5
―*―
過去一番に緊張する帰宅だ。それは間違いなかった。
一歩歩を進めるたびに心臓が暴れ、背筋に汗が伝う。
だって、私は今から――生まれて初めて母に逆らうのだ。
「大丈夫か?」
後ろをついてくる男子学生が声をかけてきた。
足を止め、ゆっくりと振り向く。
「……そう見える?」
「いや。顔色は真っ青だし、額には汗がにじんでるし、まるで病人みたいだ」
「なら話しかけないで」
再び前を向き、足を動かして家を目指す。
だが、体が鉛のように重い。地球の重力ってこんなに重かったかってくらい。
私のまわりだけ局所的にGがかかってる?
「じゃあさ、こうしよう」
ガチガチに緊張している私を見かねてか、ブラックはまた言葉をかけてくる。
「無事にこれを終えたら、一つ願い事を叶えてあげるよ」
「願い?」
「ああ。なんでもいいよ、おれが出来ることだったら」
という彼の提案に一瞬考えを巡らせる。
が、すぐにやめた。
「……バカね。いらないわよ、そんなもの」
ついにアパートの前まで来た。
ポケットから鍵を取り出し、大きく息を吸って、吐く。
「願いは自分で掴み取るものでしょ」
アンタがそうだったように。
『ジリアン・ルージュ』はそう言うと、鍵を開けてゆっくりとドアを開けた。
「ただいま」
靴を脱いで玄関を上がると、リビングのソファの上に女性が寝転んでいるのが見えた。
つけっぱなしのテレビからは、夕方のニュースが流れている。
私が無言でその様子を見ていると、あの人はむくりと起き上がった。
「何、バイトはどうしたの?」
「……今日はシフト入ってないから」
「ああ、勉強に専念するためだったっけ?でもまた入れてもらった方がいいんじゃない?」
言いながら顔をゆがめ、おかしくてたまらないような表情を作る。
「だってアンタはもう受験なんかできないんだから!」
と女はケタケタ笑った。
私を傷つけるための言葉と、耳障りな笑い声。
昨日は死ぬほど――実際に一回死んだほど――ショックを受けたが、今の私はそれを無言で見返すのみ。
先程までの緊張が嘘のように、心は落ち着いていた。
だって、今の私は『私』ではない。
悪の組織ヴァリアー、その幹部のジリアン・ルージュである。
与えられた台本通りに演じる、それが私の義務で仕事だった。
今回も、ただ仕事を遂行する。それだけ。
「――うるさい口ね」
「は?」
「うるさいって言ってんの、毎回毎回大声出して。近所迷惑だと思わないの?」
ハッと馬鹿にするように嘲笑う。
すると、女はみるみる顔を真っ赤にした。
「ッアンタ!!親に向かって何よ!その口の聞き方は!」
ガバッと立ち上がった彼女は、大きく振りかぶって拳をたたきつけようとしてくる。
いつもなら、そのまま無抵抗で殴られるだけだった。
従順な僕のように頭を垂れて、じっと我慢をしていた。
――だが、今は違う。
「っえ……?ぎゃっ!」
私は体をひねってそれを避け、あの人はよろめいてすっ転んだ。
遅い、と思った。
ブラックの繰り出すパンチの方が三倍は速かった。
スタントをしたことのないオバサンの拳など、余裕で避けられる。
「な、なによアンタ、反抗する気?女手ひとつでアンタを育てた私を!!」
彼女は明らかに動揺した様子で、床にしりもちをついたまま私を睨みつけた。
当然だろう。私はこの人に対して一度だってこんな態度をとったことがなかった。
だが、『ジリアン・ルージュ』は年を重ねた醜い女なんかに怯んだりしない。
「育ててもらった覚えなんかない。母親らしいことなんか一度もしたことがないくせに、私を奴隷みたいにこき使って」
「はぁ!?」
私が冷たい視線を送ると、彼女はさらに激怒した。
「アンタはアタシの所有物なんだから、好きにする権利がある!当然でしょ!?」
「……だから、私の貯金も勝手に使ったわけ?」
「ハッ、昨日も言ったでしょ?あれは可愛いアンタの妹のために有効活用させてもらっただけ。なんで怒られないといけないの?」
「私が大学に行くためにずっと貯めていたお金を?」
「大学なんか行かせない!!うちから逃げるつもりだった?そうはいかないわよ!!アンタは一生うちのために金を稼いで、家政婦のように家事をやって暮らすの!!親に逆らうんじゃないわよっ!!」
「…………。」
「アンタのものは全部アタシのモノよ!!育てた恩返しをしなさいよ!!この役立たずのガキが!!」
キーキーと喚く女に、私はもう何の感情も持っていなかった。
ただ、ムチがないのが本当に残念だ、と。
サンダー・ウィップがあればぶちのめしてやれたのに、こんな地の果てまで自分勝手で無責任な女。
「ほんと、どうしようもない人」
「はあ!?」
――ブラック、確かにアンタの言う通りだった。
天界獣と対峙した時の方がよっぽど大変だった。
何しろ、この女は勝手にベラベラ自分の悪事を話してくれたのだから。
「もうこれ以上アンタには付き合っていられない。私、家を出て行くから」
「な……そんなこと許すわけないでしょ!!」
踵を返して玄関に向かおうとする私に、女は慌てて立ち上がった。
「待ちなさい!!」
と、あの人が私の肩を掴もうとする寸前、私の手を引いて間に割り込んできた男がひとり。
「こんにちは」
「!!」
急に現れた男子学生は、鬼の形相の女に対して挨拶をした。
私の方からは黒い背中しか見えなかったが、にこやかな声からして完璧な営業スマイルを作っているのだろう。
それが証拠に、あの人は相好を崩して、前髪や乱れた服装なんかを直し始めた。
「どうもはじめまして、僕は娘さんの同級生です。何度かインターホンを鳴らしたのですが……気付かれなかったようで」
「あ、あら、そうなんですか。おほほ、すみません、お見苦しいところを」
「いえ、勝手に入った僕が悪いので……それで、用意はできたかい?」
後半の台詞は背中に隠している私に向かって言われた。
私は首を横に振って
「まだ。でも大丈夫、元々持っていくものあまりないし」
「そう?まあ君がそう言うなら」
「……あの、何のお話です?うちの子が何か」
「はい。今日から僕の家で暮らしてもらうので、彼女の荷物を取りにきたんです」
「は?」
瞬間、あの人は目を吊り上げた。
しかし男子は特に何の反応もせず、どころかさらに笑みを深くたたえて台詞を紡ぐ。
「貴女に大事に貯めてきた受験費用を盗まれ、ブランドバッグを買われたと。もうこの家から出たいという彼女を助けたいと思いまして」
「なっ、そ、そんなこと、デタラメですわ!」
「ああ、そちらがそのブランドバッグですか?ちょっと失礼」
「あ!ちょっと!」
廊下の隅にブランドロゴ入りの大きなショッパーがあるのを見つけた彼は、家主の制止も聞かずに無遠慮に中身を確認した。
中には私でも知っている有名ブランドのロゴが刻まれたハンドバッグがふたつ、そして。
「ご丁寧にレシートも残していただいてありがとうございます。証拠としていただきますね」
「しょ、証拠?一体なんの……」
「もちろん、貴女の虐待の証拠です」
男は紳士的な態度のまま、容赦のない台詞を吐いた。
そして、驚きに固まる女の前にすっとスマホの画面を見せつけた。
「先ほどの貴女と娘さんの動画を撮らせていただきました。暴力を振るおうとしたシーンや、娘さんの大学受験を阻止するために、彼女のお金を勝手に使ってこちらを購入されたこと等」
「な……」
「ここまでハッキリとした証拠があれば、立件は可能かなと思います」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!り、立件って」
「はい、訴訟を起こします。もちろん」
たちまちに女の顔色が悪くなる。
そして、最早外面もつくろわずに男子学生に食って掛かった。
「な、なによ!!アタシは何も悪くないわよ!!」
「それを判断するのは警察と裁判所です。ですが、罪は逃れられないと思ってもらえれば」
「はぁ!?」
「貴女がないがしろにしてきた娘さんを、僕はとても大切に思っていまして。……それこそ、死ぬほど」
『死ぬほど』を強調したブラックは、明確な怒りを醸しながら一歩前に進み、
「――おれはお前を許さない。今後、二度と彼女に近付けさせはしない」
と吐き捨てた。
「では、近いうちに弁護士を通して連絡いたしますので、その時はどうぞよろしくお願いします」
最後にそう締めた男は、顔面蒼白になっている女を残し、ガチャンと扉を閉めた。
実家を飛び出した後、ブラックと近くの公園に入りベンチに腰を下ろした。
すっかり日が暮れて薄闇をまとう時間帯だからか、辺りに人気はない。
「お疲れ、『ジリアン』。大成功だ」
学ランの少年はそう言って水のペットボトルを手渡してきた。
私はそれを無言で受け取り、俯いてスニーカーを履いた足と地面を眺めた。
地に足はしっかりついている。
なのに、まるで数センチ浮いているような、おぼつかない心地。
まさか、私が母に向かってあんなことができるなんて、夢にも思わなかった。
「おれの出る幕はなかったな。惚れ惚れする演技だったよ」
「……実は、演技じゃなかったのかも」
「そうなのか?」
「うん、長年ずっと言いたかったことがそのまま出た感じで……でも、普段の『私』では到底口に出せなかったと思う。あの時は自分が『ジリアン』を演じていると思い込んでいたから、不思議と怖くなかった」
「そっか」
彼はベンチにもたれ、少し考えた後
「だとしたら、それは君が真面目に『ジリアン・ルージュ』を演ってきたおかげじゃないかな。君の努力があったから恐怖に打ち勝てたんだ」
「…………。」
――真面目にやったおかげ。
その言葉に、胸の中に温かな灯がともった気がした。
私はきっと、ずっとそれを望んでいたのだ。
正直に、真面目にやっていけばいつか必ず報われる時が来ると。
今日のことが、その一つの成果だったのだろうか。
「……あの、ブラック」
「ストップ。そろそろソレ、やめないか?」
「え?」
「もう戦隊ヒーローごっこを演ることはない。だからこっちのおれの名前を呼んでほしいな」
「ああそう……じゃあ」
「うん、改めて自己紹介するよ」
やっとだな、と彼はベンチから立ち上がり、芝居がかった動作で礼をした。
「はじめまして。おれは、黒野広弥だ。紅樹里亜さん」
「そう。いろいろとありがとう、黒野くん」
「広弥でいいよ、同級生なんだし」
「じゃあ……広弥」
「うん、よろしく。樹里亜」
私たちは互いに握手を交わした。
天界での役者生活も合わせればそこそこ長い付き合いなのに、今更自己紹介なんてなんだかおかしい。
でも今、ようやく彼のことをちゃんと見れた気がする。
これまでの私は自分のことに精いっぱいで、他人を気にする余裕がなかったのだ。
「そういえば、広弥の家に行くって……」
「ああ、しばらくは避難ってことでおれん家に住んでほしい。両親にもOKもらったから」
「いいの?」
「いいも何も、おれにとっちゃ願ったり叶ったりだ。君と一緒に過ごせるんだから」
と機嫌よく笑う広弥を見て、はたと気付く。
そういえば、私のことが好きだと言っていたが……どうしよう。
正直、恋愛のことはよく分からない。
誰かを愛したいとか、誰かに愛されたいとか、そういう欲求は持っていなかった。
『生存欲求』というずっと下の次元でもがいていて、自分がそのステージに立てるとは思っていなかったのだ。
「あの、広弥」
「ん?」
「告白のことだけど、」
おそるおそる聞いてみると、彼はああ、とだけ呟いた。
「私、まだ貴方のことよく知らなくて、その」
「いいよ、分かってる」
しどろもどろに言葉をつなぐ私に、彼は首を振った。
「返事はいらないよ。ようやく顔と名前を認知してもらえたし……とりあえず友達から、どうかな」
と元ヒーローは照れくさそうに頬をかいた。
「……うん、わかった。ありがとう」
――黒野広弥はいい奴だ。
友情も愛情も知らない未熟な私にレベルを合わせてくれて、とてもありがたい。
私は安堵するとともに、心からの感謝を伝えた。
すると、広弥はびっくりしたようにこちらを凝視した。
と思ったら、すぐに両手で顔を抑えて下を向いた。
「……どうしたの?」
「いや、いま笑っ……ちょ、待って。落ち着くから」
「?」
はああ、と何度か深呼吸を繰り返した後、彼は天を仰いだ。
「はー……おれ、マジで生きててよかった」
「大げさね」
「いや、あのまま死んでたらめちゃくちゃ後悔するところだった。ホント、生き返ってよかった」
「そう?」
「そうさ」
ちら、と少し赤くなったように見える顔をこちらに向ける。
「生きてなきゃ、恋愛もできないからな」
『――それはどうかな?』
すると、頭の中に声が響いた。私は目を見開く。
――この声は。
『死んだ後も、恋愛はできるかもしれねーぜ?』
「は?」
刹那、土と雑草にまみれた地面が消え、足元に大穴が開いた。
風が吹きあがり、ひゅっと下に落下する感覚。
「っ樹里亜!!」
私は差し出された広弥の腕を咄嗟に掴む。
穴はあっという間に私たちを飲み込み、そして。
夜の公園から、学生二名は忽然と姿を消した。




