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天職、悪の女幹部  作者: 西山ありさ
第二幕
9/16

3



「なんだったんだろ、昨日の」


翌日の放課後、私は学校の図書館で参考書を広げていた。

大学に入学するためにはもちろん学力が必要だ。

バイトと家事以外の時間は、学校の教室か図書館で机にかじりついて勉強していた。

残念ながら、いまの家は静かに勉強できる環境ではなかった。

今年から高校生になった妹がひとり部屋を望んだため、私は部屋から追い出されてクローゼットの中に布団を敷いて寝泊まりするようになった。

不便にはなったが、真冬に家から閉め出されるよりは全然マシだ。

クローゼットの中は暗いし狭いが、電気はつくし、布団にくるまっていれば寒さはしのげる。

あとちょっとの辛抱だよなあ、とぼんやり考えながら、また参考書に目を落とす。


「席、ここいい?」


集中して問題に取り掛かっていると、横から声がかかった。

男の声と、学ランの袖。私と同じ生徒が勉強しに来たんだろう、とすぐに分かった。


「誰も座っていないので、どうぞ」

「ありがとう」


礼を言うと、男子学生は私の隣の席に座って分厚い参考書とノートを広げた。

何気なくそれを覗くと、教科は数Ⅱ、単元は三角関数。

私が今やっているのと同じだ。

偶然かな、この人もここでつまづいてるのかな、とどうでもいい感想を抱いた。


「あのさ」

「え?」


しばらく経って、ふいにまた話しかけられた。

驚いてノートから顔をあげる。

図書館には、私と隣の男のふたりしかいなかった。

というか、こいつは他にもたくさん席があったのにわざわざ私の隣に座ったのか、と気付いた。


「三角関数やってる?」

「……そうだけど」

「公式とか、けっこう複雑だよね。おれも今復習してるんだけど」

「そう」


なんだ、何がしたいんだ、こいつ。

不可解な会話に、警戒しながら相手の出方を探っていると、


「この本、父からもらったんだけど、いい問題多いから」

「え?」

「よかったら、貸してあげるけどどうかな」


と男は私の前に真新しい本を差し出した。

瞬間、カッと体が熱くなった。

私の机の上には、何度もページをめくってよれている教科書と、基礎問題の多い学校指定の問題集。

この高校に入学したら誰もが必須で購入する学習本だ。

ガリ勉っぽいのに、ちゃんとした参考書も持っていなくて可哀想だと思われたのか。

マトモな参考書を買う金がないようだと思われたのか。

――ふざけやがって。

赤の他人に図星を刺されて、頭に血が上る。


「いらない。……もう帰るから」


怒りのまま、ガタッと音を立てて席を立った。

バサバサと乱暴に机上の本をまとめて鞄に突っ込み、早足で図書館を飛び出す。

男子の方には最後まで目を向けなかった。

また何か言われたら、涙がこぼれそうだったから。


――悔しい。

スタスタと通学路を歩きながら、今日はじめて会った男子に憎悪の念を向けた。

そうだ、私は受験生のくせに新しい参考書も買えない貧乏人だ。

でも、他人に哀れまれて施しを受ける筋合いはない。

これまでもひとりで全部乗り越えてきたのだから、そんなものは必要ない。


「……家を出られたら、」


ぽつりと声を漏らす。

高校に入学してから幾度も呟く魔法の言葉。

大丈夫、もうすぐこんなみじめな思いはしなくなる。

もう高三の秋だ、あと半年もしないうちに私の人生は大きく変わる。

きっと普通の人生を、他のみんなと同じように生きていける。

それだけが希望だ、と自分自身を奮い立たせ、ぐいっと目を擦った。



それきり図書館には通わなくなった。

貴重な勉強場所ではあったが、またあの男に出くわすのは避けたかった。

別に避ける必要はないんじゃないか、というのは私にだってわかっていた。

話しかけられたところで無視すればいいことだし、急に攻撃されることもない。

それに、今から思えば、あの男子に悪気があったわけではなかったのかもしれない。

隣の席の奴が同じ単元を勉強しているのを見て、親切心で参考書を貸そうと声をかけたのかもしれない。

だが実のところ、私が怖かったのはそっちの可能性――あれが『ただの善意』だった場合だ。

私は世間一般の十七歳の学生とは、根本的に性質の違う人間だ。

日々を生きていくのに必死すぎて、誰とも深くかかわったことがなく、休み時間の間はいつも一人で勉強しているか本を読んでいる。

決定的に、対人能力に欠けている、コミュ障人間だ。

だから、何の見返りもなく『善意』を振りまかれても、どう受け取っていいのか分からない。

与えられたとて、すぐに奪われることが常だった。

何かをもらってぬか喜びした後で失うくらいなら、最初から何もない方がマシだ。


「まあ家で勉強した方が、時間のロスも少ないし」


なんて誰に言うでもなく呟き、薄暗いクローゼットの中で段ボールの上のノートにシャーペンを走らせる。

今問いているのは古本屋で購入した大学用の赤本。

私立に通う学費はもちろんないので目指すは国立一本だ。

幸い私は学年で上位の方の学力で、模試でもA判定を取っているが、装備(受験用参考書)は心もとなく、気は抜けない。

大学入学共通テストに挑むために5教科7科目をすべてそろえないといけないし、時間はいくらあっても足りない。


「……でも、これからは時間が作れる」


ネックだった貯金については、今月分の給料で目標金額に到達する見込みだった。

年末からしばらくバイトを休み、受験勉強に専念できるようになる。

一歩一歩、着実に家を出る準備が進んできていると思うと、気分が上がる。


「大丈夫、もうちょっとだから」


後のことは、ひとまず無事に大学に受かってから考えたらいい。

穴倉のような狭い空間の中で、私は今日も孤独に闘っていた。


その時まで、私は本気で自分の力だけで家を出て、自由になれると思っていた。

順調にいったことなんか、これまでの人生で一度もなかったくせに。

奪われることが普通だと自覚していたはずなのに。

結局、私はひたすらに真面目で、そして愚かだった。



ピー。


「は?」


無機質なエラー音が鳴った。

画面に表示されたメッセージに目を見開く。

日本語で大きな字で表示されていたのに、書いてある言葉の意味が分からなかった。


「どうされましたか?」


私が呆然と突っ立っていると、郵便局の制服の女性が近付いてきた。


「あ、の……」


私が指さした画面には

『お引き出し可能残高が不足しています』

と書かれていた。


「このATM……壊れてたり、します?」


一縷の望みをかけ、そう質問する。

ドクドクと心臓が高鳴る。血の気が引き、冷や汗が噴き出る。


「お待ちください、少しお調べしますね」


女性は淡々と電光パネルを操作し、すぐに顔を上げた。


「いえ、正常に作動しています。お客様の口座には残高が残っていないので、お引き出しできないようです」

「残高……」

「はい、こちらが現在の残高です」


郵便局員はそう言って、ペコリと頭を下げて去って行った。

――嘘だ。嘘に決まっている。

とびきり酷い悪夢をみているに違いない、と頬をつねってみたが、ちゃんと痛みを感じた。

何回目をこらして確認しても、そこにあるのはただの現実だった。

昨日までゼロが5個並び、6ケタあった数字は今様変わりしていた。

残高、2ケタ。

自分が持っている唯一の口座には、たったの27円しか入っていなかった。



全速力で家まで駆け戻った。

口座から急に金がなくなるなんてことはありえない。

詐欺に遭って金を抜かれた?それか空き巣が入って、誰かが私の通帳を盗んで――?

とにかく通帳を見てみないことには分からない。

逸る気持ちを抑え、バタン!と大きな音を立てて玄関のドアを開けた。


「どうしたの、そんなに急いで帰ってきて」


瞬間、びくっと肩を震わせる。

玄関に立っていたのは、母だった。

高校に上がってからは長時間バイトに出て、家では極力顔を合わせないようにしていた。

こうやって相対したのはひどく久しぶりだった。


「……ちょっと、忘れ物が」

「何?今日は買い物頼んでないけど」

「違う。その、教科書を」


たわいのない会話をするのも緊張する。

十七年同じ家に暮らしているのに、何を言ったら逆鱗に触れるのかいまだにつかめていない。

はやくここから逃げ出したいと、急いでいるフリをして私はスニーカーを脱いだ。


「ちょっと」


が、クローゼットの方に向かおうとすると、彼女はすれ違いざまに肩を掴んできた。


「アンタ、大学受験するんだって?」

「…………。」

「受けるのはやめなさい」

「……え」

「大学なんか行けるわけないでしょ、ウチにそんな金はないし」


今更何を言っているのか、と思った。

学校の三者面談も志望校提出も、共通テストの申し込みももう済ませている。

反対意見は特になく、すでに了承済みのものと思っていたが、何故このタイミングでそんなことを言うのか。


「家のお金は使わない。奨学金と、それと私の貯金で」

「ないでしょ、そんなの」


ニヤニヤと赤い口紅を塗った口が歪む。

彼女の表情、そして台詞にとてつもなく嫌な予感がした。


「ゆうちょって、キャッシュカードなくても通帳があれば金が下ろせんのよ。知らなかった?」


私がアルバイトをはじめたのは13歳からだった。

バイト料の振込先の口座を作る為に、郵便局に手続きに行ったが、当然親権者の同意が必要であり、出金するための暗証番号もあの人には知られていた。

クローゼットに移り住むようになってから鍵付きの引き出しも使えなくなり、仕方なく通帳を箱に入れて奥底に隠しておいたのだが――彼女の発言で最悪の予感は的中した。

漁られ、盗まれ、使われた。

私が高校三年間で貯めたお金が、こんなに簡単に。


「な、んで」


それだけ呟くので精いっぱいだった。

まるで山の上にいるように空気が薄い。喉がカラカラに乾いている。


「あの子に流行りのブランドバッグがほしいって言われたから、ちょっといいのを買ってあげたの。それとついでに腕時計も。ほら、高校の入学祝も買ってあげられてなかったから」


対して、母は悪びれもせずにそう自白した。

汗水たらして働いて貯めてきた金は、妹のカバンと時計に変わった。

……そんな、ことが。


「……何その顔。アタシが悪いっての?ここまで育てた恩を先に返してもらっただけでしょ」


それに、と母は付け加えた。


「卒業したら風俗で働けば?その無駄にいいツラと身体売れば、百万なんてすぐ稼げるでしょ」



どん底まで落とされた気分だった。

いや、鍵もかけず家の中に通帳を残していた私が悪い。

あの人は私を貶めるために何でもしたじゃないか。リスクなんていくらでも想定できたはずだ。

事実として、金は引き出され、使われた。

そして二度と戻ってくることはない。

これから、どうしたらいい。

共通テストの受験費用は先に振り込んだから、試験を受けることはできる。

でもその先は?

共通テストのボーダーを超え、前期試験を受けて、無事に大学を合格したって、入学金が払えなければ入学はできない。

高校生活全部を費やして貯めた学費だった。これからバイトをどれだけ増やしたって、到底足りない。


「…………。」


児童相談所にいくか?

いや、無駄だ。

小学生の時、暴力に耐えかねて通報したら自宅に訪問してきた調査員の人はあの人の外面に騙されて『虐待なんてなかった、子どもの吐いた嘘』と処理されたじゃないか。

もう一回やったら、今度はきっと骨折どころじゃすまない。

教師に助けを求めるか?

いや、三者面談であの人の演技に騙された教師は当てにならない。

『お母さまの受験生への献身的なサポート、素晴らしいです』なんて感動すらしていた。

他に味方になってくれそうな人は?

いや、心当たりはない。

高校生活をバイトと勉強に全振りしていた私には、こんな時に頼れる友人のひとりすらいない。

どうすれば――


「……あれ」


気が付けば、屋上に続く階段を一番上まで上がっていた。

どうしてここに来たんだっけ?

ああそうか、手紙だ。

今朝、靴箱に中に手紙が入れてあって、昼休みに屋上に来るようにって。

だから、無意識のうちにここまで来たんだ。

こんな時まで、なんてクソ真面目なんだ、と自分で自分を嗤いたくなった。


錆びかけたドアノブをひねると、キイと音を立ててドアは開いた。

途端にぶわっと風が吹きこんできて、髪やスカートが揺れる。

――空が、青い。

もう十一月だというのに、今日は季節外れの夏日だった。

空はどこまでも澄んでいて、すがすがしい空気が漂う。

私はぼうっと空を見上げたまま、屋上を歩いた。

ふと、ぐるりと囲われているフェンスのひとつがひしゃげて、大穴があいているのに気付いた。

確か、先日の台風で壊れたとか言っていたっけ。

直す暇がなかったのか、黄色と黒のシマシマのテープが貼られているだけで、簡単にくぐれそうだった。


「…………。」


自然にそちらに足が向いた。

ハチのような色合いのテープをはがして、スリッパでフェンスの上に乗り上げて。

そうすれば、もう私の視界を遮るものは何もなかった。

――ああ、空が青い。

また一歩、青に向かって踏み出す。

生まれてから今まで、正直に、真面目にやってきたつもりだった。

奪われてばかりでも、味方がひとりもいなくても、いつか努力が報われて人並みに普通の生活ができると信じて、歯を食いしばっていたのに。

それなのに、結果はどうだ。

ずっと貯めてきた金を盗まれ、大学に入ることは叶わず、高校卒業後は水商売をすることになるらしい。

つまり、一生あの人の奴隷として生きるってことだ。


それは嫌だ。従えない。

ダメだ、なんだか疲れてしまった。

もう、これで終わりでいい。


「――真面目な人間がバカを見る世界なんて、私にはいらない」


青に手を伸ばし、私はそのまま真っ逆さまに落ちた。




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