89話 ヴィーダー・バイ・ディア8─ためらいの追跡─
自宅の集合住宅から出て来たヨハネを、アンデレはストーカーよろしく後を付けていた。
ヨハネはバスにもトラムにも乗らず、ひたすらどこかへ向かって歩いている。しかし、その足取りはふらつき、たまにフラットな地面で躓いていて、アンデレでさえ心配になる不調さが窺えた。
(ヨハネさん、大丈夫かな。側で付き添った方がいいかな……)
アンデレはそわそわしながら後を追うが、接触していいものかどうかで悩んでいた。
先程の過去ペトロは、アンデレのちょっとしたトラウマから具現したものだが、ここはヨハネのトラウマの世界。無関係の自分がおいそれと介入していいのだろうかと、死徒の棺の中という未知もあり、珍しく慎重になっていた。
(目の下にも隈ができてたよな。何日か眠れてないんだ、きっと。元カレさんが亡くなったのが、そんなにショックだったんだな……。あ。そういえばこの前、バイトの先輩がよく眠れるいいアイテムがあるって話してたな。何だったかな。アロマを使う何かだったと思うんだけど……)
「うーん。確か、商品名を言ってた気が……」
と、腕を組んで考えごとをしながら歩いていると、前方不注意で人にぶつかってしまった。
「あっ。すみませ……ヨハネさん!」
ぶつかったのは、信号待ちで止まっていたヨハネだった。
ヨハネは、スーッとアンデレに振り向く。その目は虚ろで、気力も感じず、生気すら薄れていた。
「あ……。あの……。ヨハネさん、大丈夫ですか?」
考え事に耽り失態を犯したアンデレ。知らんぷりをしてもよかったが、ぶつかってしまったついでに名前も言ってしまったので、少し気に掛けてみた。ところが。
「……誰?」
「誰って。おれですよ。アンデレです」
「……知らない」
歩行者信号が青になり、ヨハネはまたふらふらと歩き出した。知らないと言われたアンデレは、少し寂しい心持ちになる。
「ここは過去で知り合う前だから、おれのことはわからないのか?」
(死徒が作ったリアルな世界だから、ヨハネさんは過去にいるって勘違いしてる。だからきっと、おれのこともわからないんだ)
「てことは」
アンデレは、手をぽんっと叩いた。
「おれは、ヨハネさんと一緒にタイムスリップしてるのか! すげー! やっぱ死徒って侮れないな!」
勘違いした上に、敵の死徒に間違ったリスペクトをする。アンデレ節は、まだ健在だった。
その後もヨハネに付いて行くと、丘の上のとある場所に到着した。現れたネオ・ゴシック調の石造りの歴史ある建物は、ヨハネが通っていた高校だ。
着いたのは、すっかり午後の授業が始まっている時間だった。これから授業に出るのだろうかと、部外者のアンデレはコソコソと後を追う。
しかし、ヨハネが来たのは上級生の教室だった。終業のチャイムが鳴ると、教室から生徒たちが続々と出て来る。
ヨハネは、出て来た女子生徒たちに声を掛けた。
「あの。レオは?」
話し掛けられた二人の女子生徒は、揃って迷惑そうな顔をする。
「またキミなの。レオなんて、このクラスにはいないよ」
「そんなことないです。レオはどこですか」
「ふざけてるの? 何日続けて来てると思ってるのよ」
「もう相手しなくていいよ。行こ」
ものの数秒で、ヨハネは冷ややかにあしらわれてしまった。
彼女たちは、アンデレの方に歩いて来た。アンデレは慌てて生徒のふりをしてやり過ごそうとし、ズボンのポケットに手を入れて口笛を吹く。
すると、擦れ違いざまに話が聞こえて来た。
「ねえ。レオって、一個上の先輩にいなかった?」
「そういえば。二ヶ月くらい前にあった飛行機テロで、死んだ先輩がいるって聞いた気がする」
その後もヨハネは、石造りの廊下に立ち続け、行き交う生徒たちに同じ質問を繰り返した。
「あの。レオは今日いませんか」
「だから、いないって」
「レオがどこにいるか、知りませんか」
「昨日も訊かれたぞ、それ」
ヨハネの奇行は、学校の噂にまでなっていた。そのうち、生徒からヨハネが来ていると聞いた養護教諭がやって来て、ある部屋に連れて行った。吊るされた板には、「メンタルケアルーム」と書かれている。
「メンタルケア……」
(ヨハネさん、そんなに……)
すると、また場所が変わった。今度は、街の裏手にある住宅に挟まれた細い道だ。
「今度は、別の住宅街?」
そこは、ヨハネが住んでいる場所から河川を挟んだ反対側にある住宅街だった。細い路地の両側に、赤茶色の瓦屋根にベージュ色の壁の二階建てから三階建ての住宅が、くっついて並んで建っている。
時刻は夕方で、差し込む日差しが屋根に遮られ、道は薄暗かった。黄色みがかった電灯が、早くもぽつりぽつりと灯っている。
学校に行った日から、また数日後のようだ。さっきまでと服装が違うヨハネは、キャラメル色の扉の三階建ての家の前にいた。
三〜四回連続してブザーを鳴らすと、茶色い髪をアップで纏めた四十代の女性が出て来た。
「ヨハネくん……」
「すみません。レオはいますか」
そこはレオの実家で、女性はレオの母親だった。彼女は、訪ねて来たヨハネを見て困った顔をしている。
ヨハネは、もう十回ほど同じ用件で訪ねて来ていた。しかしレオの母親は、二人の関係を了解していたので、ヨハネを邪険にして追い返すことはしなかった。
「あのね、ヨハネくん……」
「ダメですか? どうしても会いたいんです。僕のこと怒ってるのかもしれないけど、お願いします」
「……」
「レオに会わせてください」
ヨハネは頭を下げて懇願した。レオの母親は、一層眉尻を下げる。奥のリビングからは、小学校高学年の少女がドアを開けてこちらを覗いていた。
「……わかったわ」
根負けした彼女は、同居している祖母に、夫がもうすぐ帰って来るはず、すぐ戻るからと娘を任せ、ヨハネを車に乗せてどこかへ出発した。
乗れないアンデレが車のテールライトを見送ると、一瞬で同日の別の場所に移動した。
そこは、小高い丘にある墓地だった。灰色や茶色の大小様々な大きさと形の墓標が、緩やかな斜面に整列している。遠くの山々の向こうに太陽が沈み始めているのが見え、山の峰や雲が黄金色に照らされ、家々の赤い瓦屋根をオレンジ色に染めている。
「ヨハネくんがちゃんと来るのは、初めてよね……。ここよ」
ヨハネはレオの母親に案内され、一つの墓の前に来た。アンデレは、遠目から様子を見守る。
命の無を象徴する墓地に、鮮やかに誇らしげに咲く生花。その墓標には先祖たちに並んで、レオの名前と生年と没年が刻まれていた。
「レオは、ここにいるのよ」
「ここ、に……?」
ヨハネは、これからも刻まれ続ける名前を、一文字ずつ目で読んだ。確かに、レオと同じ名前だった。
足が、一歩、二歩と後退る。虚ろな青い瞳が、心とともに揺れる。
「……嘘だ」
「嘘じゃないわ。レオはもう、この世にいないのよ」
「いない……? レオは、生きて、ない?」
「そうよ」
レオの死を重ねて肯定したのは、長い黒髪の嫉妬のマティアだった。
「あいつは……!」
レオの母親はマティアが作った幻覚なので全く反応していないが、アンデレにはその姿は見えている。
マティアはヨハネの背後からヒールを鳴らして近付き、顔を寄せてそっと囁く。
「彼はもう居ないの。どうしてかしら?」
「どうして?」
「それはね。貴方の利己的な言動の所為なのよ」
「僕の、せい?」
「貴方は、精神的なお荷物だったの。貴方がもう少しお利口さんだったら、お別れした儘、永遠にお別れなんて無かった。貴方が彼の事も、自分の事すら考えず、欲求を満たす事しか考えてなかったから、其れが彼の運命の歯車も狂わせた」
「僕が、レオの運命を狂わせた……」
「おい! やめろ!」
アンデレが叫ぶと、一瞥したマティアは微笑を浮かべて自身の影の中に消えていった。この、ほんの僅かな接触だけでも、精神的に揺さぶるには十分だ。
(僕のせい……)
「ちゃんと葬儀で見送れなかったから、まだ混乱してるのよね。だから、ちゃんとお別れしてあげて。そうすればあなたも……」
「嘘言わないでください!」
レオの母親が慰めの手を差し伸べるが、ヨハネは思いきり払った。
「レオが死んだなんて僕は信じない。レオは生きてる!」
(レオは、僕のせいで……)
「生きてるんだ。生きててくれないと、僕は……っ」
半ば混乱するヨハネは、取り乱したまま墓地を飛び出した。
「ヨハネくん!」
「ヨハネさん!」
アンデレは直ぐ様追い掛けた。ヨハネは、夕暮れの住宅街を全速力で走り抜ける。
「待ってください、ヨハネさん!」
「あっ!」
だが。歩くにもふらついていたヨハネは、足を縺れさせて転倒した。
「ヨハネさん!」
もう心配で、見ているだけでは落ち着かないアンデレは、手を貸そうと駆け寄ろうとした。その時。
(信じない)
まるで風に乗ってくるようにヨハネの声が聞こえてきて、足を止めた。
「これは……」
(レオが死んだ? そんなの嘘だ。みんな、僕に嘘をついてるんだ。レオが死ぬわけない。そんなの信じない)
(ヨハネさんの、心の声だ)
(まだ、別れたままなんだ。だからまた、いつもみたいに仲直りしなきゃ。また、何もなかったみたいにやり直さなきゃ)
ヨハネの心の声はアンデレの耳に入り、言葉に含まれた悲しみや痛みと一緒に心に届いていく。そして、虚しさと切なさが広がっていく。
「ヨハネさん……」
(こんなに探してるのに、何で会えないの? ケンカしたから、僕に意地悪してるの? 僕のせいで死んだって、責めてるの?)
ヨハネはふらりと立ち上がり、また覚束ない足取りでとぼとぼと歩き出した。
「どこにいるの、レオ」
(どこに行ったら会えるの?)
逆光で木々の影が掛かり暗くなり始めたその先に、正しい帰り道があるのかはわからない。
「…………」
トラウマを抱えたヨハネの気持ちを初めて知ったアンデレは、その背中を追い掛けられず立ち尽くす。山並みの向こうに去って行く落日が、丁字路に立つアンデレを照らし、長い影を作る。
また追い掛けるべきなのはわかっている。一人にしてはいけないことも。でも今は、頭の中の言葉が纏まらない。
進むか否かを迷っていると、初夏なのに真冬のような凍えそうな風が吹いた。
「寒っ!」
突然の寒風に驚いたアンデレは思わず目を閉じ、肩を竦め、両腕を抱えて身震いする。
「何で冷たい風が! 季節狂ってるだろ!」
と、自然に文句を言って目を開けると、またもや場所が変わった。
今度は、真冬の街中の橋の上だ。まだ暗い空には孤月が浮かび、東の空の方では、これから太陽が目覚めようとしている。
吐く息は真っ白く、橋には雪も積もっている。寒さで身体をガクガクさせ、少しでも暖かくなれと両腕を擦りながら、アンデレは目を凝らして周囲の風景を観察する。
「ここは、おれも知ってる。あの熊の橋だ」
アンデレがいる場所は、ベツィールフ州のシュプレー川に掛かる、熊のモニュメントがある橋だった。
「ていうか。何でこんな寒いんだよ! 気候もリアルだって聞いてたけど、こんな厳密に再現しなくてもよくないか!? もう一枚服ほしいっ!」
アンデレは、堪らず足踏みをする。
現実の世界も冬なのでダウンジャケットを着ているが、この世界では二月頃だ。十二月と二月では平均の最低気温の差はほぼないが、この日は記録的な気温低下となっていた。
「そうだ。ヨハネさんは!?」
まだ夜明け前の橋の上を、足踏みしながらぐるりと探す。すると、街頭に照らされて橋の欄干に立つヨハネを見つけた。マフラーは巻いているがコートやダウンジャケットは羽織っておらず、寒そうな格好だ。
「何であんなとこに……」
その顔は、相変わらず生気がなかった。頭上から明かりが落ちて前髪で影ができているせいか、より抑鬱しているように見える。目も虚ろで、じっと川面を見詰めている。
その姿を見たアンデレは、今すぐ止めなければ危険だと察した。
「そこを動かないでくださいよ、ヨハネさん! 今行きますから!」
ヨハネが間違いを犯す前に助けるために、雪道を走り出した。しかし。
「駄目だよ」
「ぐっ!?」
黒い円盤の刃が太腿を斬り付け、ガクッと片膝を突いた。静観を決め込んでいた惨苦のトマスが、自らの意思でアンデレの足止めに出て来た。
「此処からが良い所なんだから、マティアの邪魔しちゃいけないんだよ」
愉しみを見つけたトマスは、ニタリと笑みを浮かべる。
アンデレは〈護済〉を具現化させ、戦闘態勢を取る。
「邪魔しようとしてるのはどっちだよ」
「其の武器で、何するつもりなの? 其れって確か、防御と精神の浄化しか出来ないんだよね」
「“しか”って何だよ、“しか”って! 守ることだって大事なんだからな!」
「でもさぁ。防御ばかりじゃ真面に戦えないよ? て言うか。おれが詰まんないんだけど」
トマスは、自身から黒い円盤を大量に作り出した。刃を備えた円盤は、真冬の冷気を切ってシュンシュンと音を立てて回転する。
「取り敢えず。君の防御を破る所から始めるよ」




