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37/68

37:気持ちだけでは超えられない 1







 「どうしたリュネット。顔が暗い」

 「…………」




 ところ変わって、別邸の談話室。

 夜のとばりも落ちた頃。

 スヤリスの茶の落ち着いた香りに相反して、部屋には重い沈黙が落ちていた。




 遠慮がちに扉を開けたリュネットは、どこか居心地が悪そうだ。

 いつもならば、すぐに言葉を交わして席に着く彼女が、今日は動かない。



 「どうした?」

 「…………」



 問いかけにも無言だ。

 しかし、僅かに揺れる紫の瞳には、不安と躊躇いを宿しているようで──ソファーに腰かけていたクルードは、思わず背を浮かせ立ち上がっていた。

 


 何かがあったに違いない。



 彼女は気丈な女だ。

 あのダルネスに、あれほど冷遇されても反撃の手段を取ったほど。

 しかし、目の前のリュネットはどうだろう?

 視線は下に落ち、所在なさそうに立ち尽くすばかり。


 細い指が固く握られている。

 それを目にして、クルードは一歩、静かに距離を詰め、



 「どうした?」



 強く問い詰めるのではなく、ねぎらいの意を込めてもう一度声をかけた。


 リュネットの肩がわずかに上下する。

 彼女の口から細く、細く溜息が零れ落ち、ぽつりと言葉がこぼれはじめた。




「使用人たちに、少し、厳しいことを言われました」

 掠れた声は、思ったよりも重く、クルードの胸に濁った色を落とす。




「誰にだ」

 低く問う声に、リュネットはすぐに首を振る。




「それは言えません。ご理解ください」

 毅然とした言葉とは裏腹に、彼女の瞳には不安の色が浮かんでいて、クルードは黙り込むしかなかった。




 今すぐにでも相手を問い詰め、厳罰を与えたい衝動に駆られる。

 だが、リュネットが望まぬ限り、それはただの自己満足に過ぎない。

 彼女の心の中にあるものを、正面から受け止めるべきだ──




 そう思い直し、言葉を飲み込む彼の耳に、ぽつり、ぽつりと、音が届く。





「……ただ、『言われたこと』は、『その通り』で……、言葉が返せませんでした」


 か細い声の中に滲む悔しさに、間髪入れず問いかえす。


「何を言われた? 『プレニウスに相応しくない』などという戯言か?」

「……」

「図星か。くだらん」





 彼女の受けた仕打ちを想像し、クルードは短く吐き捨てた。




 誰だか知らんが、使用人が何を思い上がっているのだ。

 おまえらに何がわかる。

 伯爵という立場にある人間は、惚れた女と共になることさえ許されないのか?


 

 そんな、無言の苛立ちは、リュネットを沈黙の意固地から引きずり出した。

 腕組みをする自分の前で、リュネットは観念したかのように息を吐き出すと、右手で左腕を握り話し出す。






「お見通しですのね。……ええ。さすがに……気落ちしました」




 振り絞るように紡ぐ言葉には、自嘲の響きすら含まれている。

 暖炉の炎は穏やかに揺れているというのに、彼女の心は一向に安らぐ気配がない。




「わたくしの過去の件は、いずれどこかから露見すると、覚悟はできておりました。

 そうなった場合のことも考えていました。けれどやはり、突きつけられると冷静ではいられません」



 紫の瞳に浮かぶ翳りが、さらに深くなる。

 彼女の唇が震え、小さな声で続ける。





「──貴方に、迷惑をかけたくないと考えてしまう」

「……──!」




 その言葉に、クルードは静かに目を伏せた。

 愛する彼女が、自らを責めるかのように口にする言葉は、彼にとって聞き流せるものではない。




「くだらん、と言ったはずだ」


 咄嗟にでたそれは、怒りさえ孕んでいた。

 暖かく燃える炎の音だけが微かに耳に届く中で、クルードの言葉は確かな重みを持って放たれた。




「他人の言葉など忘れろ。俺は、おまえしか要らん。おまえ以外が隣に立つなど、考えたくもない」

「…………」

「間違っても「他にふさわしい人がいる」などと言うなよ? 俺はおまえがいいのだ、リュネット」

「…………」




 言った瞬間、不安に染まったリュネットの表情に、彼は後悔した。

 強く言い過ぎた。

 愛を伝えるつもりで言った言葉が、結果として彼女を怯えさせてしまったようだ。



 リュネットの視線は揺れ、紫の瞳がそっと伏せられる。まるで、自分を守る殻を作ろうとするかのように見え、クルードは拳を握り締める。



 くそ……ッ!



 クルードは騎士だ。


 騎士にとって言葉は剣ではない。

 ただ、戦場で敵を斬り伏せるための鍛錬に明け暮れ、想いを伝える術など考えたこともなかった。

 婚姻を結ぶ女が現れたとしても、好いた惚れたは範疇の外。

 家さえ守れればそれで良いと、自らの感情を横に置いてきた結果が、今こうして仇となっている。





 責めたいわけじゃない。

 泣かせたいわけでもない。

 しかしうまく言えない。

 責めるように聞こえてしまった。

 柔い言葉で、この想いを伝えられない。



 そんな思いは、たどたどしくも不器用に、彼の口からこぼれ出していくのである。


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