見えない契約
契約書は、ただの紙だ。
だが、そこに書かれた数字と条件は、人の人生を縛る。
それを僕は、誰よりも知っている。
三日後。
会社の会議室。
高橋涼太は少しだけ緊張した顔で座っていた。
スーツがぎこちない。
慣れていないのだろう。
真由も同席している。
彼女は「偶然同じ日に打ち合わせがあった」と言ったが、嘘だ。
僕はそれを指摘しない。
今はまだ、優しい投資家の役割だ。
「こちらが支援条件です。」
理央が資料を配る。
彼女の視線が一瞬だけ僕に向く。
——本当にやるんですか?
目がそう言っている。
僕は微笑む。
もちろん。
条件は甘い。
出資額は想定より多い。
利率は低い。
返済期限も長い。
涼太の目が、何度も数字を追う。
「こんなに……いいんですか?」
「才能に賭けるのは、悪くない投資です。」
僕は椅子にもたれかかる。
ただ一つだけ。
小さな条項がある。
“制作活動に関する最終的な承認権は、出資者側が持つ。”
普通なら気づく。
だが、夢を見ている人間は、細部を読まない。
涼太はページを閉じる。
「ぜひ、お願いします。」
彼は署名した。
ペン先が紙を滑る音が、妙に鮮明に聞こえた。
それは、鎖の音だった。
打ち合わせが終わった後、真由が僕を呼び止める。
「ちょっと話せる?」
廊下の窓際。
彼女の顔は、少し硬い。
「条件、厳しくない?」
「厳しい?」
「承認権って……」
彼女は言葉を探す。
僕は肩をすくめる。
「スポンサーだからね。普通だよ。」
嘘ではない。
ただ、“普通”の範囲が広いだけだ。
彼女は何か言いたげに唇を噛む。
でも、言わない。
彼女はまだ、僕を疑いきれない。
それが一番危険だと、知らない。
夜。
帰宅後、真由は静かだった。
スマートフォンを何度も見ている。
きっと涼太からメッセージが来ている。
“ありがとう。”
“これで未来が開ける。”
そんな言葉だろう。
僕はワインをグラスに注ぐ。
「うまくいきそうだね。」
彼女は顔を上げる。
「……うん。」
目の奥に、迷いがある。
罪悪感か。
それとも、不安か。
どちらでもいい。
どちらも、僕の味方だ。
深夜。
理央からメッセージが来た。
「本当にこの案件、戦略なんですか?」
僕はすぐに返信しない。
少し時間を置く。
それから一言。
「投資は、回収までが仕事だ。」
既読がつく。
それ以上の返信は来ない。
理央は賢い。
彼女は気づいている。
これはビジネスではない。
復讐だ。
ベッドで横になる。
隣で真由が眠っている。
寝息は穏やかだ。
僕は天井を見つめる。
今、彼は安心しているだろう。
成功の未来を想像して。
彼女も、少しだけ救われた気でいるだろう。
だが。
安心は、一番甘い罠だ。
承認権。
制作物の最終決定権。
展示テーマの変更指示。
スポンサーの意向による契約停止。
全部、合法だ。
僕はまだ壊していない。
ただ、握っただけだ。
雨は止んでいる。
でも、地面はまだ濡れている。
足を滑らせるのは、誰だろう。




