39:あの女の影
その日の朝は平和だった。
信頼できる使用人たち。うまい料理に、愛する彼女。
別邸に流れる何気ない幸せに目を細めて、城に帰って小一時間ほどした時だ。
異変は、扉の向こうからやってきた。
「クルード様!!!」
声を共に響いたけたたましい音に、来る収穫祭の打ち合わせをしていた皆の手が止まる。
書類を握る者、装飾の案を出す者、植物のツルを編む者、会場全ての視線を集め駆け込んできたのは街の巡回兵だ。
その表情に滲む焦りの色に、更に場内がざわめいた瞬間。
広場の奥からクルードが問いかける。
「どうした、何があった?」
言いながらクルードは兵に歩み寄った。
街の巡回兵が、このように慌てて飛び込んでくるなど滅多にない。
あるとしたら、グレマーヴの橋向こうに敵軍の影が見えるだとか、非常事態しか考えられない。
それらを考慮しピリつくクルードに、兵は焦りを押し隠しながら息も整わぬうちに言い放った。
「城下に賊が現れました! 彼ら、『リュネット・サルペント様の命令により、この街を襲う!』と宣言し消えたとのこと!」
「……リュネットの命令、だと……!?」
瞬間、クルードに衝撃が走った。
ありえない。
そんなことがあるはずがない。
一瞬、動揺に飲み込まれ動きの遅れたクルードを置き去りにするように、周りの反応は俊敏だった。
「あの女が? 売られた妻は恐ろしい」
「嘘でしょ、盗賊頭だったの?」
「なんと面妖な、恐ろしい女だ……!」
「クルード様、おいたわしや」
「だろうと思ってたー」
畏怖・驚愕・不安・冷笑・嘲笑。
アリの巣を叩いたかのように溢れ出す囁きに、クルードは
「ふざけた真似を……!」
低く唸り、拳を強く握りしめた。
あるはずがない。
リュネットは街に通い、民と交流を図っている。
それを嬉しそうに報告してくれる彼女が、街の住民からモノを奪うために盗賊を使うなど、ありえない。
しかし群衆は収まらない。
クルードは広間を睨みつけ、低く怒号を飛ばすように言い放った。
「静かにしろ!」
彼の一喝が響き渡り、喧騒が一瞬にして凍りつく。
なぜこうなる!
湧き出す苛立ちをそのままに、クルードは鋭い声を投げる。
「すぐに状況を確認しろ。被害の詳細と目撃した者を洗い出せ。賊の特徴を調べろ!」
誰も逆らえぬ迫力で命を下し、素早く踵を返し、手近にあった石柱に拳を叩きつけた。
「リュネットだと? ふざけるな……そんなことがあるはずがない!」
拳から鈍い痛みが走る。
しかしその痛みは、心を苛む焦燥感を和らげるには足りない。
『なぜ今なのだ……!』胸中に渦巻く怒りを飲み込み、どうしようもなかった。
朝、別邸で挨拶をした彼女。
盗賊被害の黒幕だと吹聴されて、今どうしているだろう?
街には出ていないだろうか、住民が押し寄せていないだろうか、彼女は無事なのか。
そんな不安に駆られ、クルードは城を飛び出し別邸への道を駆け戻った。
なんでこんなことになった?
どう考えてもリュネットがそんな命令を出すはずがない。
しかしそんな事実はどうでもいいと言わんばかりに、状況は悪い方向に転がっている。
最初の噂から約二か月、一向に収まりを見せないところに、まるで仕組んだようにこの追撃。
単なる偶然ではない。
誰かが計画的に仕掛けてきている。
噂を撒き、時間をかけて周囲の心を揺さぶり、今になって本命の一撃を放ってきたのだ。
最初の噂が策略の一端だったのは間違いない。
皆が「初めて聞いたのはあの人」と言っていた相手は、職も金もない路傍人だった。
はじめから使い捨てだったのだろう。
自分に辿り着かれないよう、追跡が難しい相手を選び、事が大きくなる前に始末する。
それも計画のうちだったはずだ。
初手の噂が鎮静しようと増幅しようと、相手にとってはどうでもよかったのだ。
重要なのは《評価》。
リュネットの評判を揺らし、少しでも傷つけること。
そして今、周囲を十分に揺さぶった後で、本命の一撃を放ってきた。
狙いは明らかだ。
誰かが明確な悪意を持って動いている。
クルードは胸中に渦巻く怒りを噛み殺しながら、足を速め、彼女の待つ別邸の扉を開けた。
突然の帰還に驚く使用人たち・慌てて駆け寄るショーンとネネ。
彼らの問いにも短く答え、部屋の扉を開けた先。
飛び込んできたのは、驚きに目を丸めるリュネットの変わらぬ顔だ。
「クルード様……?」
小走りに駆け寄る彼女の表情が、近づくとともに曇っていく。
こちらの余裕のなさが伝わったのだ。
煌めいていた紫の瞳に戸惑いと不安を浮かべ、じっと見上げる彼女に、クルードはそっと息をつき、




