(1)
――今宵もこの沼に不届き者がやってくる。だがちょいと脅しかけてやると、びっくりして逃げ出すのだ。気骨のない連中め。
山中にある湖沼のヌシたる、巨大な鯉は、人間であれば呆れ返って荒い鼻息でも漏らさんばかり。
夜も更けた丑三つ時。騒々しく山に侵入して来たのは、麓にある私立大学の学生であった。
迷惑なことに、その大学ではこの山は定番の心霊スポットなのだと、山を管理している澪子はため息をついていた。
仮に売れたとしても二束三文にしかならないような山林ではある。しかし山は山。諸々の事情もあって整備が行き届いているわけではないし、足場も悪い。事故でも起これば寝覚めが悪いと、管理者たる澪子のため息は止まらない。
しかし、この山が心霊スポットだと知れ渡るようになった原因であるヌシにも譲れぬものはある。
発端は、湖沼にやって来たマナーの悪い釣り人を脅しつけてやったことだ。
その釣り人か、あるいは釣り人から話を聞いた人間が、ネットに怪談として顛末を書き込んだ。それを山の麓にある大学生が見つけて、またたく間にこの湖沼付近は心霊スポットとして知る人ぞ知る場所になってしまったのだ。
「ああいっそ入山料でも取ろうかな。それか、心霊スポットツアーとかね」
山の管理を引き受けている澪子は、そんなことをぶつくさと言うが、実現する気がないのはヌシにも丸わかりだった。駆け出しの漫画家である澪子に、そんなことをしている暇な時間は存在しないのだ。
山の様子を確認しに来ただけの澪子は、侵入者が落として帰ったタモ網を回収して麓にある家へと戻って行った。
それとほとんど入れ違いに、ヌシの元へ釣り目の女がやってくる。
「まーた脅しつけてやったのかえ? アンタも飽きないのう」
典雅な平安装束に身を包んだ、猫のような愛嬌のある釣り目の女は、なにを隠そうこの湖沼の神である。ヌシや澪子らからは、「沼神様」と呼ばれている。
きゃらきゃらと鈴を転がすかのような笑い声を上げるその姿は、少女のようでありながらも、どこか婀娜っぽさもある。
「あんたが神様の癖に、なにもしないから」
ヌシが批難がましい視線を送っても、海千山千の沼神が怯むわけもない。沼神は花盛りの娘のような見目であったが、ヌシよりも澪子よりも、ずっと歳上なのだ。
そんな沼神は気まぐれで、夜中には起きていることもあれば寝ていることもある。好きなときに寝て、好きなときに起きる。人間からすれば、非常に怠惰な生活を送っているのであった。
だからヌシはなおさら、この湖沼を己が守らねばと思うのだ。
ヌシのそんな思いを知ってか知らずか、沼神はくすくすと笑って、指先でヌシのヒゲをつついた。
「でもアンタは守ってくれるんじゃろう?」
ヌシの決意なんぞ知らないはずなのに、ヌシがこの湖沼を守ってくれると信じ切っているような言葉からは、やはり少女のような無垢さと、男を掌で転がすような、こなれた婀娜っぽさがない交ぜとなっているように響く。
そんな言葉を聞くたびに、ヌシは心臓の底がくすぐったくなる。
ヌシはその正体がわからないほどに無知でも愚昧でもなかった。
しかしそんな感情を沼神に悟られるのはなんだか恥ずかしかったし、ちっぽけなプライドが許さなかった。
それに――
「……でも、あたしの姿にぴんときた様子の男が来たら、その男は脅しつけたりしないでやってくれね」
沼神は、だれかを待っている。
その「だれか」が、沼神にとってどういう相手であるのかわからないほど、ヌシは馬鹿でも阿呆でもなかった。
じりじりと、今度は心臓の底を弱火で炙られているような気持ちになる。
ヌシがいくら沼神に恋焦がれようが――彼女には、既に心に決めた男がいるのだ。
それがわかりきった状態で、沼神に恋慕の情を告げることの、なんと愚かしいことか。
ヌシは道化になるつもりはなかった。
一方、沼神の頼みに是と答えるのもなんだか癪に障ったので、無言のままに沼底へと潜る。それはいつもの、お定まりの光景だったので、沼神はそれ以上なにも言いはしなかった。それもまた、なんだか小憎らしい態度に見えて、ヌシは煩悶を深めるのだった。
いつぞやの出来事か、記憶が定かではないていどには昔、ヌシはこの湖沼にやって来た。
そのころはただの鯉に過ぎなかったヌシは、体躯が大きくなりすぎて、飼い主たる人間に捨てられてしまったのだ。
急に外へと放り出されたそんなヌシに、いの一番にちょっかいをかけてきたのが沼神だった。
なにが楽しいのやらわからないが、きゃらきゃら、くすくすと笑ってヌシを追いかけ回す。
ヌシはそのころはただの鯉であったので、そんな沼神にすっかり弱って、沼底で息を潜めてメシも食えない有様となった。
そんなヌシを見て、沼神が詫びを入れて来た。木の実を投げ入れたり、ミミズを捕って来たりして、ヌシの機嫌を窺うようになった。
そして沼神は一方的におしゃべりしては、たわむれにヌシのヒゲをつつく。
餌付けをされて懐いたわけではないものの、沼神がしおらしく詫びを入れて、献身的な態度を取ったので、絆された面はある。
そうやって沼神のおしゃべりを聞いているうちに、ヌシは多少人語を解するようになった。
だがそれがよくなかったのか、あるときヌシは沼にやって来た人間に、タモ網で引き揚げられそうになった。
無論、それで大人しくしているようなヌシではない。大いに暴れて逃げ出せたが、鱗は剥がれて息も絶え絶えとなった。
そこへ沼神がやってきて、恐らく神通力のようなものでヌシを癒した。
それからだろうか、ヌシが完全に人語を理解できるようになったのは。
同じく湖沼にいる、巨大な鮒の長は「沼神から与えられた食物を口にしたからだ」「そこから沼神の神気を得たから人語を解するようになったのだ」――などともっともらしく語ったが、真実のほどはわからない。
いずれにせよ、ヌシはぐんぐんとさらに体躯を立派なものにして、いつからかこの湖沼の「ヌシ」と呼ばれるようになり、この湖沼自体も人間から「鯉沼」などと呼ばれるようになった。
澪子がこの湖沼がある山の管理を引き受けるよりも、ずっと前の話だ。
昔は地元の人間がたまに釣りや魚を捕りにやって来るていどであったこの山を取り巻く環境が変わったのは、麓に大学のキャンパスが出来てからである。
肝試しなどと称して私有地を荒らす不逞の輩がぽつぽつと出始めると、仕方なくぐるりと山をフェンスで囲うことになった。
それでも懲りずに侵入してくる者はいて、ヌシはそんな人間に沼神の居所を荒らされるのは我慢がならなかった。
ヌシがちょっと脅しつけてやると、人間たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った。しかしそれでいらぬ興味を持つ人間も出てきてしまった。
山の管理を任されている澪子は、そんな悪循環に頭を悩ませているわけである。
もとが人間ではないヌシには澪子のそんな煩悶は通じず、沼神は沼神で面白がっている始末。
それに、沼神はどこぞのだれか――たったひとりの男を待っている様子もある。
ヌシにはそれが面白くない。
沼神に頼まれたわけではない。不逞の輩を脅しつけるのは、恩返しのため、沼を守るためと、沼神を守るためと、ヌシが勝手にやっていることだ。
けれども、やっぱり、面白くない。
どこでなにをしているかもわからないたったひとりの男を、沼神が焦がれるように待ち望んでいることが、ヌシには面白くない。
――嗚呼、俺は傍にいるのに。
けれども、やっぱり、そんなことは面と向かっては言えない。沼を守る名目で、勝手にやっていることだという自覚がある。ちっぽけなプライドが、邪魔をする。体躯だけがぐんぐんと大きくなって、しかし一方心は幼少のみぎりのように小さい。
沼神は、焦がれる男がいるからなのか、ヌシのそんな煩悶には一向に気づく様子を見せない。
ヌシは沼神を見る。沼神は男を見る。男の居所は定かではない……。まったくもって、不毛であった。
それでもどうしようもできないのが、恋というものなのだった。




