3:蛇能面の下で
それからリュネットを待っていたのは、典型的な嫌がらせであった。
「リュネット、掃除もまだなの?
本当に使えないのね」
「リュネット、貴方みたいな年増があたしに仕えられるなんて奇跡なんだから」
「……ちょっと?
椅子の位置が少しずれているわ?
整頓すらできないの?」
「笑ってないで何とか言いなさいよ。
……あ♡
そっかぁ、おばさんは耳も遠いのね?
嫌だわ~ナルシア、そうはなりたくな~い」
このような言葉は日常茶飯事。
加え、食べ物を床に捨てられる・それを食べろと命令される・使用人は常に立てと言われ、気に食わないと物が飛ぶことも多々。
ナルシアは元歌劇の歌姫だったようで、数多の男性から声掛けがあったとのこと。それらを袖に振り、ダルネスの愛人となった理由はもちろん、彼の爵位を狙ってのことだろう。
その性格は醜悪で、とにかく、人を蔑み・見下し・精神的優位を取らねば気のすまぬタチ。
相性は最悪だ。
それに比例するように、屋敷の雰囲気も悪化の一途をたどっていた。
そんなある日のこと。
粛々と世話をこなすリュネットの背を見て、ソファー上で、ごろんと横になっていたナルシアは、つまらなそうに唇を尖らせると彼女に向かって声を投げた。
「ねえ。なんかつまんなーい。面白いことしなさいよ。おばさん」
「……」
「ちょっと聞いてるの? おばさん。聞こえてんのはわかってんだけど?」
「……」
あからさまに不機嫌・挑発的な声で言うナルシアを意識の外に、リュネットは静かに本を片づけた。
まったく、気分屋の女だ。
先ほど黙れと言ったら矢先にこの態度。
舌の根も乾かぬうちに自分の言葉を覆すとは、呆れるほど愉快な舌である。
そんな彼女に費やす時間はない。
そう、感情を凍土に沈めるリュネットの、視界が、突如。
ぐらりと揺れた。
同時に響いたガツンという音と、激しい痛みに目を閉じ、歪めるリュネット。瞬時に視界がぼやけ、足がよろめき踏みとどまった。
何が起こったかわからない。
右の額が痛い。
ぐらつく視界が不快だ。
ズキズキとした痛みに抗い原因を探せば、床に転がるは銀の水差しと、床に広がった水。
──投げたのですね、これを。
一瞬で理解した。
額に液体の伝う感覚を覚え、眉を顰めて触れてみれば、鮮やかな赤。それが血液だと認識すると同時に、ナルシアの冷たく不機嫌な声が飛んだ。
「ほら、『返・事』。しなさいよ。ナルシアを無視するなんてありえない。売られる女のくせに、何人間ぶってるの?」
──偉そうに。
口には出さぬ怒りが、ぐらりと揺れる。
しかしそれを顔には出さないリュネットに、ナルシアというと「尊大」なのだ。
腕を組み足を組み、尊大に構えるナルシアは、慌てて逃げ出す使用人たちの背中を横目に、くすりと笑い立ち上がってみせた。
かつん、かつん。
優雅で思わせぶりなヒールの音。
しゃなりしゃなりとドレスが揺れて、挑発するように靡いた。
そんなナルシアを瞳だけで追いかけるリュネットに、一笑すると、彼女はテーブルの上に置かれたハンカチをつまみ上げ──放る。
それはリュネットのものだった。
母にもらった仕立ての良い絹のハンカチ。
まるで汚らしいもののように放られたそれは、床に広がる溢れた液体に浮き、みるみるうち暗く染まる。
反射的にリュネットの瞳が彼女を捕らえた。
ナルシアの口元が悦に歪む。
『拭けよ、ババア』。
腕を組み見下ろすナルシアは、そのまま。醜く笑いながら言うのだ。
「アンタなんて価値無いんだから。
ご主人様を楽しませなさいよ。
楽・し・い・こ・と・の・ひ・と・つ・で・も、やって見せたらどうなのぉ?」
ナルシアの愉悦と嘲笑を含んだ言い分は、リュネットを上から押さえつけるように響き、そして愉快さを増していく。
「そうねぇ。下着姿で走るとか?
跪いて吠えるとか?
……あ、ひとりでヨガってるところ見てもらうぅ? 使用人呼んでよ、男の小間使いに見てもらいましょ♡ そうしましょ♡」
「……」
「なぁに? あははは、冗談よー♡
冗談に決まってるじゃない♡
こんな冗談もわからないなんて、いやぁね。
程度が知れるってものだわ♡」
「…………」
「何よその目。
反抗的に睨まないでくれる?
ナルの顔が汚れちゃうじゃない」
言いながら、愛くるしい顔を醜悪に染めるナルシアに、リュネットは静かに目を伏せた。
──そう、それでいいのです。
思う存分、わたくしを蔑み馬鹿にしてくださいませ。
「っていうかおもしろーい♡
あんたもそんな顔できるんだ?
へえ、蛇能面のままだと思ったのに♡」
鏡をご覧になられたことはありまして?
可愛いお顔が台無しですわよ、ナルシア様。
「今日は帰っていいわよ、リュネット。
ふふ、今夜が楽しみね♡」
そんなリュネットの内心など、知る由もなく。
ナルシアは愉悦の笑みを浮かべ、腰かけ組んだ足をゆらゆらと、ご機嫌に踊らせたのであった。
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