降りかかった出来事に怒っている』。
それは彼女が体験したことのないものであり、とても不思議で嬉しかった。
けれど、同時に息苦しい。
──牢の中で気づいた。
自分は、可愛げのない女だと。
他人を操り、騙し、篭絡する、小賢しい女だと。
それなのに、彼は激しく怒っている。
「──……おまえは、俺の妻になるのだ。教会なんぞに捧げてたまるか!」
「……けれど、これは神の意志なのでしょう?」
震えた声に、反射的。
静かに返した自分の声は、ひどく冷たく響いた気がした。
決別の意味ではなかったが、そう捉えられても不思議ではないほど。
「リュネット!」
叫ぶように呼ばれたが、その怒りと裏腹に、リュネットは思考が動かなかった。
(わたくしは、どうするべきなの……?)
──ああ、わからない。
口の先ではそう言った。
『神の意志だ』と、彼を引き離すようなことをした。
だけど、その言葉はどこか空虚で、『神の意志だ』──それだけが空回る。
わたくしは今、どうしたいのだろう?
真っ白の頭の中、過去が、懸念が、願いが高速で回りだす。
ダルネスの妻として、冷たい視線に晒され、蔑まれ、孤独に耐え続けた日々。
売られた妻と囁かれ、今も針の筵。
それでもクルードの隣に居たいという気持ちは変わらず、彼の言葉に甘んじている、今。
牢獄の中で気づいた自分に対する嫌悪。
想いをくれる人々に対して、演技は誠実なのか?
自分は誰かに信用されているのか?
それを裏打ちするように、彼の声が響いた。
「俺は、おまえを手放す気はない」
静かに、けれど確固たる意志を持って告げるクルードに、喉がひりつく。
「神意がどうであろうと、規定がどうであろうと、おまえは俺の妻になるのだ。それを邪魔するものすべてを、俺は許さない」
──なぜ、そこまで?
胸が苦しい。
けれど答えはすでにわかっている。
彼は、わたくしを手放したくないのだ。
愛されている。
その事実が、甘くも苦しい。
けれど、今のままでは自信がない。
リュネットは震えるまま、息を吸った。
「──それでも、わたくしは行きます」
あなたの隣に居たいから。
「……つまり、俺のもとに留まることは、おまえの意思ではないと?」
低く絞り出されたその声に、心が軋んだ。
「違います……そんなことは……」
クルードの存在が、どれだけ自分を救ってくれたか。
どれほど彼の言葉に支えられてきたか。
それを否定するつもりは、微塵もない。
けれど。
「……けれど、今のわたくしでは、あなたの隣に立つ資格があるのか分からないのです」
「だからそれは! 俺が『いい』と言っている!」
「それだけでは! わたくしが苦しいのです!」
叫ぶように言った。
演技にまみれた自分でも、聖女としての資格を得れば、貴方の隣に立つ自信が持てるかもしれない。誰に何と言われようと、『わたくしはここに居ていいのだ』と、自分で自分を認められるかもしれない。
──そんな瞳に宿し、見据え合うこと数十秒。
やがて、彼は静かに目を伏せた。
「…………そうか」
呆れめと無力が混じった声が、力なく部屋に響いたその瞬間。
ふいに、強く腕を引かれ、リュネットは目を見開いた。
部屋を出ていくと思ったのに、違った。
とんっ……と小さく音を立て、腕の中。
力強く感じる腕に、心臓が跳ねる。
頬で感じる彼の体温。
耳をくすぐる息遣い。
厚い胸板の向こうから、どくんどくんと音がする。
高鳴っているのは自分の鼓動だけではなかった。彼の激しくも切ない鼓動が、まるで、逃がさないとでも言っているようで。
──くらりとする。
熱を孕んだ体温が、肌を透かして溶け込んでくる。
硬い胸板に頬を押しつけられ、鼓動の音が聞こえるたび、身体の奥底が甘く痺れた。
苦しいほどに抱きしめられているのに、なぜか心地いい。
息すら詰まりそうな密着に、彼の愛が滲んでいるのが分かる。
痛い。
苦しい。
それなのに──甘い。
「……女々しいな、歯がゆい。お前を離したくはないのに」
低く掠れた声が耳元をくすぐる。
その響きにさえ、酔わされる。
彼の腕の中。
力強い酩酊に酔わされながら、彼女は察した。
ああ、彼も同じなのだ。
一緒に居たい。幸せに、平穏に、共に暮らしていきたい。
”しかし、それを掴むためには”
「……信じてください、クルード様」
言いながら、リュネットは彼を抱きしめ返した。
気持ちが伝わるように、強く。
■
『リュネットに聖女選別の声がかかった』。
この知らせは瞬く間にプレニウス城に広がり、波紋を生んだ。




