盤上の初対面
雨は止んだ。
だが、空気はまだ湿っている。
まるで街全体が、何かを隠しているみたいだった。
真由が言ったのは、夕食の後だった。
「この前言ってた写真家の話……」
僕はテレビを見ているふりをした。
「うん?」
「一人、いるんだけど。まだ若くて、才能ある人。」
名前は言わない。
でも、僕は知っている。
「紹介してよ。」
僕は自然に笑った。
彼女は一瞬、息を止めた。
それから、頷いた。
三日後。
都内の小さなカフェ。
ガラス越しの光が柔らかい午後。
彼はそこにいた。
高橋涼太。
思っていたより普通だった。
派手でもなく、威圧感もない。
柔らかい目をしている。
ああ、なるほど。
真由が「安心する」と言うタイプだ。
「初めまして。神谷悠人です。」
僕は手を差し出した。
彼は少し緊張しながら握り返す。
「高橋です。今日はありがとうございます。」
その手は温かい。
そして、無防備だった。
会話は穏やかに進んだ。
作品の話。
将来の展望。
資金不足の悩み。
彼は正直だった。
いや、正直すぎた。
スポンサーが減ったこと。
次の展示の資金が足りないこと。
焦り。
全部、僕の前に並べた。
「応援したいですね。」
僕はコーヒーを口に運ぶ。
「若手にチャンスを与えるのが、今の僕の仕事なんです。」
嘘ではない。
ただ、順番が違うだけだ。
彼は少し目を輝かせる。
「本当ですか?」
その瞬間。
僕は確信した。
壊すのは簡単だ。
この男は、信じる。
真由が僕を見ている。
視線が落ち着かない。
罪悪感と期待が混ざっている。
面白い。
本当に、面白い。
「展示、拡大しましょう。」
僕は言った。
「うちがスポンサーに入ります。」
空気が止まる。
涼太は言葉を失う。
真由は、息を呑む。
「でも条件があります。」
二人とも、僕を見る。
「成功させましょう。中途半端は嫌いなんです。」
条件はまだ言わない。
今は、安心させる段階だ。
帰り道、真由が隣を歩く。
「本当に支援するの?」
「うん。」
「どうして?」
僕は少し考えるふりをした。
「君が才能あるって言うなら、信じたい。」
彼女の目が揺れる。
その夜。
彼女は僕を強く抱きしめた。
「ありがとう。」
ありがとう?
何に対して?
僕は彼女の背中を撫でながら、静かに思う。
このゲームは、まだ始まったばかりだ。
彼は、僕に借りを作った。
彼女は、僕に罪悪感を感じている。
どちらも、逃げられない。
僕はもう怒っていない。
怒りは熱い。
だが、復讐は冷たい方が長持ちする。
窓の外を見る。
雨は止んだ。
でも、雲は消えていない。
盤上に、三つの駒が並んだ。
夫。
妻。
そして、恋人。
次に動くのは、僕だ。




