37:気持ちだけでは超えられない 1
「どうしたリュネット。顔が暗い」
「…………」
ところ変わって、別邸の談話室。
夜のとばりも落ちた頃。
スヤリスの茶の落ち着いた香りに相反して、部屋には重い沈黙が落ちていた。
遠慮がちに扉を開けたリュネットは、どこか居心地が悪そうだ。
いつもならば、すぐに言葉を交わして席に着く彼女が、今日は動かない。
「どうした?」
「…………」
問いかけにも無言だ。
しかし、僅かに揺れる紫の瞳には、不安と躊躇いを宿しているようで──ソファーに腰かけていたクルードは、思わず背を浮かせ立ち上がっていた。
何かがあったに違いない。
彼女は気丈な女だ。
あのダルネスに、あれほど冷遇されても反撃の手段を取ったほど。
しかし、目の前のリュネットはどうだろう?
視線は下に落ち、所在なさそうに立ち尽くすばかり。
細い指が固く握られている。
それを目にして、クルードは一歩、静かに距離を詰め、
「どうした?」
強く問い詰めるのではなく、ねぎらいの意を込めてもう一度声をかけた。
リュネットの肩がわずかに上下する。
彼女の口から細く、細く溜息が零れ落ち、ぽつりと言葉がこぼれはじめた。
「使用人たちに、少し、厳しいことを言われました」
掠れた声は、思ったよりも重く、クルードの胸に濁った色を落とす。
「誰にだ」
低く問う声に、リュネットはすぐに首を振る。
「それは言えません。ご理解ください」
毅然とした言葉とは裏腹に、彼女の瞳には不安の色が浮かんでいて、クルードは黙り込むしかなかった。
今すぐにでも相手を問い詰め、厳罰を与えたい衝動に駆られる。
だが、リュネットが望まぬ限り、それはただの自己満足に過ぎない。
彼女の心の中にあるものを、正面から受け止めるべきだ──
そう思い直し、言葉を飲み込む彼の耳に、ぽつり、ぽつりと、音が届く。
「……ただ、『言われたこと』は、『その通り』で……、言葉が返せませんでした」
か細い声の中に滲む悔しさに、間髪入れず問いかえす。
「何を言われた? 『プレニウスに相応しくない』などという戯言か?」
「……」
「図星か。くだらん」
彼女の受けた仕打ちを想像し、クルードは短く吐き捨てた。
誰だか知らんが、使用人が何を思い上がっているのだ。
おまえらに何がわかる。
伯爵という立場にある人間は、惚れた女と共になることさえ許されないのか?
そんな、無言の苛立ちは、リュネットを沈黙の意固地から引きずり出した。
腕組みをする自分の前で、リュネットは観念したかのように息を吐き出すと、右手で左腕を握り話し出す。
「お見通しですのね。……ええ。さすがに……気落ちしました」
振り絞るように紡ぐ言葉には、自嘲の響きすら含まれている。
暖炉の炎は穏やかに揺れているというのに、彼女の心は一向に安らぐ気配がない。
「わたくしの過去の件は、いずれどこかから露見すると、覚悟はできておりました。
そうなった場合のことも考えていました。けれどやはり、突きつけられると冷静ではいられません」
紫の瞳に浮かぶ翳りが、さらに深くなる。
彼女の唇が震え、小さな声で続ける。
「──貴方に、迷惑をかけたくないと考えてしまう」
「……──!」
その言葉に、クルードは静かに目を伏せた。
愛する彼女が、自らを責めるかのように口にする言葉は、彼にとって聞き流せるものではない。
「くだらん、と言ったはずだ」
咄嗟にでたそれは、怒りさえ孕んでいた。
暖かく燃える炎の音だけが微かに耳に届く中で、クルードの言葉は確かな重みを持って放たれた。
「他人の言葉など忘れろ。俺は、おまえしか要らん。おまえ以外が隣に立つなど、考えたくもない」
「…………」
「間違っても「他にふさわしい人がいる」などと言うなよ? 俺はおまえがいいのだ、リュネット」
「…………」
言った瞬間、不安に染まったリュネットの表情に、彼は後悔した。
強く言い過ぎた。
愛を伝えるつもりで言った言葉が、結果として彼女を怯えさせてしまったようだ。
リュネットの視線は揺れ、紫の瞳がそっと伏せられる。まるで、自分を守る殻を作ろうとするかのように見え、クルードは拳を握り締める。
くそ……ッ!
クルードは騎士だ。
騎士にとって言葉は剣ではない。
ただ、戦場で敵を斬り伏せるための鍛錬に明け暮れ、想いを伝える術など考えたこともなかった。
婚姻を結ぶ女が現れたとしても、好いた惚れたは範疇の外。
家さえ守れればそれで良いと、自らの感情を横に置いてきた結果が、今こうして仇となっている。
責めたいわけじゃない。
泣かせたいわけでもない。
しかしうまく言えない。
責めるように聞こえてしまった。
柔い言葉で、この想いを伝えられない。
そんな思いは、たどたどしくも不器用に、彼の口からこぼれ出していくのである。




