支える者と縛る者
真由が部屋を出てから、三日が過ぎた。
生活は驚くほど整然としていた。朝は決まった時間に起き、決まった時間に会社へ向かい、夜は同じ場所でワインを飲む。変わったのは、音だけだ。キッチンの食器が触れ合う音も、浴室の水音も、夜中に寝返りを打つ気配もない。
空白は、静かに広がる。
だが、その空白は痛みではなかった。
むしろ、集中を研ぎ澄ませる静寂だった。
会社では、展示の最終準備が本格化していた。
涼太の新しい作品が届く。以前よりも明らかに攻撃的だ。カメラは被写体の顔に極端に寄り、目の奥まで光を差し込ませる。構図は安定していないが、感情はむき出しだ。
彼は、自分を削り始めている。
理央が画面を見つめながら言った。
「危ういですね。」
「いい兆候だ。」
「壊れる可能性もあります。」
「壊れる寸前が、一番美しい。」
理央はそれ以上何も言わなかったが、その視線には微妙な揺らぎがあった。
その日の午後、涼太から直接連絡が来た。
「少し相談があります。」
以前よりも言葉が短い。迷いが削ぎ落とされ、代わりに疲労が滲んでいる。
カフェで会うと、彼は一目で分かるほどやつれていた。
「最近、眠れません。」
唐突な告白だった。
「テーマを考えると、頭が止まらない。」
彼は目を伏せる。
「真由さんとも、うまく話せなくなってきました。」
名前を出した瞬間、彼は僕の表情を探る。
僕は変わらない。
「創作は孤独だ。」
そう言うと、彼は苦笑した。
「孤独なのはわかってます。でも……今は怖い。」
初めて、明確な恐怖を口にした。
「展示、規模をさらに拡大する。」
僕は淡々と言う。
「追加予算を出す。チームも補強する。」
彼は顔を上げた。
「なぜ、そこまで?」
「成功させたいからだ。」
嘘ではない。
成功とは、崩壊の完成形でもある。
「僕は、期待に応えられますか。」
その問いは、承認を求める声だった。
「応えられる。だから支えている。」
彼の瞳に、安堵が浮かぶ。
その瞬間、依存が生まれる。
人は、追い詰められたときに差し出された手を忘れない。たとえその手が、自分を崖へ導いていたとしても。
夜、真由から短いメッセージが届く。
「涼太、最近様子が変。」
僕はすぐには返信しない。
しばらく画面を見つめ、やがて一行だけ打つ。
「大事な時期だ。」
既読がつく。
返信はない。
彼女は感じているのだ。涼太が、自分よりも僕の方を見ている瞬間が増えていることを。
支えているのは、彼女ではない。
資金と舞台を与えているのは、僕だ。
彼は創作の相談を僕にする。
不安を僕に打ち明ける。
展示の決定権も、評価も、未来も、僕が握っている。
構造は完成しつつある。
真由が彼に寄りかかれば寄りかかるほど、彼は僕に寄りかかる。
そして彼女は、初めて気づき始める。
自分の居場所が、薄れていることに。
深夜、窓を開けると冷たい空気が流れ込んだ。
遠くで雷が鳴る。
まだ雨は落ちていない。
だが、空は重い。
依存は、ゆっくりと絡みつく蔦のように育つ。
気づいたときには、もう解けない。
第二章は静かに進行している。
叫びも、暴力もない。
だが、均衡は確実に傾いている。
次に崩れるのは、愛か。
それとも、自尊心か。




