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シングルマザーの家庭だった。
父の顔は覚えていない。私が二歳くらいのときに離婚したらしい。
母は私と生まれたばかりの妹を引き取り、それ以来三人暮らし。
狭いアパートの中、母からの虐待は物心ついた頃より始まった。
父によく似た顔の私が気に食わないようで、理由なく殴られたり蹴られたり、食事を抜かれたりした。
反対に妹はとても可愛らしい顔立ちで、洋服や靴やおもちゃを沢山買ってもらえ、大事に育てられていた。
明らかな差別を不平に思うこともあったが、反抗したところで被害が拡大するだけだ。妹を羨ましいと思う気持ちはすぐに押し殺した。
いやむしろ、それどころではなかったというのが実際のところだった。
親の愛情を求めるとか、そういう次元の高いことは考えられず、私は常に最低限の欲求を満たすのに必死だった。
ようするに生理的欲求。
着られる服、飢えない程度の食べ物、雨風をしのげる住処。それと、できれば身の安全。
まあ、最後の項目は『できれば』程度だ。降りかかる暴力は永遠には続かない、耐えていればいずれは止むものだから。
とにかく、衣類を没収されないこと、その日の食べ物を得ること、家を追い出されないこと。
それだけを考えて、息をひそめて生きていたと思う。
幸いにも体は丈夫な方で、何日か飲まず食わずでも、外に締め出されても、大きな病気をすることはなかった。
あの人は早く私にくたばってほしかったかもしれないが、当時の私はずぶとく、生き汚かった。
最優先は『食』だった。
他の項目はともかく、食べ盛りの子どもに飢えはどうしても耐えられない。
なので、小学校の中学年に上がってすぐに、私はあの人にある提案をした。
『これからこの家の食事は全部自分が作る。その代わり、残り物を自分にも食べさせてほしい』と。
このまま与えられるかどうか分からない食事を待つよりも、許可されたおこぼれをもらう方がよほど生存確率が高いと踏んだのだ。
母はもちろん反対した。
子どもにマトモな料理なんかできるものか、そんなことを言って盗み食いするつもりだろう、意地汚いガキ、などなど。
蹲る私の腹や肩を蹴りながら、罵詈雑言を浴びせかけた。
やっぱりダメか、と諦めかけたその時
「そんなに言うなら、今冷蔵庫の残りものを使って何か作ってみな」
かけられた一声に、私はすぐに体を起こした。
冷蔵庫に駆け寄り、ざっと中身を確認して、材料を取り出した。
鍋に水を入れて火にかけ、コンソメスープの素を落とす。鍋の沸騰を待つ間に、中途半端にあまったキャベツやにんじんをまな板の上で食べやすい大きさに切っていく。
次に調味料を入れたボウルに豚の薄切り肉を入れて混ぜ合わせ、薄切りにした玉ねぎと一緒にフライパンで焼いた。
肉に火が通ったら器に盛り、千切ったレタスときゅうりを添える。
スープの方は様々な種類の野菜を投入し、しばらく煮た後に溶き卵を流し込む。
時間にして、二十分もかからなかったと思う。
ダイニングテーブルに生姜焼き、サラダ、野菜のコンソメスープを並べてみせると、あの人はフンと鼻をならし、湯気のたつ皿に手をつけた。そして
「朝昼晩、全部ちゃんとつくること。手を抜いたら家から追い出すからね」
と言って席を立った。
あの人が消えてから、私はへなへなとその場に崩れ落ちた。
どうやら採用となったようだ。学校の図書館に通ってレシピを熟読した甲斐があった、と心底思った。
こうして、私は虐待児から無料の家政婦へと昇格した。
学校以外の時間は常に家のことをやらなければならなくなったが、これまでに比べると待遇は格段によくなったので文句はない。
毎日ひとりぶんの飯にありつけ、風呂に入って清潔を保ち、見た目だけは普通の小学生として登校できるようになった。
あと一番デカかったのが『身の安全』だろうか。
あの人は理不尽だったが、愚かではなかった。私が労働者として利用できると判断した後は、意味のない暴力は激減したのだ。
中学に上がってからは、稼ぎの三割を家に入れることを条件に新聞配達のアルバイトも始め、自分だけのお金も持てるようになった。
これは毎月のおこづかいやお年玉といった収入がない私には大変助かった。
小さくなってきた服や下着、文房具をようやく買い替えることができて、とてもホッとしたのを覚えている。
ようやく人間らしい暮らしが送れるようになったな、と満足していたのだが。
「オンラインゲームやりまくって夜更かししてんの親にバレてさ、めっちゃ怒られたわ」
「最近の推し誰?私は韓国のアイドルで……」
「ね、一緒に動画とろ~!振付簡単ですぐ覚えれるから!」
「今度家族でハワイに行くんだけどさ」
ふとクラスメイトたちを見渡した時、彼らの会話の内容がまるで理解できなくて驚いた。
当たり前のように両親からモノを与えられ、いろんな趣味を持って、毎日楽しく遊んで。
方や、私は家事とアルバイトが生活のすべてだ。
子どもらしい遊びなど一切経験したことのない私とは住んでいる世界が違っていた。
「(やっぱり、私は普通じゃないんだな)」
自分の思う『人間らしい暮らし』など、やはり最低限度に過ぎないんだと、みじめな気分になった。
子どもは親を選べない。生まれ持った環境はどうしても変えられない。
……今は。
「(……私も、いつか家を出られたら)」
学費を貯めて、大学進学を機に家を出よう。
18歳で成人したら、あらゆる契約に親の同意は必要ない。
あの家を出ることができたら、あの人の下から逃げ出すことができたなら、その時はじめて、私はみんなのようにマトモな生活を送れるだろう。
教室のいたるところでワイワイと会話の弾む昼休み、私は静かに決心した。
高校生になると毎日がいっそう忙しくなった。
掃除、洗濯、皿洗い、買い出し等、料理以外にも一切を引き受けるようになっていた家のことはもちろんだが、大半の時間をバイトにつぎ込んだ。
大学に入るためには、まとまった貯金が必要だ。
新聞配達の仕事はやめて学校近くのコンビニで働きはじめ、平日は夜遅くまで、休日は日中のシフトに入った。
遅くまで続く労働にキツいと感じる日もあったが、そこまで苦ではなかった。
ミスをしたって理不尽に殴られたりしないし、一緒に働く同僚や店長はみんないいひとだった。
何より長く働けて金が稼げる。目標金額を目指し、私は無我夢中でバイトに励んだ。
「もうすぐシルバーウィークでしょ、どこかに遊びに行ったりしないの?」
とある日の深夜、品出しをしていると店長が話しかけてきた。
「しませんね」
「ええ~もったいない、花の女子高生なのに。シフトいっぱい入ってくれて、ウチは助かるけどさ」
「じゃあいいじゃないですか。私はお金貯めたいんで」
「はあ~、まったく最近の子は、ドライっていうかクールっていうか。うちの子もぜーんぜん実家に帰ってこないし、連絡のひとつもよこしゃしない」
と店長はブツブツ愚痴りはじめた。
店長はいいひとだが、典型的なオバチャンでおしゃべりだった。
オバチャンのマシンガントークを聞き流しながら、黙々とスナック菓子を補充していると、
「――で、そっちは?最近お母さんとちゃんと喋ってる?」
急なフリに、ポテトチップスを押し込む手が止まる。
「母、ですか?」
「そ。アンタんとこ、母子家庭だったっけ?親ってのはいつまでも子どもの面倒を見られないんだから、普段からの会話が大事なんだよ?うちの子みたいに薄情な性格にならないようにサ」
「……ええと、」
どうリアクションすればいいのか、分からなかった。
会話など私の方から進んであの人に持ち掛けることはない。
少なくとも、ここ数年はゼロ。
何を話そうがあの人は私のすべてが気に食わないのだから、触らない方が無難だ。
「(なんと答えたら……)」
私はもうずっと『普通』ではないから、正解が分からない。
ピロリロピロリロ♪
その時、入り口の自動ドアが開いた。
会話は途切れ、店長と私は同時に中に入ってきた客の方を向いた。
「あ!いらっしゃいませ!店長、私レジいきますね」
よかった、ナイスタイミングだ!と心の中で呟く。
「ああ、そう。よろしく」
という店長の声を背後に聞きながら、私は意気揚々とレジに走った。
従業員コードを打ち込んでいると、ほどなくして客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
窮地を救ってくれた客に、普段よりも弾んだ声が出る。
台に並べられた商品を事務的にレジに通していると、なんだか妙な視線を感じた。
正面の客からだ。ジロジロと顔や体を見られているような気がして落ち着かない。
「八百十八円です」
「ん、千円で」
やっと商品を通し終わって金額を告げると、客は千円札をずいと突き出してきた。
「かしこまりました、百八十二円のお返しとレシートです」
「あ、レシート」
「え?あ、いりませんか?」
「いや」
と言うと、客はレシートの裏にボールペンで何やら書きつけた。
そして
「これ。連絡待ってるから」
とレシートを私の方に突き返して、さっさと退店していった。
私は『は?』と首を傾げて押し付けられたレシートを見ると、そこには電話番号とチャットアプリのIDが書かれていた。
「何、またもらったの?」
とひょいと覗き込んできた店長。私はうんざりと手の中の紙を握りつぶす。
「……はい、そうみたいです」
こういう意味不明なナンパは度々あった。
こっちは特になにもしていない。
不愛想に突っ立ってレジを打っているだけなのに、紙に書いた連絡先を帰り際に渡される。
めげずに何回も渡してくる猛者もいて、物好きな客もいるもんだ、と呆れかえった。
何回渡されたって、電話なんかするわけないのに。通話料金もかかるし。
「アンタ、帰り道とか気を付けなよ。もう外暗いし、後尾けられるかもしれないんだから」
「大丈夫ですよ」
私みたいな野暮ったい、私服がジャージの女など襲われたりするわけがない。
実際に、これまで一度も夜道で危険な目に遭ったことはないし。
店長は心配性すぎるのだ。
「あ、いらっしゃいませ」
連絡先の書かれたレシートを『不要レシート入れ』に突っ込み、いつの間にか並んでいた客に挨拶する。
フードを深くかぶり黒っぽい服を着た男性だった。
この人はこのコンビニの常連のようで結構遭遇するのだが、必要最低限しか話さないし、顔もよく見えない謎の客だ。
男は無言でガムとペットボトル飲料を台に置いた。
「三百五十円です」
「現金で」
「はい……あ!」
男がフードのポケットから取り出した小銭は、つり銭の受け皿を弾いて床に転がった。
慌てて台の下に手を伸ばして小銭を拾い、受け皿の上に置く。
「失礼しました。四百円お預かりしたので、五十円のおつりです」
「どうも」
すっと私の手から金をとった男は、商品を持って自動ドアを抜けた。
「なんか現金払いの客多いな……このキャッシュレスの時代に」
小さな小銭は落としやすい。
それにいちいちおつりを取り出して客に出さないといけないのも手間だ、とぼやきながらレジ前に目を向けると、
「……あれ?」
何故かレシート入れは空になっていた。




