32:付きまとう烙印 1
夜の静けさが城を包む中、クルードは一人、自室で酒杯を手にしていた。
大ぶりな窓から差し込む月光が彼の硬い表情を照らす。
瞳は遠くを見据え、何か考え込むように深い沈黙が漂っていた。
「クルード様……、少し、お時間を頂けますか?」
そこに現れたのは執事頭のエディルである。
執事として歴が長く、実力というよりは雰囲気で今の立場にいる。
周囲の者から持ち上げられることも多く、今日もその延長なのか、何かを言い出すのをためらっている様子が見て取れた。
「何だ?」
「えぇと……その……、小耳に挟んだのですが」
「何を。早く言え」
短く響く低い声に、エディルはびくりと肩を震わせたが、深呼吸をして続けた。
「……リュネット殿の……その……噂についてです」
「噂?」
クルードの手が止まる。
酒杯を置いたその仕草は冷静そのものだが、鋭い眼差しがエディルを貫いた。
月明かりの下、その瞳は刃のように冷たく光っていて──エディルは後悔した。
主人のクルードは、いつも武骨で近寄りがたい。
しかし暴君ではなく、人望が厚いのも知っている。
だからこそ、滲み出る剣幕と苛立ちに身がすくむ。
まるで戦場で敵意を向けられているような心境の中、エディルは勢いに任せて問いを投げた。
「彼女は、あの『妻売り』に出された方なのでしょうか?」
「それがどうした」
短い言葉が室内を切り裂くように響いた。
その声は低く静かだったが、確実に怒りを孕んでいる。
エディルは一瞬ためらった。
しかしそれでも勇気を振り絞り、主に述べる。
これは、主人のためなのだ。
「いえ、その……、クルード様は、由緒正しいプレニウスの血を引くお方です、本来なら、それにふさわしい、格式のある……」
「…………」
「──……、で、ですから、その、彼女は、その、『烙印女《うられた妻》』でありま」
「──だから何だ」
その一言は、まるで刃のように鋭く、エディルの言葉を断ち切った。
──怖い。
クルードが静かに立ち上がる。
コツンと床を踏みしめる音が、妙に重く場に響く。
こつ、こつ、こつ。
迫る靴音と共に、クルードの怒りは矢継ぎ早に飛んできた。
「どこで聞いた。誰からだ。どこまで広がっている。答えろ」
「──ひっ……!」
後ずさりしながらエディルは後悔した。
貴族の婚姻なんて政略的なもので、その奥方本人に価値など無いと思っていたし、そんな噂が立つような女はふさわしくない。
それを伝えればクルード様も憤怒に顔色を変えると思ったから報告に来たのだが──
殺気を向けられるなんて。
「で、でで、出所については、わかりかねますが、城内で、誰ともなく話始めたようで、気が付けば皆が……!」
「噂の出所を探せ。広めた者を洗い出しここに連れてこい!」
「は、はい……!」
ひっくり返った声そのまま。
まるで脱兎のように、エディルは震える足で駆け出して行った。
■
一人残された部屋で、クルードは静かに息を吐いた。
苛ついていた。
周りが言うこともわかるのだ。
貴族である自分の婚姻が、家柄と釣り合いを重んじるものだということは、幼い頃から嫌というほど叩き込まれてきた。
家名のための結婚、家柄にふさわしい妻。
それが当然だと思っていたし、疑問を抱いたこともなかった。
しかしそれは、過去の話だ。
リュネットに出会ってそんなものはどうでもよくなった。
頭に女の顔が浮かんで仕方ないなど経験したこともなかった。
天使の旋律が本当に聞こえるとは思いもしなかった。
彼の期待通り、リュネットは賢く立ち回り、時に無垢な笑顔も見せてくれるようになった。
まだまだ、頼られているという自信や、甘えられているという喜びこそ少ないが、そんなものこれから引き出していければいい。
流れるような銀の髪。
神秘を宿す深紫の瞳。
彼女がそこに佇むだけで、その場の空気が変わる。
高い品格を持ちながら自慢に見せることはない彼女は、クルードの理想だ。
これほど欲しいと思った女は居ない。
手放したくない。
──のに。
(くだらん……『妻売り』がなんだというのだ)




