(2)
その夜、湖沼にやって来たのも若い男たちであった。スマートフォンのライトで、外灯なんぞなく月明かりが照らしているくらいの、すっかり闇で覆われた山中を無遠慮に照らし出しながら、騒々しく湖沼にやって来た。
ヌシは憤慨して、この若い男たちを脅しつけてやろうと、湖底から水面へと顔を出す。
突然、水面が波打ち現れた巨大な鯉の、大きな口を見て、男たちの騒々しさは二倍三倍となる。
スマートフォンのライトが水面へ向けられる。
光と真っ向から対面するヌシからは、男たちの顔は見えなかった。
しかし――
「お――おミヨ!?」
騒ぎ立てる男たちの中で、驚愕に満ちた声を出した者がいた。
はじめ、ヌシはその男がなんと言ったのかすら明確には理解できなかった。
しかしヌシは己のすぐうしろに沼神がいることに気づき、今度はヌシがおどろいた。
おどろくと同時に、気づいてしまった。
沼神の猫のような釣り目の端が緩んで、真っ黒な瞳が男のひとりを見つめていることに。
……ずっと、沼神ばかり見ていたから、ヌシはその些細すぎる変化にも、気づいてしまった。
「お、おい、だれか来るぞ」
「やべえ、逃げようぜ」
「え? ま――」
「なにやってんだよダイチ! 見つかったらさすがにやべえって」
男たちは山の麓に停まった、バンタイプの自動車のライトの、煌々とした明かりに気づいてにわかにあわてだす。そのうちのひとり――沼神と見つめ合っていた男だけは少し抵抗したが、他の男に腕を引っ張られ、渋々湖沼をあとにした。
自動車が停まったのとは反対側の獣道へと男たちは来たときと同じく、騒々しい足音を立てて走り去る。
入れ違いに、湖沼に現れたのは山の管理者たる澪子だった。
「近所のひとがまたバカ大学生が入って行ったって教えてくれてね。注意するために来たんだけど……遅かったか」
月明かりが、静かに波打つ水面に反射し、淡く輝く中、ヌシの心中は凪とはほど遠く、荒れ狂っていた。
澪子はやれやれとばかりに肩をすくめて深いため息をつき、結局大学生たちを追ったりはしなかった。
「のう澪子、頼みがあるんじゃが……」
「ええ? どうしたの。珍しい」
いつになく思いつめた様子の沼神を、ヌシは見ていられず、澪子たちを置いて無言のままに湖底へと潜った。
その後、沼神と澪子とのあいだで、どのような会話がなされたのかはわからない。
だが想像することはできる。きっと、沼神と見つめ合っていた、あの若い男のひとりとまた会えないかとか、恐らくはそんなところだろう。
ヌシはじりじりと心臓の底から焼け焦げて行くような気持ちになった。
沼神の顔はたくさん知っている。ぱっと明るい笑顔、いたずらっぽい微笑、少女のようでいて婀娜っぽい横顔――それから、どこか翳のある顔……。
ヌシは、沼神がときおり思い詰めた様子で暗い顔をしていることも知っていた。
それがもし、あの今日やって来た若い男がさせていたのだと思うと、憤懣やるかたない。
沼神を置いて今の今まで行方知れずで、私有地の山に勝手に踏み入ってくるような男の、どこがいいのやら。
ヌシの中に湧き立った、むかむかとした苛立ちは一向に収まることがなく、ヌシはついに沼神に言ってしまった。
「仕方ないんじゃ。別れたくて別れたわけではないからのう。でも、向こうから来てくれたということは、あやつは約束を忘れていなかったということじゃ。あたしには、それだけでじゅうぶんなんじゃよ」
沼神は深くは事情を語りはしなかったものの、どうもあの男とは無理に引き裂かれたかのような口ぶりであった。
ヌシは、そう言われてしまうとなにも反論が出来ない。
沼神を一度は置いて行くような男だ。そんな甲斐性のない男はやめておけ――。
そんな言葉がヌシの口をついて出そうになったが、沼神の恋焦がれるかのような、切ない横顔を見ると、結局はなにも言えずじまいになる。
「のう、ヌシや。そなた、証人になってはくれんか? ヌシは鯉じゃがそこらの人間よりもよほど信が置ける。……きっと近いうちにあやつはまたここに来る。そのときに、あたしらのことを見届けて欲しいのじゃ」
ヌシは、いつになくしおらしく頼みごとをして来る沼神の言葉を、突っぱねることが出来なかった。




