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引き金

真由が「少し離れたい」と言ったのは、深夜だった。


雨は降っていない。窓の外には、湿った夜風が流れているだけだった。リビングの照明は落とされ、部屋は柔らかな影に包まれている。その中で、彼女はまっすぐに立っていた。


「このままだと、私たち、壊れる。」


声は小さいが、震えていない。何日も考えた末の言葉だと分かる。


僕はテーブルに置いた書類から目を上げた。


「壊れていないと思ってたのか?」


彼女は一瞬だけ言葉を失う。


「悠人、そういう言い方、やめて。」


「どういう言い方だ?」


「全部知ってるみたいな。」


沈黙が落ちる。


知っている、と断言しない。知らない、とも言わない。その曖昧さが、彼女を追い詰めている。


彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。


「あなた、どこまで知ってるの?」


核心だった。


僕は立ち上がり、彼女との距離を数歩詰める。


「知っていたら、どうする?」


問いに問いで返す。


彼女の瞳が揺れる。恐怖と後悔が入り混じっている。


「お願いだから、はっきりして。」


「はっきりする必要があるのは、僕じゃない。」


その言葉で、彼女の肩がわずかに落ちた。


自覚しているのだ。


罪悪感を。


だが、それを認める勇気はない。


「少し、距離を置きたい。」


彼女はもう一度言う。


「あなたが何を考えているのか分からない。怖いの。」


怖い。


その言葉は、以前よりも重く響いた。


僕はしばらく彼女を見つめ、それから静かに答える。


「好きにすればいい。」


止めない。


責めない。


縋らない。


その無関心が、彼女をさらに動揺させる。


「……止めないの?」


「止める理由があるか?」


彼女の目に、初めて涙が浮かぶ。


怒鳴られる方が楽だったはずだ。怒りは分かりやすい。だが、冷静さは残酷だ。


彼女は小さなバッグを持ち、ドアへ向かう。


「もし、全部知ってるなら……」


振り返らずに言う。


「どうするつもりだったの?」


僕は答えない。


扉が閉まる直前、ようやく口を開く。


「まだ何もしていない。」


それは事実だった。


本当の意味で、まだ何もしていない。


彼女が出て行ってから三十分後、電話が鳴った。


涼太だった。


表示された名前を見た瞬間、胸の奥がわずかに熱を帯びる。


出る。


「あなた、真由に何を言ったんですか。」


敬語だが、怒気が混ざっている。


「何も。」


「彼女、泣いてました。」


沈黙。


「あなた、知ってるんですよね。」


今度は断定だった。


僕は窓の外を見る。曇った空が街灯に照らされている。


「仮に知っていたら?」


「それでも、こんなやり方は——」


「やり方?」


声を少しだけ低くする。


「仕事の話しかしていない。」


「展示のテーマも、プレオープンの挨拶も、全部意味があるでしょう。」


ようやく、彼は恐れ始めている。


だが、まだ怒りの方が強い。


「芸術は現実から生まれると言っただけだ。」


「あなたは現実を弄んでいる。」


その言葉に、わずかな笑みが浮かぶ。


「投資家は、現実を動かす側だ。」


数秒の沈黙。


彼は何かを言いかけて、飲み込んだ。


彼は理解し始めている。資金も、展示も、舞台も、全部こちらが握っていることを。


「これ以上、彼女を巻き込まないでください。」


懇願に近い声だった。


初めてだ。


僕に頼む側に回った。


「君が彼女を守れる立場か?」


電話の向こうで、呼吸が荒くなる。


「……」


言い返せない。


「追加単元を決めた。」


僕は静かに告げる。


「“Document”。実体験を素材にする。」


「やめてください。」


即答だった。


恐怖が滲んでいる。


「やめる理由はない。」


「それは、彼女を晒すことになる。」


「誰が晒す?」


問いは、鋭く。


彼は黙る。


誰が裏切ったのか。


誰が関係を壊したのか。


誰が真実を隠しているのか。


「あなた、狂ってる。」


彼は低く言った。


僕は否定しない。


「ようやく、始まっただけだ。」


電話を切る。


翌朝、正式に社内へ通達を出す。


展示会最終構成に「Document – 現実の断片」を追加。アーティストの個人的体験をベースに再構成することを推奨。


理央が書類を持って入ってくる。


「ここまでやる必要がありますか。」


「ある。」


「これはもう投資じゃない。」


彼女の声は冷静だ。


「そうだな。」


僕は認める。


「これは選別だ。」


「何の。」


「壊れるのは誰か。」


理央は黙り込む。


理解したのだ。


後戻りはない。


夜、部屋は空白のままだった。


真由のいないベッドは、妙に広い。


だが、不思議と寂しさはない。


あるのは静かな高揚。


ようやく、均衡が崩れた。


隠していたものが、表に出始めた。


怒鳴り合いも、暴露も、まだない。


だが引き金は引かれた。


第一章は終わる。


夫婦関係は仮死。


恋人は恐怖を覚え。


僕は初めて、完全に一人になった。


雨はまだ降らない。


だが、嵐は確実に来る。

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