31:幸せの裏 3
「リュネット・サルペント殿だ。今後、我が側近くに控える者として、皆に紹介しておく」
控えめながらも深い礼をするリュネットに、集まった人々は歓迎の拍手で出迎えた。「まあ、素敵な方ね」「クルード様にお似合いだ」「なんて可愛らしいのかしら、お人形みたい……」
まるで祝福の鐘の音のようだ。
だが、そんな温かな拍手に、リュネットは心の底に潜む恐怖に苛まれていた。
彼らは知らない。
リュネットが売られた女であることを。
クルードの言葉に励まされ、前向きに屋敷にやってきたが、歓迎されればされるだけ怖くなる。暖かな光に包まれるほど、冷たい孤独が色を増す。
──この方たちは知らないのです。わたくしが売られた身であることを。女として最も不名誉な烙印を持つ女であること。……それを知ったら、どうなってしまうのかしら……!
そんな不安が胸の奥で脈打つたび、微笑みに陰りが射していく。
ダルネスのもとに居た時には、こんな不安に駆られることはなかった。怖いと思うこともなかった。「菩薩の淑女」と言われるほど、平静で取り繕えたのに、──今、祝福が怖くて仕方ない。
「……安心しろ、リュネット」
そんな自分に気づいたのだろうか。
隣に立つクルードの腕が背中にまわり、同時に優しい声が降る。
渦を巻いていた不安が少し晴れた。
先ほどより息ができるような気がして、リュネットは緊張を残しながらも、微笑み頷いた。
──ええ、そうです。
大丈夫、大丈夫。
もう一人ではないのだから。
彼がそばにいてくれる。
その言葉を胸に刻みながら、彼女は再び微笑みを取り戻し、淑やかに手を振った。
──その奥で、遠巻きに。
冷ややかな視線を向ける者たちに気づくことなく。
■
初めは小さな違和感だった。
応対に出た文官の一人が、顔を合わせた途端に視線を逸らし、無言で一礼だけして立ち去ってしまったのだ。
「……?」
何か失礼をしたのだろうか。
リュネットは首を傾げた。
思考を巡らせ考えてみるが、思い当たらない。
文官の彼のことは認識はしているが、名を名乗られた記憶も紹介された記憶もない。
ダルネスとの件がいつかは漏れると予想はしていたが早すぎる。
クルードやショーン、ネネが過去を漏らしたとは考えにくいし、そこは「無い」と信じている。
だが、ささやかに残った気持ち悪さは消えない。
それを『胸のささくれ』として気に留めるだけにしていたリュネットだったが、それはまだ始まりに過ぎなかった。
昼食の席でふと感じた視線。
廊下ですれ違った使用人が、小声で何かを囁き合う音。
新しい仕事の話を相談しに来た若い武官が、彼女の顔を見るやいなや言葉を詰まらせたこと。
いずれも大したことではない。
だが、積み重なるたび、胸の奥に沈んだ疑問が大きくなっていく。
やはりどこかから流れ出たのだろうか。
誰かが言いふらしたのだろうか。
不安が渦を巻く。
無理やり伸ばした背中が、妙に心細い。
それでも彼女は微笑みを崩さなかった。
あの時に比べればましだと言い聞かせた。
ダルネスの屋敷に居た頃はネネ以外に味方などいなかった。
ネネも弱い立場で、リュネットが守らねばならなかった。
しかし、今は違う。
クルードがいる。ショーンもいる。
──大丈夫。
──だがそんな決意の裏側で。
闇は、密やかにぽっかりと、口を開け始めていた……。
■
『ナルシアは見つかったのか?』
扉の向こうから聞こえたクルードの声に、足が止まった。
石造りの無機質な廊下に、更に冷気が漂った気がして、リュネットは静かに、扉の奥へと耳を澄ます。
『いえ。まだ行方を追っています』
これはショーンの声だ。
思うようにいかない焦りを感じる。
──どういうことなのかしら……
リュネットは聞き耳を立てた。
ナルシアの行方について、リュネットは何も知らない。
彼女の中でナルシアは、あの日、競売広場で兵士たちに腕を掴まれながら、激しく抵抗する様子を最後に終わっている。
あのあと、何らかの制裁を受けたと思っていたのだが──
『あの女……! どこへ消えた』
『不覚でした。あの日、ダルネスを隠れ蓑に姿をくらませるなんて』
聞こえてきた会話に息を呑んだ。
──ダルネスは処罰されたと聞いた。
カルデウスの教えに背いたうえ、ヴィハン帝国へ内部情報を流していたダルネスは、今後を鑑みて生かしておくことは出来なかったのだろう。
本来ならば、リュネットも処刑台の上のはずだった。
反逆を目論む者の妻として、激しい拷問を受けて当然の立場だったのだが──。
それは、クルード側に加担したことで事なきを得たのである。
しかし、事実はかき消えてはくれない。
クルードがどれだけ手を差し伸べてくれようと、どれだけ言葉をくれようと、彼女に付きまとい影を落とす。
だからこそ。
『ナルシアが生きている』。
この事実は、重く、リュネットの心に落ちて行った。




