(3)
果たして、あの男は日を置かずに湖沼へと現れた。今このときも夜であった。山中は私有地であるから、ひと目を忍ぶとなると自然夜中に訪れることになるのだろう。
ヌシはなにやら男にのっぴきならない事情があると知ってはいるものの、それはそれ、これはこれというやつで、男が――意図せずとも――私有地を荒らしているのは事実。
ヌシはいっそ男を呪ってやりたいところだったが、それは沼神が望まないことだろう。沼神の世話を受けたせいか、ヌシには神通力めいたものを使えたが、それが沼神由来だと思えばなお沼神の意にそまぬことは出来まい。
男は山を登り湖沼のほとりへとたどり着くと、スマートフォンのライトを消した。月明かりのみが湖畔の水面を照らす。
「――おミヨ! おミヨ、いるんだろう!?」
男の悲痛な声が湖沼に響き渡った。ヌシは水面から顔を出して男を見たが、男はヌシには気づいていないようだ。
「約束通り会いに来たぞ! おミヨ、どうか姿を見せてくれ……!」
騒がしかった虫の鳴き声が、一瞬止む。
ほとりにある祠から、沼神が水面に浮き上がるあぶくのように現れた。
男の顔が明るくなる。
しかし、沼神の顔は晴れやかとは言い難かった。
ヌシは――もし男が沼神を泣かせるようなことがあれば、男を呪ってやるつもりだった。いや、その身を呑み込んでしまってもいいとすら思った。
「ああ、おミヨ……その姿は変わっていないんだな」
「あなた様は……」
「すまない! おミヨ。おれはお前を守れなかった……人柱として、贄として捧げられることになったお前と駆け落ちしようとして……おれは失敗してしまった。お前は……ここにいるということは……お前は」
男の頬は、月明かりを反射しててらてらと輝いていた。泣き濡れているのだ。すぐに鼻をすするかすかな音が聞こえた。
そんな男を見て、沼神はしかし緩慢に首を左右に振った。
「タスケ、あたしはおミヨではない。あたしはこの湖沼の神じゃ」
「な、なにを言っているんだ、おミヨ! その姿、声、まさしくおミヨそのものじゃないか――」
「よく見るのじゃ、タスケ」
「見ている! お前は、お前はおミヨだ! どうしてだ? お前を守れなかったから、お、おれに愛想を尽かして……」
沼神から「タスケ」と呼ばれた男は、今にも沼神にすがらんばかりであったが、湖沼がふたりのあいだに横たわっているために、それは叶わなかった。
しかしタスケは一歩、湖沼へ足を踏み入れようとする。水に濡れようが、泥に取られようが、足が汚れようが、タスケにはきっと些細なことなのだろう。
ヌシは、不思議なことにタスケの胸中を想像して、切ない気持ちになった。つい先ほどまで敵意たっぷりに見ていた男の、必死で切実な様子を見ているうちに去来した感情は、ヌシにも覚えがあったからだ。
……しかし、タスケが湖沼へ進む前に、近くの藪が大いに揺れた。
同時に、なにかが勢いよく飛び出す。
「この、節穴―――!!!」
藪から飛び出したそれは、そのままタスケに突進して、彼の体を押し倒した。
「『よく見ろ』って言ってんだろうこのスットコドッコイ!」
怒り心頭、目を三角に吊り上げてタスケを見下ろしているのは、澪子だった。
ヌシはよもや藪に澪子が潜んでいたとは思いもよらず、呆気に取られた。タスケも、ぽかんと間抜けに口を開け、袖やら背中やらを土まみれにして澪子を見上げていた。
「確かに! 今のタマはわたしにそっくりだけど! そこはわたしじゃないって見抜くところでしょーが!!!」
「え? ええ……? ――! ま、まさかあなたが……?!」
「まさかもクソもないんだわ! 気づくのが遅いっ!」
憤怒の表情を見せる澪子に馬乗りにされたまま、タスケは上半身を跳ね上げて澪子に抱き着いた。
「おミヨ! やっぱりお前も生まれ変わっていたんだな……!」
再び、タスケの声に涙がにじむ。
「……バカ!」
澪子も口では悪態をついていたが、そのまなじりには涙が光っていた。
置いてけぼりのヌシは、鯉らしい大きな口を開いているよりほかなかった。




