88話 ヴィーダー・バイ・ディア7─儀式の始まり─
ハーロルトが目を開けると、そこは光に溢れた世界だった。
並んで小物や軽食を売っている、三角屋根の木造の小屋。リボンが掛かったプレゼントの箱や、天の川のように装飾されたイルミネーション。天の川の向こう側に見える、新教会堂の海のような穏やかな明かり。小さな可愛らしい観覧車に、メリーゴーラウンド。そして、瞬く星を纏った大きなクリスマスツリー。
「クリスマスマーケット……? いつの間にこんなところに……」
ペトロを追い掛けて来たはずが、なぜか時間も場所も変わっていることに戸惑い、ハーロルトは会場を見回す。
(これは夢? 僕は、死徒の棺に囚われなかったのか?)
「でも。夢にしては、やけにリアルだ。空気や匂いや音が、本物っぽい」
ホットチョコや、甘いアーモンドのゲブランテ・マンデルン匂いが鼻を通り、少し離れたところのステージからは、アコースティックギターの演奏と歌声も聴こえて来る。
(そう言えば。死徒の棺の中で見るトラウマは、現実のようにリアルだって言ってたな)
「ということは……」
これがペトロのトラウマの世界であることに気付き始めた、その時。グラスの器に入った蝋燭を大事そうに手にする人々が、ハーロルトの前を通った。年齢と性別がバラバラの彼らは一様に神妙な面持ちで、どこかへ向かっていた。
「みんな蝋燭を持ってる。何かのイベント?」
火が付いた蝋燭を持って歩く様子は、神聖な儀式の始まりを予感させた。自分の地元では催されていないが、ベツィールフ州ではクリスマスマーケットで特別な行事を行っているのかと思い、ハーロルトは何気なく付いて行った。
蝋燭を持った人々は、メリーゴーラウンドの前に集まっていた。子供向けの遊具の前で何があるのだろうと、ハーロルトは群がる人々のあいだから前方を覗いた。
「……あっ! ペトロくん!?」
子供用のメリーゴーラウンドの馬に、ペトロが跨っているのが見えた。
(やっぱりここは、ペトロくんのトラウマの世界なんだ)
「でも。何でこんな奇妙な状況なんだ」
過去に再現されたトラウマと違いがあることは、ハーロルトはもちろんわからない。なので、これから何が始まるのかさえ知らない彼は、蝋燭を持つ人々に紛れて様子を窺った。
メリーゴーラウンドの馬に跨るペトロは、困惑していた。
(何なんだ、この状況。オレのトラウマが再現されてるのは間違いないけど、今までと違う。何でオレが、メリーゴーラウンドに乗ってるんだ。しかも、降りたくても降りれない!)
腰を持ち上げたり捻ったりしているが、馬と身体が強力な接着剤でくっ付いているかのように離れない。
ペトロはあの日、メリーゴーラウンドには乗っていない。しかも、メリーゴーラウンドに乗っているはずの双子のきょうだいは、母親と一緒に馬に跨っているペトロを外から眺めている。そして、蝋燭を持って集まった人々。
以前とは全く違う再現。ペトロは、一つの答えが出されようとしていると予感する。
脱出に梃子摺っていると、双子のリリーとトビアス、母親のアガーテが口を開いた。
「お兄ちゃん。まだそんなことろにいるの?」
「ぼくたち、もう降りたよ。兄ちゃんも早く降りて、こっちに来なよ」
「私たち、ずっと待ってるのよ。まさか、降りられないの?」
アガーテがそう言うと、リリーとトビアスは「えーっ!」と不満の声を揃える。
「ずっと降りないなんてずるいよ! 楽しいことはみんなで一緒に楽しもうって、お兄ちゃんいつも言ってるのに!」
「そうだよ! 兄ちゃんばっかり楽しんで、ぼくたちのこと放っとかないでよ!」
「そういうわけじゃ……」
「そっちは、降りたくなくなるくらい楽しいものね。ペトロが楽しんでるなら、それはそれで嬉しいのよ。……でもね」
アガーテは穏やかな笑顔だったが、ガラリと表情が変わり、ペトロを睨み付けるように見つめる。
「でも。もうそろそろ、あなたは自覚しないといけないわ」
「自覚?」
「罪の意識で自分の心を縛って、自ら償いの道を選んでいるのは、とてもいいことよ。でも、それでは足りないの。それは、あなたの自己満足に過ぎないわ」
「それは……わかってる。この程度でみんながオレを赦してくれるなんて、本気で思ってるわけじゃない……。でも」
ペトロは気持ちを伝えようとするが、自分の意思に沿わない言葉には聞く耳を持たないアガーテはわざと遮った。
「あら。わかってるじゃないの。あなたは賢い子ね。大学行かなかったのも裏切られたって思ったけど、それはもう赦してあげるわ」
彼女は機嫌よく青い目を細め、口角を上げる。しかし、慈悲などオブラートに過ぎず、目の奥には深い深いトンネルが続いている。
ペトロが感じた予感は、トンネルの奥からひたひたと近付いて来ていた。
「聞いて、母さん。トビアスとリリーも」
「なぁに? あまり時間がないのよ?」
「お願い。最後だと思って、聞いてほしいんだ」
ペトロは、自分を導こうとする家族との対話を、もう一度正面から試みた。周りに集まった人々は、微動だにしないまま静観していた。
「オレは、みんなを見殺しにした。怯えて、諦めて逃げた。家族の命から目を逸らしたことは、オレが生涯背負い続ける罪だ。でもみんなは、そう言ってオレが生き続けるのが赦せないんだよな」
「そうよ」
「それもわかってるよ。だから、みんなの気持ちを汲み取りたいって思う。それでみんなが納得して、オレがそっちへ行くのを喜んでくれるなら」
「お兄ちゃんもこっちに来てくれるなら、すごく嬉しい!」
「ぼくも! もっと一緒に遊べるし、ずっと一緒にいたい!」
遊びたい盛りの六歳のきょうだいは、純粋に見える喜び方でペトロを誘き寄せようとする。幻覚だとわかっていても、無邪気に喜ぶ妹と弟がペトロはかわいいと思う。
「オレも、みんなともっと一緒にいたいと思うよ。それを選ぶだけで、みんなは嬉しいんだもんな」
「私も嬉しいわ。ずっと続くはずだったのに止まってしまった家族の時間が、また始まるんだもの。それは、この上ない幸せよ」
「オレも、幸せだった時間を取り戻したい。みんなと笑って、楽しい日々を過ごしたい」
「それなら、こっちへいらっしゃい」
嘘の微笑みを被るアガーテは、しなやかな指をした白い手を出した。その手を取れば、幻想の中で家族との幸せな時間が再開できる。
しかしペトロは、首を横に振った。
「どうして? 私たちの気持ちは、同じなのよ?」
「今のオレが一人なら、そっちへ行くことを迷わず選んでた。でも。みんなへの未練があるのと同じように、簡単に行けない理由があるんだ。こんな理由が通るとは思わない。だけど……」
すると、その言葉を聞いたアガーテは、人形のように真顔になって言う。
「何言ってるの、ペトロ。あなたは一人じゃない」
「えっ……」
「あなたは、一人なのよ。自分で選んだことなのに、忘れてしまったの?」
「忘れたんじゃなくて……」
少し前なら、自分は“一人”だとペトロは認めていた。けれど今は、“一人”ではないと認めている。だがアガーテは、優しく言い聞かせるように、以前のペトロの概念を刷り込もうとする。
「どうやら、何か思い違いをしているようね……。ペトロ。あなたは一人なの。それが、あなたが望んだ生き方。身を置く環境が変わっても、誰が周りにいても、孤独を選んだのだから、他の生き方なんて選べないのよ。人生がよくなるなんて期待してもダメ。あなたが密かに望む生き方は、赦されない生き方なの」
「そうかもしれないけど。オレは……」
「家族の命を蔑ろにして、大好きなんて言葉が欺瞞だったことが露顕されたのよ。そんなあなたが、何を手に入れようと考えているの」
「違うよ。オレは、今さらもう……!」
誤解を解きたいペトロは、近付いてちゃんと話したかった。しかし、懸命に身体を動かすが、どうしても馬から離れられない。
(くそっ! 何で離れないんだ!)
「私たちの代わりに、別の人に存在価値を見出すなんて。あなたにとって私たちの本当の存在価値なんて、すぐに捨てられるゴミ程度だったのね」
「何言ってるんだよ! 母さんたちを、ゴミだなんて思ってるわけないだろ!」
「だから、一人で生きることにも抵抗がなかった。私たちなんて、あなたの人生において大して必要じゃなかったから。強くなろうとしたのは、私たちを忘れ去って新しい幸せを手に入れるためだったのね」
「違うよ! オレの話を聞いて!」
(こんなに離れてちゃ、まともに話なんて……!)
ペトロは、洋服が破けようが皮膚が剥がれようが、メリーゴーラウンドから降りてちゃんと目を見て話したかった。言葉が届かなくても。気持ちが伝わらなくても。この世界に閉じ込められるとしても。
けれど。対話の時間は、突然終わってしまう。
「もうダメよ。時間切れだわ。私たちを見放した分際で、幸せになれる新しい存在を期待して求めるなんて。ペトロはそんな子だったのね。それじゃあ、断罪されても仕方がないわね」
「母さん!」
まだ対話の余地があると信じるペトロだが、けたたましいクラクションの音が耳を劈いた。振り向くと、大型トラックが小屋を破壊して、クリスマスマーケット会場に突っ込んで来た。
「!?」
トラウマの世界の出来事が唐突に正しく修正され、ペトロの身に危機が迫る。
ペトロの記憶に忠実に、トラックはメリーゴーラウンドの横のクリスマスピラミッドに衝突、自爆して黒煙と炎を上げた。ペトロは爆発の熱波を浴び、飛び散ったトラックの破片が馬や柱に当たった。
予測不能の事件が勃発し、ハーロルトはその衝撃に肝を潰す。トラックの荷台部分の破片などが飛んで来て、身を守ろうと身体を低くした。
だが。周りの人々は、直立不動だった。それどころか、メリーゴーラウンドに注ぐ視線すら動かさなかった。
(ヤバい……!)
焦眉の事態に、ペトロは狼狽して脱出しようとする。
「くそっ!」
(早く! 早くっ!)
だが、どんなに激しく足掻いても馬から離れることができない。
その間に、炎に包まれたクリスマスピラミッドの支柱が折れ始め、ミシミシと嫌な音が聞こえ始める。ペトロは足を掴んで剥がそうとしたり、馬の首を思い切り何度も叩いて壊そうと試みるが、何をしてもびくともしない。
そうこうしているうちに、炎のクリスマスピラミッドはメリーゴーラウンドの方に傾き始める。危険な事件現場に二の足を踏んでいたハーロルトだったが、一刻を争う状況に焦燥し始める。
「ペトロくん! 早く逃げて!」
(もしかして、逃げられなくなってる!?)
ペトロが、降りられずに焦っているのを見ていられなくなったハーロルトは、助けに行くために前進しようとする。
「すみません、通してください!」
しかし。ハーロルトを近付けまいとするように、人々は鉄壁のごとく動かない。
「通してください! ペトロくんが……!」
(何で誰も助けに行かないんだ! 全然動かないし!)
ハーロルトは前の人の肩を掴み懸命に退かそうとするが、力一杯入れても全く動かない。
その時だった。クリスマスピラミッドがバキバキッ! と大きな音を立て、隣のメリーゴーラウンドに倒れ始めた。
「!!」
そして、ハーロルトが駆け出す暇もなく、纏う炎と黒煙を靡かせて倒れ、一瞬でメリーゴーラウンドを屋根ごと押し潰した。装飾の電球が火花を散らし、メリーゴーラウンドは沈黙した。
ハーロルトは息を呑み、真っ青になる。
「ペトロくん……っ!!」
あれではもう助からないと、絶望した。
けれど。諦めようとはせず、奇跡が起きることを信じてまた人を掻き分けようとした。
(今ならまだ間に合う! まだ……。きっと……!)
「くそっ。退けよ!」
自分も炎に襲われようが、一縷の望みに懸けて救い出そうと足掻きに足掻く。
「必死だな」
「っ!」
突然、背後から威圧感を漂わせ現れた声に、ハーロルトは行動を止められた。ゆっくり振り向くと、裾が破けた夜のような真っ黒な軍服を着た怨嗟のマタイがいた。
「人命救助か。それとも、クアラデム家の血が騒ぐのか?」
「そんなんじゃ……」
一度目の遭遇に比べればかわいいものだが、マタイが漏出させる気迫は、この世に存在するどの危険分子よりも恐怖を植え付けるものには変わりなく、ハーロルトは怖気で脂汗を流す。
「だが。お前は干渉出来ない。未だ無能の唯の人間は、此の世界では空気も同然だ」
「でも、助けるのは自由だろ」
以前とは違う自分を証明するために勇気を持って歯向かってみたが、暗紅色の瞳に鋭く睨まれ蔑視される。
「助ける? お前が、誰を? 何を救う?」
「力がない僕には、できないって言うのか」
本能が遁走を許しているが、ハーロルトは歯を食いしばり、震える手を握り締めて根性の根を張る。
「力が有ろうが無かろうが、お前には不可能だ」
「それでもだ。クアラデム家の血なんて関係ない。助けたいと思って行動するのは、人間として当然だ」
「一般論を其の口が言うか。諧謔か。それとも。オレを馬鹿にしているのか」
「僕は至って真面目だ」
こめかみから脂汗を垂れ流し、格好悪くても逃げまいと意地を見せる。
「ハハハハハッ!」
だが、マタイから哄笑を返された。
「そうか。真面目か……。ならば。お前に相応しい場所を用意してやる」
「僕に相応しい場所?」
「お前が向き合うべき過去と、相対できる場所だ」
マタイがそう言った次の瞬間、ハーロルトは彼の影に攫われ、忽然と消えた。




